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憐れみの器 (ローマ9:19~29)

メッセージ

2013年10月27日富里キリスト教会

「憐れみの器」
(ローマ9:19~29)

1.私たちは器、神様は陶器師

ここに今回のバザーに献品された二つの器があります。一つは、立派な津軽塗の器でおそらく500円くらいの値打ちがつけられるのではないでしょうか。そして、もう一つは、景品のガラスのコップです。確か、一個20円と言う値札がつけられていたような気がします。5個で100円となっていました。同じ器ですが、こんなにも差があります。高価な器、安い器、きれいな器、汚れている器、いろんな器がこの世にはあります。私たちも同じように、神様に造られた一個の器であり、いろんな器があるように、いろんな人間が、この世に存在します。

そして、聖書では、神様は器を造る陶器師であり、私たちはその造られた器であると記されています。イザヤ書64:7にこういう言葉があります。「主よ。あなたは我らの父、私たちは粘土、あなたは陶器師。私たちは皆、あなたの御手の業。(We are the clay, you are the potter )」と。また、新生讃美歌の627番に「成なしたまえ汝がむね、陶作りわが主よ、われはただ汝が手の、うちにある土くれ。」と言う歌詞の讃美歌があります。

私たち人間は、どんな人も全て、陶器師である神様の作品なのです。その陶器が、自分を作ってくれた陶器師である主人に向かって「どうしてわたしをこのように造ったのか。」(9:20)と、文句を言うことは出来ないのではないかと、パウロは今日のローマ書9:20で言っています。

9:20節から読んでみます。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた者が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。」(9:20~21)とあります。人間が造り主に対して、どうして自分をこんな不細工に造ったのかと言う権限はないということです。神様は、御心のままに、背が高い人、低い人、髪の黒い人、金髪の人に造りました。私たちの体は、どんな体であっても、どんな運動能力であっても、すべては神様の創造の御手の業だということです。

私たちは自分の境遇や能力や顔かたちで、人と比較して落ち込んだりします。そして、自分の姿を嘆いたりします。いつも他人と比較して、落ち込んだり、喜んだりします。そして、ついには自分をそのような境遇に置いた神様や親を恨んだりします。しかし、大事なのは、そのような見せかけの自分ではないのです。器が問題なのではなく、その器に入っているものが問題なのです。パウロは、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並はずれて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(Ⅱコリント4:7)と言っています。

2.憐れみの器

もう一度、この津軽塗の御椀とガラスのコップを見ながら説明させていただきます。神様は、いろんな器の人間を造りました。そして、その中から、イスラエルの民をご自分の民として選ばれました。イスラエルの民には、特別に、律法という神様の大切な御言葉を与えて、これを守るように教えました。さらに神様の祝福を与えて下さり、どこに行っても神様が共にいて守ってくださるという約束まで与えました。他の民族と区別して、特別イスラエルの民だけを愛され、きれいに着飾ったのです。この津軽塗の御椀のように、特別扱いをして着飾らせて下さいました。

ところが、その美しくされた器が、造り主である神様に向かって、「どうしてわたしをこのように造ったのか。」と言って文句をつけたのです。イザヤ29:16(P.1106)に預言者イザヤが言った言葉があります。「お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工(陶器師)が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言い得るのか。『彼がわたしを造ったのではない』と。陶器が陶工に言いうるのか、『彼には分別がない』と。」

神様が、せっかくきれいに着飾らせて下さったのに、その神様に向かって、「神が自分を造ったのではない」とか、「神には分別がない」というようなことを平気で言うようになったのです。口では礼拝していながら、その心が造り主である神様から遠く離れてしまっていたのです。せっかく丹精込めて造り上げた器が、神様に向かって不平や不満を言うようになったのです。神の作品が、このようにしてねじ曲がり、ゆがんでしまい、失敗作になってしまったのです。そういう器を、陶器師がどうするかご存知ですか。失敗作、駄作は、主人である陶器師は容赦なく打ち砕きます。

神様は、陶器師、陶芸家です。ですから、このような失敗作をいつでも遠慮なく壊してしまう権限があります。せっかく、丹精込めて作った作品ではありますが、それを惜しむことなく、打ち砕いてしまうことができるのです。でも、陶器師である神様は、それを思い留まりました。造ったのは、自分の意図とは違う欠陥のある器になったけれども、それを打ち砕いてしまうことを良しとしませんでした。

どうしてでしょうか。もったいない、かわいそうだと思ったからです。神様の憐れに思う心から、それを壊すのを思い留まりました。憐れと言うのは、ただ単にかわいそうだと思うのではなく、心の底から心底そう思うことです。そして、その失敗作に対する怒りを、寛容と忍耐をもって押しとどめられたのです。そして私の作った作品ではないと言ったその場所で、その失敗作を自分の最高の作品として、大事に取り残して手に取って下さったのです。こうして取り残されたのが、「憐れみの器」なのです。たとえ、失敗作、欠陥作品でありましても、神様は私たちを見放されないお方です。私たちを見捨てることのなく、愛と忍耐をもってその失敗作を自分の作品として下さったのです。

その個所を読んでみましょう。ローマ書9:22節からです。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、ご自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神は私たちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出して下さいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。『わたしは自分の民でないものをわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。「あなたたちは、わたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。』」
                          (9:22~26)

神様は、これは自分の作った器ではない、失敗作だ、駄作だ、出来損ないだ、と言って、その場に捨てようとされた器を、逆に自分の器として愛し、生かして下さったのです。お前は私の産んだ子ではない、と言って親に見捨てられようとした者を、神は私の子として愛された者、わたしの民と言って抱き上げて下さったのです。その場所が、実はあのカルバリの丘、イエス・キリストが十字架につけられて場所なのです。あの場所で、神様は、すべての民を裁かれ、捨て去りました。自分の一人息子を殺したすべての人類を、裁かれ、見捨てられたのです。しかし、神様はその怒りと裁きを、失敗作であるわたしたちに向けられたのではなく、自分の愛する御独り子イエス・キリストの上に向けられ、御子の上にその怒りの裁きを下されたのです。

それがあの十字架です。全人類は、イエス・キリストと共に完全に神に見捨てられました。裁かれたのです。キリストを十字架につけたのは私たちの罪です。誰もこの現実から目を背けることは出来ません。しかし、罰を受けたのは、私たちではなく、神様御自身でした。神の子イエス・キリストが身代わりになって、神の怒りと裁きをその身に受けて下さったのです。ですから、お前は私の民ではない、と言われたその場所(カルバリの丘)で、生ける神の子であると言われたのです。

このイエス・キリストの十字架の上での贖いの死、私たちの身代わりになって下った死によって、あの呪いの場所、あの苦しみの場所が、私たちにとっては赦しの場所となり、神との和解の場所となり、神の愛の場所となったのです。それが、「わたしの民ではないと言われたその場所で、神の子と呼ばれる」ということの意味なのです。これが憐れみの器としての、私たちなのです。

そこにはユダヤ人も異邦人も区別はありません。津軽塗の椀だろうか、景品用のガラスのコップだろうが、差別はありません。皆誰でも、この神様の憐みの器なのです。打ち砕かれてもいい器が、貴重な器になったのです。捨てられてもいい器が、最高傑作の神の作品になったのです。それは、その器の中に神様の憐れみと愛が注ぎ込まれているからです。

3.憐れみの器の美しさ

A.「自分の欠点を知って、
神の前に自分の罪を告白する」

もともと失敗作です。いくら津軽塗のようになろうとしてもなれません。むしろ、自分の弱さや傷や欠けを、いつも認めること、意識することです。ガラスのコップが、きれいになりたいからと言って、漆を塗ってうわべを飾ろうとしても無理な話です。

ガラスのコップはガラスのコップのままです。淵が欠けていてもいいのです。曇っていても汚れていてもいいのです。あるがままの自分の弱さや欠点、罪や汚れを認めることです。そして、こんな自分でも神様が、憐れんでくださった、愛して下さったということを感謝し、いつも喜ぶことではないでしょうか。自分の欠陥や弱さを認めることは、なかなか難しいことかも知れませんが、その弱さを告白する時に、そこに真の美しさがあります。

B.他の器と比較をしない

こんな弱い欠点だらけの自分、生まれも良くない、見栄えもしない人間であっても、神様が良しとして下さり、イエス様にあって私を神の子と呼んでくださり、愛していて下さっているのです。こんなに神様に愛されている者が、どうして他の人をうらやましがったり、妬んだりすることができるでしょうか。目を他にやらない、隣に向けないでいつも上を向いていることです。

神様が、こんな自分をも本当に愛して下さっている。自分は神様に選ばれ、救われ、神の子としてもらっているという確信がないと、私たちの目は隣の人に向かって行きます。比べてしまいます。神様の憐みによって、愛されているという思いがないと、どうしても目が隣の人に向かって、比較したり、妬んだり、憎んだり、逆に自分を傷つけたりしてしまいます。そこには自分中心の神から離れた人間の姿があります。人に仕えるのではなく、相手を支配しコントロールしようとします。聖書はそういう私たちに、こう言っています。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。・・わたしの目にあなたは値高く、貴い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言う言葉を忘れないようにしましょう。

C.自分の弱さを通して、神の憐みを証する

私たち神の憐みを受けている者として、この神の憐みが流れ出て来るのは、むしろ、自分の欠点や弱さを通してであるということです。パウロも言っています。「もし誇らなければならないのなら、私は自分の弱さを誇ります。」(Ⅱコリント11:30)

私たちは、憐れみの器です。この不完全な器の中に、神様の憐みをいただいているわけです。ですから、この神様の憐みを人々に証し、分け与えようとするならば、むしろ、この欠点を通して、自分の弱さを通して神の憐みが流れ出るようにしなさいとパウロは言っています。この、ガラスのコップの中に、神様の憐みが入っています。この中の神様の宝物が、このコップを通して流れ出るとすれば、むしろこのコップの淵の欠けたところから先に流れ出すのではないでしょうか。

星野富弘さんの作品は、星野さんの弱さの中から出てくるような気がします。いつもこんな小さな花を見て、よくあんなすばらしい詩が出てくるなあと思いながら読んでいます。もしかしたら、星野さんが五体満足で、体操選手として何でもできていたら、あのような詩は生まれてこなかったのではないでしょうか。寝たきりだからこそ、体を全く動かすことができず、口に筆をくわえてでしか描けないからこそ、あのような詩と絵が生まれるのではないでしょうか。神様の憐みがあの詩歌集にちりばめられています。私たちも、このようにして神様に選ばれた憐みの器です。自分の弱さや罪を告白し、しっかりと神様だけを見上げて、自分の弱さを通して、大胆に神の憐みを人々に証しして行きたいものです。                          (岡田 久)

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