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悲しんで立ち去った金持ちの男 (マルコ10:17~22)

メッセージ
2018年2月18日富里キリスト教会

「悲しんで立ち去った金持ちの男」
(マルコ10:17~22)

1.何をすればよいのでしょうか

「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え、」と言う掟をあなたは知っているはずだ。』すると彼は、『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。』と言った。」(マルコ10:17~20)

マルコでは、「金持ちの男」となっていますが、マタイでは「金持ちの青年」ルカでは「金持ちの議員」となっています。ですからこの人は、相当なお金持ちであると同時に、議員でもあり、青年でもあったわけです。社会的にも、信仰的にも自他ともに認める立派な人物でした。社会からも尊敬されていた人でしたが、イエスのもとに走り寄ってきてひざまずいてイエスに尋ねました。一人の議員が、当時ではまだ一介の伝道者に過ぎなかったナザレ人のところに駆け寄ってきてひざまずいたのです。熱心でかつ敬虔な信仰態度を表しています。

しかもイエス様を「善い先生」と呼んで、教えを請おうとしたのです。彼は、イエス様を「善い先生」と言っています。そして「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねています。別な聖書(現代訳)ではこう書いてありました。「救われるためには、どんなことをしたらよいでしょうか。」と。英語では「Good teacher, what must I do to inherit eternal life?」つまり、「永遠の命を受け継ぐには、何をしなければならないのでしょうか?」と尋ねているのです。I must do の考えなのです。

“what must I do to inherit eternal life ?”he asked Jesus what must I do ? He may have a confidence to get an eternal life. So he may want
to have Jesus push the way and asked. Then Jesus answered to him that he should know the latter part of ten Commandments like do not kill, do not commit an adultery, do not steel, do not tell a lie and so on.
He answered that teacher I have kept all of these from a childhood. Precisely he was a perfect man without faults. Can you say that I have kept all of God’s order since I was a boy.

つまり何かをしなければ、わたしは天国に入ることができない、何か良いことをしなければ、わたしは永遠の命をいただくことができないと思っていたのです。一見、先生とか師匠と言われる人の前にへり下って教えを請おうという態度をとっていますが、このような質問をした本当の心はどうだったでしょうか。先週の祈祷会でも話題になりましたが、「この若い金持ちの議員は、なんでこんな質問をしたのだろうか?」と言うことが話題になりました。そして一見へりくだっているものの、こういう質問をするということはもう初めから、自分には自信があったのではないだろうか。もう自分は永遠の命を受ける権利を持っている、ただ最後にイエス様に尋ねてみて、太鼓判を押してもらおうという傲慢な気持ちがあったのではないだろうかと言う話になりました。

案の定、イエス様は、この青年に対して「それでは『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をするな、奪い取るな、父母を敬え』と言う掟をあなた知っているはずだ。」と逆に尋ねました。すると青年は、「待っていました」と言わんばかりに、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えました。まさに彼が期待していた通りの質問が、イエス様の口から出たのです。そこで彼はすかさず、「そういうことはみな、子供時から守ってきました。」と答えました。そんなこと、わたしは「子供の時から」守ってきましたよ、しかも「みな」ですから、全部と言うことです。一点の迷いも疑いもなく彼はきっぱりと言い切ったのです。自分は間違いなく永遠の命を受ける資格がある、と自信たっぷりに答えたのでした。

実は、彼は最初から、自分を善い者だと自認していたのではないでしょうか。後はイエス様にも、天国への太鼓判を押してもらいたかったし、当然そういう判定は出るだろうと期待していました。彼は自分を善い者だと自認していたのです。神以外に良い方はいないはずなのに、いつの間にか自分自身を善い者として、自分を神の座に置いていたのです。ですから、最初にイエス様が「神おひとりのほかに、善い者はいない」と言ったのです。

ここに彼の信仰の根本的な過ちがあったのです。といいますか、クリスチャンなら誰でも一度は通らなければならない罪の自覚のための神の備えたもう道があったのです。わたしたちは彼が、「what must I do to inherit eternal life」(=「どういうことをしたら、わたしは永遠の命を手に入れることができますか?」と尋ねたら、「信仰はそんな何かをしなければならないと言うことではないですよ」と、今でしたら答えることができるかもしれません。

でもどうですか?ともすると、私たちも何かをすることが天国へ入るために条件だと思ってしまっていることはないでしょうか。「あれをしなければならない。これをしなければならない。」「自分はあれをした、これもした、だから大丈夫だ」だからもう永遠の命を手にしていると考えてしまっていることはないでしょうか。また熱心に奉仕するあまり、何もしない人を軽視したり、見くびったり、貧しい人を見下げたり、小さい者や弱い人を退けたりしていることはないでしょうか。

This young rich man said to Jesus what must I do to get an eternal life and I have kept all of laws from a childhood perfectly. But this is an fundamental faults of this young man. He did not understand he is an incomplete man and a sinner. So he asked Jesus how to get an eternal life. He thought that the eternal life is a reward to complete something.
The eternal life is not to get and inherit but to accept and to receive like children. Jesus said to disciples “Anyone who will not receive the kingdom of God like a little child will never enter it”(Mark10:15) The eternal life is to receive and to accept not to do good things. The eternal life is one who is good not what is good. The good one is only one.

このお話の前には、弟子たちは子供たちがイエス様のそばに来ると、「先生は今忙しいから、子供なんかにかまっていられない。」と言って、つれてきた人を叱り、子供たちを遠ざけました。すると主イエスは、「子供のように神の国を『受け入れる人』でなければ、決してそこに入ることはできない。」(10:15)と言われました。ここに、この金持ちの青年の問いの答えがあるような気がします。

神の国(=天国=永遠の命)と言いますのは、善いことをして手に入れるのではなく、ただ「受け入れること」なのです。これが永遠の命なのです。手に入れるものでも、獲得するものでもなく、受け継ぐものでもありません。永遠の命と言うものは、この命そのものであるお方イエス・キリストを受け入れることなのです。

これが天国であり、永遠の命なのです。まさにマタイが書いているように、「善いこと」ではなく、「善い方(=イエス・キリスト)」の方が大事なのです。(マタイ19:17)。神様の恵みのプレゼントなのです。努力して、鍛錬して、競い合って手に入れる金メダルのようなものではないのです。私たちに与えられた無償の金メダルを、ただ子供のように受け入れるだけなのです。これが永遠の命をいただくための条件なのではないでしょうか。

2.あなたに欠けているものが一つある

この若い金持ちの議員は、一生懸命ですが間違った求め方をしていました。イエス様の言うことがよく理解できなかったようですので、主イエスは彼がどうしたら永遠の命を手に入れることができるかを悟るために、一つのアドバイスをしました。それが次の言葉です。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい。』その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(マルコ10:21~22)

主イエスは、「あなたに欠けているものが一つある」と言いました。一体何がこの青年には欠けていたのでしょうか。神に祝福され財産もあり、若さも将来もあります。そして信仰において自分の救いを求める点では、熱心でした。何一つない、完璧な生き方です。完全な生活と人生を送っていました。一体この人の何が欠けていたのでしょうか。

そこでイエス様は、彼にこう言いました。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と。ルカによる福音書では、「すべて売り払い」となっています。「まず自分の家に帰って、自分の有り余る財産のすべてを全部処分して、体一つになってイエスの弟子として一緒についてきなさい、そうすれば永遠の命が得られます」と言いました。ところがこの青年には、莫大な財産がありました。その言葉を聞いて、彼はとたんに気を落として、悲しい顔をしてイエスのもとを立ち去ったのです。

つまりこの金持ちの青年は、自分の財産を手放すことができなかったのです。親から譲り受けた、受け継いだ多くの資産によって議員になり、人々にうらやましがられ、尊敬され高い地位になりました。この財産によって、この人は人々の信望を集めていたし、自分自身もそれに頼っていたのです。ユダヤ人にとっては、財産のある人は単にお金持ちではなく、神様に祝福されている信仰の証でもあったのです。

彼の欠点がこの言葉によって、露呈されました。この金持ちの男の人生の基盤は、この財産だったのです。財産があったからこそこうして祝福された人生を生きてきたのです。彼はこの財産に心底頼っていました。お金持ちであればあるほど、あの貧しいラザロの友人のように、貧しい友人を見ても知らん顔しています。たとえ自分の友人や身内が貧困のどん底になって、苦しんでいてもびた一文恵んでやることもしませんでした。

彼は、永遠の命をいただいて天国に入るためには、善いことをして、悪いことをしない、律法に記されていることを忠実に守ることによって救いに入ると考えていました。そして、罪を犯さず、悪を行わず、きちんと神様の戒めを守って生活することが、天国への条件だと考えていました。そして当然自分は、そういうことをしてきたのだから、永遠の命にあずかる権利があると考えていたのです。
でも果たしてそうでしょうか。天国に入るということ、永遠の命を受け継ぐということはそういうことでしょうか。

Jesus taught him his only one thing he lacked. And said to him “Go sell everything you have and give to the poor”. Then he fell his face and went away sad because he had great wealth. Jesus let him understand his luck and his imperfection. The eternal life is not to get and inherit and gain but only to receive and accept like a child. This is the first time that he recognized himself as an imperfect man lucked man and sinner.

ここで私は、もう一人の聖書に出てくる金持ちの人物を思い出しました。それはあのザアカイです。取税人で大金持ちの人物です。ザアカイは、税金をかすめて悪いことをして自分の財を増やしていました。町の人からは嫌われ、売国奴呼ばわりされていました。そんなザアカイでしたが、ひと目イエス様にお会いしたいと思って、木の上に立ってこっそりとイエス様を見ていました。するとイエス様が、「今夜あなたの家に泊まることにしているから。」と言うのです。彼はびっくりして、急いで降りてきて自分の家にイエス様を迎え入れました。そしてそこで、財産の半分を貧しい人々に施し、不正をしていた人には償いをしますと言ったのです。(ルカ19:1~9)

ザアカイは、自分は永遠の命とか天国には全く縁もゆかりもない人間だと思っていましたが、イエス様を自分の家に迎え入れて、喜んで食事をしました。つまりこれが信仰なのです。こんな罪人、悪人とでも一緒に食事をしてくださるお方なのです。そしてこのお方、イエスキリストを無条件で受け入れることが永遠の命なのです。家に迎え入れるということは、イエス様を自分の心に迎え入れることを意味します。つまり、永遠の命を得るということは、あれをしなければならないとかこれをしなければならないとではなく、無条件でイエス様を自分の心にお迎えすることなのです。

そしてまた、幼子のようにイエス様のところへ行くことです。「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:14~15)これがこの富める青年の答えなのです。イエス様が言いたかったこれではなかったでしょうか。この青年に対して、「あなたは永遠の命は何かをすることだと思っているようだが、そうではないよ。この子供たちのように、あるがままに自分で私のところに来ることです。そしてわたしを無条件で受け入れることです。」と教えてくださっていたのです。これが、この青年に欠けていたことなのです。

3.悲しみながら立ち去った青年

この金持ちの青年は、イエス様の言葉を聞くと、「気を落として、悲しみながら立ち去った」と記されています。がっくりと来たのでしょう。肩を落として、顔を曇らせ、暗い面持ちで、悲しみの感情をいっぱい表して、イエスのもとを去って行きました。その姿が目に浮かぶようです。どうして彼はその時、「先生、わかりました。それでは家に行って今から財産を処分して福祉に寄付してきます。」と言わなかったのでしょうか。おそらく、彼はもったいないそれだけはできない、親から受け継いだ財産を勝手にはできないと思ったのでしょう。この時、イエス様は、慈しみの眼差しをもってこの青年に語られました。恐らく、悲しみながら主のもとを立ち去って行く青年の後ろ姿も見ていたのではないでしょうか。

ある人はこの青年は、若かりし日のパウロではなかっただろうかと言う人もいます。彼の悲しみは、自分は天国からは程遠い人間だということを悟ったのです。彼は初めて、ここで人生の挫折を味わいました。自分の本当の姿を見せつけられたのです。表面的には悪いことはしていない、いいことだけをやって来た。きっと天国へはいれると信じていました。でも自分のそういう生き方の基礎は、父親の財産にあったのだということを知ったのです。そしてそれを捨てることも施すこともできない、自分の弱さ、罪深さ、強欲さ、限界と言うものを悟ったのではないでしょうか。

Jesus may have been looking at his sad back walking down before Him. But I thought that sadness may open the new gate to enter the kingdom of God. Because a sad man knows his weakness and luck and inability and limit. So he is to receive and accept the God’s kingdom. Until now Jesus is looking at us with loving eyes waiting for us to come back to Jesus with a repented tears.

あのペテロがイエス様を絶対裏切らないと言いながら、三回も知らないと言って裏切った時の心境と似ています。ペテロも、そんな裏切りの言葉を吐いた後に、主の慈しみの眼差しに触れて、涙を流して泣きじゃくりました。(ルカ22:62)自分のふがいなさ、自己保身の自分、裏切り者の自分、自己中心の自分と言うものに初めて気が付いたのではないでしょうか。そのための涙だったのです。でもイエス様は、この彼の悲しむ姿を待っていました。自分の罪深さ、自己中心性、傲慢さと言うものに気が付くことを願って、このみ言葉を語られたのです。慈しみの眼差しをもって。

このような信仰的な悲しみは、天国への入り口です。永遠の命を得るための条件です。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)「神のみ心にかなった悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせます。」(Ⅱコリント7:10)去って行く青年の後ろ姿を見ながら、主の慈しみと愛に富んだ眼差しは、ズーッとその後の青年の生涯をも追い続けていたのではないでしょうか。やがて自分の罪を認めて、主の前にあるがままの自分、弱い自分、罪深い自分、不完全な自分、不十分な自分だということを知ったうえで、御前に出てきて主の命を受け取ることができるまで見つめておられると思います。そして、この慈しみに満ちた主の眼差しは、今も私たち一人一人の上に注がれているような気がしてなりません。  

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