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愛は人を造り上げる (Ⅰコリント8:1~13)

メッセージ
2018年4月29日富里キリスト教会
「愛は人を造り上げる」
(Ⅰコリント8:1~13)
1. 偶像礼拝の具体的な事例

それでは一体コリント教会で、偶像礼拝として具体的にどんな問題が起きていたのかと言いますと、8章10節からみてみましょう。
「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席についているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その人の良心が強められて、偶像に備えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。」(Ⅰコリント8:10~12)

つまりどういうことが起こっていたのかと言いますと、教会のベテランのクリスチャンが、偶像の神殿で食事の席についていたというのです。この辺で言いますと、新勝寺でお祭りがあって、そこに町の役員をしていた教会の役員のような信徒の方が招かれて、本堂で宴会の席についていたというのです。ベテランの方は、しっかりとした信仰を持っていて、どこで食事をしようが、自分はもう神に救われ守られているから大丈夫だと思って、町内会の面々と一緒にお寺の本堂で席について食事をしていたというのです。

そこに、まだ信仰に入って間もない初心者のクリスチャンが入って来ました。「アッ、教会の役員さんが本堂で法要の食事をしている。クリスチャンでも神殿の中で偶像にお供えされた肉を食べてもいいんだ。」と思ってしまいました。そしてその役員さんの自由な信仰態度に刺激されて、そのまだ未熟なクリスチャンの方も神殿で食事をとってしまったとします。ベテランの方は、偶像なんてこの世に存在しないし、どんな肉を食べても問題はない、なんでそんなことでつまずくのか気が知れないと思って堂々と飲食をしているのです。当然、アルコールも入ったかもしれません。

そのベテランの信徒の態度をまねして、あまりまだ信仰の確信がないにもかかわらず、無理して神殿の席に自分もついて、偶像に備えられた食べ物を食し、お酒も飲んでしまった場合どうでしょうか。この信仰の弱い人は、まだ確かな救いの確信や神に対する知識がないために、後でふと考えてしまうことはないでしょうか。そして、自己嫌悪に陥ったり、自責の念にとらわれて、自分の良心を傷つけてしまうことはないでしょうか。そして、「ああとんでもないことをしてしまった、自分は偶像礼拝の罪を犯してしまった。」と言って自分を責めて、信仰から遠ざかって行くことはないだろうかと、パウロは心配しています。(リビングバイブルの方が解かりやすい)

However, some Christian do not realize this. All their lives they have been used to thinking of idles as alive, and have believed that food offered to the idles is really being offered to actual gods. So when they eat such food it bothers them and hurts their tender consciences.
Just remember that god does not care whether we eat it or not. We are no worse off if we do not eat it, and no better off if we do. But be careful not to use your freedom to eat it, lest you cause some Christian brother to sin whose conscience is weaker than yours.
You see, this is what may happen; Someone who think it is wrong to eat this food will see you eating at a temple restaurant, for you know there is no harm in it. Then he will become bold enough to do it too,
although aii the time he still feels it is wrong.
So because you “know it is all right to do it,” you will be responsible
for causing great damage to a brother with a tender conscience for
whom Christ died. And it is a sin against Christ to sin against your brother by encouraging him to do something he thinks is wrong.

                                              (1corinthian 8: 7-12)

そういう弱い信仰の人を傷つけてしまうことは、キリストに対して罪を犯すことなのですと戒めています。でもおそらく自由な信仰と自由な知識を持ったクリスチャンは、わたしは悪くありません、悪いのはそのような弱い信仰を持った人の方ですと言って、はばからないような気がします。

2.自由の履き違え

そのようにして信仰に確信がないまま、友人や教会につまずきを覚えて離れて行ってしまった人がいました。かつてのわたしでしたら、「それはあなたが悪い。あなたの信仰がないからだ。」と一刀両断に切り捨ててしまっていたのではないでしょうか。でもパウロは8:11で「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」と言っています。そういう弱い信仰の人、すぐにつまずいてしまうような兄弟姉妹のためにも、イエス・キリストは十字架に架かってくださったのです。イエス様はそういう人をも愛しておられるのです。そしてそういう人を、もしわたしがつまずかせたならば、それはとりもなおさず、わたしがキリストに対して罪を犯すことになるのですと言っています。

9節に「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」と戒めています。本当に信仰の知識をもって、自由な考え方を持っている人ほど気を付けなければなりません。自由とは何でしょうか。特にキリストにある自由とは何でしょうか。何でも自由にできることが本当の自由でしょうか。自分勝手に、気ままにふるまうことでしょうか。次の9章19節でもパウロは自由についてこう述べています。「わたしは、誰に足しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。・・・弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音の為なら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかるものとなるためです。」(9:19,22~23)

真の自由というのは、その人のために奴隷になることであると言っています。もちろん何でもいいなりになる奴隷ではなく、あくまでも福音伝道という視点で、本人を救いに導くための態度です。主体的な奴隷です。キリストの奴隷としての奴隷です。あくまでも主人はキリストです。キリストによって自由にされたが故に、その人の益を図ってあげることです。相手を生かすのです。相手を建て上げるのです。ですからもし相手がつまずくならば、その人がつまずかないように細心のそして最大の注意を払って生きるということです。

If we delivered from the power of worldly idles, and if we were given true knowledge by Jesus Christ, how do we use this freedom. How do we use this new spiritual knowledge. Paul said to us “Be careful not use your freedom lest you cause some weak Christian to sin. I have freely and happily become a servant of anyone to win them to Christ.”
(8:9, 9:19) The true freedom is to become a servant to others. We are
servants of Jesus, we are belong to Jesus. As a servant of Jesus we will be a servant to all freely and happily to built up them and to win them to Christ. This is the true freedom and true spiritual knowledge.

先ほどの神殿での偶像に備えた食事の件で言いますならば、パウロは絶対に肉を口にしないと言っています。もちろん食べても食べなくてもそれは自由ですが、そのように信仰の弱い人をつまずかせてしまう態度が出てしまうならば、その人のために自分は生涯、肉を口にはしないと言っています。相手のために益を図って、相手のためにすること、これがパウロの愛にもとづいた真の知識だというのです。そこで、もう一度今日の聖書の最初に戻ってみましょう。

3.愛と知識

「偶像に備えられた肉についていえば、『我々は皆、知識を持っている。』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、そのひとは、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(8:1~3)

これはコリント教会内の偶像礼拝の問題について訴えた人に対するパウロの答えなのですが、何で偶像礼拝問題に、知識とか愛の言葉が出てくるのでしょうか。
教会の外の偶像礼拝の問題というよりも、むしろパウロは偶像礼拝に対する教会員同士の認識の違いと信仰の程度の問題から、この偶像礼拝を取り上げています。つまり、この世の偶像に対する理解の程度の違いが教会の中にあるということです。そこから偶像問題が、お互いに亀裂を生みだしていたのです。

先ほど頼言いましたように、神殿で何食わぬ顔で食事をするベテランのクリスチャンは、神に対する正しい知識を持っていました。それが4節からに述べられています。「そこで、偶像に備えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいるように思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在しているのです。」(8:4~6)

これは素晴らしい知識です。神についての聖書的な理解をしっかり持っておられます。いろいろな神々は存在しないと言っています。わたしたちはそうは思っていても、そこまできっぱりと否定してすべてこの世の神々は偶像であると言い切れるでしょうか。でもこのベテランの知識を持ったコリントの信徒は、そう信じていました。素晴らしいじゃないですか。

しかも、この世には多くの神々がいるように思われてはいますが、真の神に対する知識を持っている人は、唯一の神しかいないことを知っています。唯一の神である父がおられ、万物はこの方から出て、やがてこのお方のもとに帰って行くと言っています。万物は神から出て、神へと帰って行くのです。唯一の聖書の神のみがこの世を支配して動かしているのです。そしてさらに、唯一の主なる神、キリストしかこの世に存在ません。そしてこの方によって世界も私たちも存在していると言っています。世界はこのイエス・キリストによって支えられているというのです。そういう確固たる神に対する知識と信仰を持っていたのです。

この唯一の神のみが存在しているから、だから我々は自由だ、この聖書の知識によって、この世の神々を決して恐れる必要はないのだと言っています。そこで堂々と、神殿の中での異教の神々に備えられた肉を食べているわけです。でもそのことによって、信仰の弱い人を滅ぼしてしまうならば、あなたの知識はいったい何なのか、空しいものではないかと言っています。有名なコリント13章の愛の賛歌の中でもパウロはこう述べています。「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい。」(13:2)

人間的な知識は、たとえ聖書の知識でも、キリスト教の知識でも本人を高ぶらせます。でも真に愛に基づいた知識は、自分を誇ったり自慢したりするのではなく、相手のために益を図ってあげるのです。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」といっています。ですから、愛のない知識は全く無に等しいのです。すべての行動の根底には、必ず愛がなければなりません。つまり相手を造り上げることです。自分を誇ったり、自分を主張したり、自分だけを高めるのは真の知識とはならないのです。愛に基づいた知識は、相手を高めるのです。相手を建て上げるのです。相手を造り上げるのです。

この造り上げるという言葉は、原語のギリシャ語では、「オイコドメオー」という言葉です。これは建築用語で、「オイコス」が「家」を意味しています。「オイコノモス」が管理人、「オイコメノー」が世界を意味しています。つまりこの教会堂の柱一本一本が、自分だけでは教会の建物ができないように、ほかの柱を必要としているのです。柱の一本一本が、お互いにしっかりと組み合わされることによって、がっしりと立ち上がるのです。地震や風や洪水が押し寄せてきても、壊れない神の建物が造られるのです。もちろんこれは目に見えない霊的な神の家のことを言っています。

The problem of idles in Corinthian church is not the matter of outside of the church but inside of church; it is the problem of older matured Christian who are boasting to the new Christians to show his knowledge and freedom to the weak ones. So Paul said “knowledge puffs up but love builds up”(8:1) the Greek word of “build up” is oikodomeow .This is an architectural terminology and oikos means a house and oikonomos means a steward. So we need other brothers as the pillow of the house need the other side pillows. Knowledge will
increase myself but love will increase the opponent. Knowledge is only for myself but love keeps the church firmly. For god loves us and reveal us his spiritual knowledge. So knowledge has a origin from love. Paul said “If I have all knowledge, if I have a faith that can move mountains, but if I have not love, I am nothing.” (13:2)At first God loved us , we should not forget God’s love.

そしてそもそも、知識のある人が、どこで誰からその真の知識を得たかと言いますと、それは神様が、その人を愛して下さって、無知な私たちに正しい真の神についての知識を与えて下さったからではないでしょうか。知識の源は、神です。唯一の神から出ているのです。そしてその神が、わたしたちを愛して下さって、御子を遣わされて真の神を示してくださったからではないでしょうか。わたしたちの真の知識の源は神です。知識は神様の愛から出ているのです。その神の愛があったから、真の知識を知ることができたのです。

神を知るということは、神に愛されているからこそできることなのです。ですから何事も、この神の愛を忘れてはいけません。相手に対する配慮を忘れてはいけません。相手を造り上げる愛による知識です。愛の知識です。愛の奉仕です。これが教会を造り上げる真の力です。この神の愛のゆえに、わたしたちは、わたしたちの自由を自分のために用いるのではなく、相手のために用いようではありません。自由にされたものとして、愛をもって人々に仕えて行くことです。相手を建て上げましょう。そういう努力をしましょう。それが共に福音にあずかる者の生き方ではないかと思います。教会の目指すところです。

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