ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

愛がなければ (Ⅰ コリント12・31〜13・13)

メッセージ

2010年3月14日富里教会
           「愛がなければ」
             (Ⅰ コリント人への手紙12:31〜13:13)

1.愛がなければ
13:1から読んでみます。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない。」(1コリント13:1〜3)

教会に与えられた霊の賜物として、神の言葉を取り次ぐ預言やすばらしい知識を持ち、山を動かすほどの信仰を持っていても、また、全財産を献げるような慈善活動をしても、自分の命を献げるほどの殉教をもってしても、そこに愛がないならば、一切は空しく、無益なものであるとパウロは言っています。つまり、賜物を生かすものとして、愛がその根底にないならば、意味がないのです。そうでなければ、いくら賜物があっても、それが皆がバラバラであったり、お互いに賜物の競い合いをしたり、反発をしたりします。

教会員一人一人が持っている賜物を結び付ける何かが必要です。皆に共通しているもの、個々の賜物の根底にあるもの、それが「愛」という賜物なのです。自分と他の人を結ぶもの、自分の賜物と他の人の賜物とを結びつけるもう一つのクリスチャンとしての共通の賜物が必要でした。ですから、この「愛」がなければ、どんなにすばらしい預言の賜物があっても、それは耳障りのするうるさい声にしか聞こえないのです。愛がなければ、山を動かすほどの信仰も無に等しいのです。どんなに献げても、どんなに命をかけて伝道しても何の益にもならないというのです。愛がなければ、すべての賜物は無なのです。

使徒言行録の5章に、アナニヤとサッピラという名の夫婦の話が出ています。二人は、自分の土地を売って莫大なお金を教会に献金しました。そして皆の前で、全部の土地を売った代金を教会に献げました、と公表しました。でもそれは、全部ではありませんでした。一部分でしたが、よく見せようとしてそう言ったのです。それにしても、相当な額の献金です。ところが、その夫婦は悲しいことに、神様を欺いたとしてその場で神様に打たれて死んでしまいました。(使徒言行録5:1〜11)

現代でも、こういうことがあります。音楽の才能をもった一人の女性の方がおりました。彼女は、ヨーロッパにまで行って留学して、教会音楽を学んできました。そして日本の教会に帰って来ました。そして「さあ、今日から私が毎週奏楽をしますから、皆さん安心して礼拝してください。メッセージに合った讃美歌を選びます。」すばらしい奏楽が、毎週聞かれました。でも礼拝が、メッセージよりはその人のコンサートのようになってしまったのです。すると、だんだん教会に来る人が減って来ました。

何が足りなかったのでしょうか。そうです。「愛」が足りなかったのです。自分の持っている賜物と、他の人が持っている賜物を結びつける「愛」という賜物がなければ、どんなすばらしい賜物でも、それは無に等しい、とパウロ先生は言いました。ですから、一人一人の持っているユニークな賜物の根底に「愛」という賜物がないならば、その賜物は生かされないのです。自分と相手を結びつける愛があって、初めて自分の賜物が生かされるのです。ですからパウロは、12:31と14:1で「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」「愛を追い求めなさい。」と言っています。もっと大きな賜物を、最高の賜物を求めなさい。それがなければ、どんな奉仕も働きも無に等しいのです。

2.愛はねたまない
13:4〜7までを読んで見ます。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」この最高の賜物、永遠に残るもの、私達が生涯かけて追い求めなければならない賜物、それが愛です。そしてその愛の中味として、具体的に二つの感情、八つの自己抑制、五つの心があげられています。

私たちは、愛というとすぐに良きサマリヤ人を思い出すことがあります。そして、あのサマリヤ人のように困っている人を何とか助けてやろう、救ってやろうと思います。そして一生懸命、愛の実践をするわけですが、なかなか相手がそれに答えてくれないと、かんしゃくを起したり、投げ出したりしてしまいます。先ほどの料理の達人もそうです。一生懸命皆のために、身を粉にして食事を作ってきました。それがクリスチャンの愛の実践だと思い、自分の賜物を最大限生かしていると思ったのです。

でも、パウロが言っている愛とは、自分をコントロールし、抑制することであると言っています。「ねたまない、自慢しない、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めない、いらだたない、恨まない」という心です。むしろ自分を徹底的に抑えるような態度、控えめな態度、これが愛であると言っています。

ですから、愛の賜物に生かされている人は、自分を生かすことを目標にして、賜物を最大限に発揮することに焦点を合わせるのではなく、自分を誇らず、謙虚になって、自分を抑えて、礼儀正しくし、相手に対して失礼のないように気配りすることです。私は以前、多少礼を欠いても、親しい言葉づかい、対等なふるまいをすることが、愛の証だと考えていた時がありました。礼儀正しくするのは、少し形式的すぎはしないかと考えていた節がありました。

でも、愛の賜物は、徹底的に自分を抑制し、コントロールすることのような気がします。「ねたまない、自慢しない、無作法をしない、自分のことばかりを求めない、いらだたない、恨みを抱かない」とあります。別な言葉で言えば、へりくだった人、謙そんな態度が愛の行為ではないかと思います。そして、常に神様と自分の関係をしっかりと持って、相手の態度や言葉に動揺せず、心を騒がせたり、いらだたせたりせず、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えること」ではないでしょうか。

3.幼子の信仰と成人の信仰
私たちの奉仕や伝道や教育の働きが、この「愛」という基本的な賜物、そしてこの絶対に不可欠な賜物を根底に持ち、その「愛」の心から出てくるものであるならば、何とすばらしいことでしょうか。しかし、そうでなかったなら、すべての奉仕はむなしいと言うのです。益とならない、逆に害であるとさえパウロは言っているような気がします。先ほどの、ピアノの達人も、こんなに一生懸命奉仕しているのに、なぜ皆が自分から離れて行くのだろうかと、理解できなかったと思います。

それは、愛がなかったからです。そして、不思議にもこの愛の賜物の有る無しは、本人は気がつきませんが、周囲にははっきりと知られているのです。本人だけが気づいていないのです。なぜか、それは、まだその人たちは霊的には幼子だったからです。幼子の特徴は、先日も話しましたが、自分の姿がまだ分かっていないと言うことです。自分の視点からしか相手を見ることが出来ません。相手の視点から自分を見る目がまだ育っていないのです。小さい子に、「この人は誰ですか?」と言って、その子のおじいちゃんを指差すと、「僕のおじいちゃん」と答えます。で、「じゃあ、君はこのおじいちゃんのお孫さんですね。」と言っても、「僕のおじいちゃん、僕のおじいちゃん。」としか言えないのと同じです。自分が見えていないのです。

ですから、自分の賜物を用いることだけ、自分の賜物を生かすことだけで精一杯なのです。自分が留学から帰って来て、礼拝でピアノを弾くことによって、今まで一生懸命練習して頑張って礼拝を支えてきた他の奏楽者の気持ちまで気が回らないのです。ですから、奏楽の奉仕の場がなくなった他の人たちは、顔では帰ってきたことを喜びながら、心では寂しさを感じ、教会を去って行きました。

8節から読んでみましょう。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた。」(13:8〜11)

パウロは、霊的な大人になった今は、幼子信仰を卒業したと言っています。私たちはもっともっと大人になるべきではないでしょうか。賜物のことしか目に映らないならば、その人はまだ幼子の信仰です。預言や知識や異言と言った賜物は部分的なものです。信仰がまだ幼子だった時には、そのような賜物のことで教会生活を送っていました。時には自慢したり、時には落ち込んだり、喜んだり、傷ついたり、まるで子供が泣いたり笑ったりしながら成長してゆくようなものです。

でも、もうそのような子供の信仰を捨てた、「成人となった今、幼子のことを捨てた」とパウロは言っています。私たちも、そういう泣き笑いの子供時代を卒業したいものです。早く、成人になって親になりたいものです。大人の信仰は、「自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めない」人です。ですから、たとえすばらしい音楽の賜物がありましても、神様の愛のゆえに、自分の賜物と他者の賜物をどう結び付けてゆくべきか、そこを考慮する必要があったのではないでしょうか。自分の利益を求めない徹底的な自己抑制、むしろへりくだり、謙遜の思いで共に、奉仕する方法を見い出したいものです。そんな信仰をもった大人になって行きたいものです。
                                           (岡田久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional