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愛と預言

メッセージ

2009年9月6日富里教会
             「愛と預言
         (?コリント14:1〜4,23〜33a) 

1. 最高の道である愛を追い求めなさい
聖書に「求めなさい」という言葉が、いろいろ出てきます。例えば、「主を求めなさい」、「聖霊を求めなさい」、「愛を求めなさい」、「預言することを求めなさい」という言葉です。他にも「神の国と神の義を求めなさい」という言葉もあります。今朝のコリント人への手紙の中にも、「愛を追い求めなさい。」(14:1)という言葉が出てきました。クリスチャンであれば、誰でも愛に生きたいと思いますし、また愛の人になりたいと思います。愛がないと言われると、一番ショックを受けてしまいます。そしてまた、相手に愛があるかどうかが一番気になります。私達は神様の愛を、お互いに敏感に感じ取ります。

前の章の13:1からにこうあります。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」(?コリント13:1〜3)

ですから、どんなすばらしい説教しても、山を動かすほどの信仰があり、全財産を施しても、殉教のために命を捨てても、そこに愛がなければ、一切は空しいと記されています。どんなにすばらしい賜物を持っていても、そこに愛がなければ、それは自分を誇ることになってしまいかねません。一切を捨てて、献身しても、そこに愛がなければ無意味だと言っています。

では、愛とは何でしょうか。次の節に、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(13:4〜7)とあります。

そして、この最大の賜物である「愛を追い求めなさい」、とパウロは14:1で語っています。愛は誰でも欲しいです。愛の人になりたいと思います。クリスチャンなら皆そう思います。どうしたら、この神様の愛をいただくことができるでしょうか。どうしたら愛の人になれるでしょうか。それは、簡単です。自分を誇る傲慢の罪を悔い改めて、この愛を追い求めれば良いのです。人生は息を引き取るまで修行だと、先ほどのおばあちゃんは言いました。生涯、後から追いかけてくる自分の罪を、何度も何度も悔い改めて、この愛を追い求めればいいのです。必ず与えられます。私達は、まだまだ修行が足りません。すぐにあきらめる、人をねたみます、恨みます。すぐに自慢して得意になり、相手に失礼なことを言う。そういうふうに、馴れ馴れしくすることがクリスチャンだと勘違いしている所があります。私も何度も何度も神様から、自分のこの罪を悔い改めさせられました。

2. 人を造り上げる預言の賜物を求めなさい
14:1で「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」と言っています。私達は愛を追い求めることが大切ですが、特に教会では、「預言することを」熱心に求めることを勧めています。預言とは、「ノストラダムスの大予言」とかで、将来こういう大事件が起こりますということではなく、神の言葉を預かるという意味での「預言」です。
「異言を語るものは、人に向ってではなく、神に向って語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし預言する人は、人に向って語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語るものが自分を造り上げるのに対して、預言するものは教会を造り上げます。」(14:2〜4)

預言は英語では、「プロフェシー」と言いますが、3節にもありますように、人に向って語り、その人を励ましたり、慰めたりします。そして、ここでは「人を造り上げる」とか「教会を造り上げたり」します。この「造り上げる」というもとのギリシャ語は「オイコドメオー」という言葉で、建築用語です。「建て上げる」とも訳します。(「オイコス」が家、「オイコノメオー」が世界という意味。)ですから、建物のように私たちが互いに建て上げるためには、反対側の壁が必要です。相手の人、他のクリスチャンが必要であって、一人だけでは1枚の壁だけで、教会という家が建ってゆきません。

このように、預言は相手に向って語る、相手を励ます、相手を慰める言葉です。でも、異言は相手に向って語るのではなく、神に向って語り、誰もその意味を理解することはできません。相手を、反対側の壁を必要としないのです。相手の知性に訴え、その心に響いてこないならば、どんなに高尚な説教をして神学的にすばらしい説教をしても、それは単なる学術発表に過ぎません。どんなに声がよくても、聞く者の心に響いてこなければ、讃美ではなく、単なるコンサートです。どこが違うか、それは真の預言は神の霊によって語り、聞くものを励ますからです。異言は自分を喜ばす危険があります。

3. 心の罪を明らかにする預言の力
預言の賜物が必要な人は、メッセージをする人だけではありません。成人科に参加して、クラスでいろいろ分かち合ったり、話し合ったりする時にも預言の賜物が用いられます。クラスの中で、お互いに相手を励ましたり、建て上げたり、造り上げる作業が行なわれます。特に、預言には、隠されている人の心の中の罪を明らかにして、共に神の前に礼拝するように助けます。

14:23〜25を読んでみましょう。「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入ってきたら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入ってきたら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう。兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩篇の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。」(14:23〜26)

預言の目的と力は何か。それは聞く者の心の内に隠されている罪を明るみに出し、自分の罪を認め、神様の前に共に悔い改めて礼拝をするようになることです。ですから、この私の説教も、皆さんがたのショート・メッセージも、クラスの分かち合いや話し合いも、すべては霊の賜物である預言の力によって、お互いに罪を告白しあい、共に礼拝することにあるのです。これが教会のすばらしい霊の交わりであり、伝道の最前線になってゆくのです。私達は、この4月からそういう御言葉の預言による、霊的な交わりをし、伝道してきております。

4. 預言の賜物は誰にでも与えられる
最期に、私が言いたいことは、31節の御言葉です。「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」口語訳聖書では「あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、一人ずつ残らず預言をすることができるのだから。」現代訳は「あなたがたは、皆が神の御心についてかたることができ、それを代わる代わるして、皆がお互いに学びあいなさい。」となっています。

つまりこの預言の賜物は、牧師だけのものではないのです。牧師は礼拝の中での宣教の務めを教会から委託されています。でも、クラスや家庭集会、スモール・グループ、女性会、壮年の集い、祈祷会などでは、黙って話を聞くだけではなく、お互いに学び合い、語り合い、励ましあうためにみんなが話す必要があります。順番に預言の霊が働いて、代わる代わる説明をしたり、証をしたりしながら、お互いに語り合い、学びあうのです。これが真の教会の姿であり、この語り合いと交わりの中に神様が御臨在されるのです。そして、そこにいた新来者の方、未信者の方の心の秘密が明らかにされ、ここに神がおられると感じ、共にひれ伏して神を礼拝するようになるのです。

聖書に「あなたがたは一人残らず預言をすることができるのだから。」(31節、口語訳)とあります。預言は牧師の専売特許ではありません。皆さん方にも例外なく与えられております。もし、私にはないと思われる方がありましたら、求めて下さい。もしかしたら、今まで、求めて来なかったからかもしれません。「愛を追い求めなさい。特に預言の賜物を熱心に求めなさい」とパウロ先生は勧めています。相手を建て上げ、教会を建て上げるためにはこの預言の力が必要です。祈りましょう。愛と預言の賜物を求めて。
                                       (岡田 久)

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