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患難をも喜ぶ (ローマ25:1~11)

メッセージ

2013年4月29日富里キリスト教会

「患難をも喜ぶ」
(ローマ書5:1~11)

1.信仰から恵みの中に、そして希望へ

どうして私たちは、苦難を喜ぶことができるのかと申しますと、その理由が5:1~2のところに書かれてあります。「このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお蔭で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(5:1~2)

この1節から2節までの御言葉の中に、私たちの救いの三つのあり方が記されております。それは、まず第一に私たちは信仰によって義とされましたから、すでに神との平和をいただいているということです。もはや何も憂うことも心配することもなく、神様と和解を果たし、安心、平安の内に過ごすことができるということです。

更に、現在は神様からの一方的な恵みをいただいているということです。「このキリストのお蔭で、今は恵みに信仰によって導き入れられている」とあります。現在は神様の恵みのうちに置かれているということです。恵みの中にあるわけですから、どんなことが起こっても恐れることなく、神様の恵みだと思ってそれを受け止めることができるのではないでしょうか。

そしてその恵みはやがて、神の栄光にあずかるという希望にもつながっているのです。神様の恵みは、ただ単に神との平和をいただいているのではなく、未来に対する希望をも与えてくれるものであるということです。私たちはかつて、信仰によって義とされ罪赦され神との平和をいただきました。そして今現在は、その信仰によって神様からの恵みの中に生かされております。そればかりではなく、将来に向けての復活という確かな希望をもって喜びの内に生かされているのです。この過去、現在、未来に渡る神様の平和と恵みと希望の故に、神を誇り喜ばずにはいられないというのです。

内村鑑三という人はこう言っています。「喜びは信者の生命である。心の深きところに耐えがたき歓喜を蓄えない者は信者にあらず。信者は常に喜ぶ者である。喜ぶ時に喜ぶにとどまらない、患難の時にも喜ぶのである。信者は歓喜を持って患難に打ち勝つ者である。ただ患難に耐えるにとどまらない。患難を喜ぶのである。」と。

2.苦難をも誇り喜ぶ

パウロも5:3節から次のように言っています。「そればかりではなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺きません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(4:3~5)

「苦難を誇る」とあります。口語訳聖書では、「患難をも喜ぶ」となっています。わたしは「誇る」よりは、やはり「喜ぶ」という題にしました。私たちは誰でも、バプテスマを受けて信仰に入ってからも、いろんな人生の苦難に遭遇します。愛する家族との死別、会社の倒産、家族や親せきの問題、病気や人間関係などいろんな出来事が信じた後も起こります。そのような患難や苦しみに会わないようにして下さいというのが、祈りの内容ではないかと思います。ですから、新興宗教の方などは「どうしてキリスト信者は、患難を喜ぶのか?」と疑問に思ったのも解ります。

私なんかは、クリスチャンになってから、そしてまた牧師になってから多くの患難を体験させていただきました。でも今思うと、そのような患難も自分にとっては必要だったかもしれないと思うことがあります。詩篇119:71に「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」また、「わたしを苦しめられたのはあなたのまことのゆえです。」(119:75b)とありますとおり、どんな場合でも苦しみは単なる苦しみでは終わらないということです。必ず、プラスになり希望につながるということです。

それは、苦難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を与え、練達は真の希望につながって行くからです。苦難ばっかり続きますと、心もおれて挫けてしまうかもしれませんが、神様はちょうど良いように手加減して下さるし、苦難と同時に、必ず逃れの道も備えていて下さるからです。そして、私たちに我慢すること、忍耐心を養うようにしてくれます。「練達」という言葉の意味を辞典で調べてみますと、「鍛錬を受けて、その道に通じていること」とありました。

練達の「練」の字は、この聖書では「糸へん」ですが、口語訳の方は「金へん」の錬達になっています。これは、金属を高熱の炉で熱して不純物を吹き飛ばすということです。そのことによって、キリストにある純粋な新しい人格、品性に練り上げられてゆくことを意味します。熱い炉の火の中にじっと忍耐して耐え忍ぶことによって、不純な思いや考えが吹き飛ばされて新しい人格に練り上げられるということではないでしょうか。

そういう苦難や試練がないと、人間はいつまでもわがままで子供のような、未熟な人格しか持つことができません。苦難という炉をとおして、わがままな人が忍耐強くなり、高慢な人がへりくだるようになり、小心でいつも周りを気にして何もできなかった人が、逆に大胆になったりします。このような人の人格の変化を見ること、これが練達ということです。そして信仰の達人になって行きます。達人といわれる人は皆、苦しい練習や鍛錬を通して培われて来るものです。剣道でも柔道でも、達人は一朝一夕には育ちません。

パウロ先生もこう言っています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:4~6)またネヘミヤもこう言っています。「主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である。」(ネヘミヤ8:10)われらの救い主であるイエス・キリスト様を心から喜びたいものです。

いつも喜んでいなさい。すべてのことに感謝しなさい。どうしてこのことがクリスチャンにとって大事なことかと追いますと、私は、この喜ぶこと、感謝することが聖霊様に向かって心のスイッチを切りかえる時なのかと思いました。この5章でも、また先ほどの感謝の7章でも、その後に必ずパウロが聖霊について述べているからです。この喜び、感謝、賛美が私たちの心を聖霊様に向ける時ではないかと思いました。喜びや感謝の思いが、聖霊様が私たちの心に注がれている状態ではないでしょうか。

3.聖霊によって神の愛が心に注がれている

ですからパウロが、「希望は私たちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(5:5)と続けているのです。私は、この箇所を読んで初めて、聖霊という方がおられ、この聖霊様を通してしか神様の愛は私たちの心の中に注がれないのだということを知りました。ですから、いつも喜ぶことです。どんなことでもいやなことでも感謝することです。その時、私たちの心に神様の愛が注がれるのです。患難の中にあっても神様の愛で心を満たしていただくのです。その切り替えスイッチが喜びであり感謝ではないでしょうか。

神様は私たちにゆるぎない希望を持たせるために、あえて私たちを試練と苦難の道を通らせることがございます。しかし、その道なき道の中にこそ、苦難と困難の道こそ神様が私たちを養い訓練するために備えられた荒野の道であり、海の中の道ではないでしょうか。飢え渇いたり、おぼれそうになったりしながらも、そこで身につけた信仰と希望こそ、必ず実現する神様からの希望なのです。それ故に、私たちは幸せな時も苦難を経る時も、どんな時にも主を喜び、苦難をも喜んで受けて行くことができるのではないかと思います。喜ぶことにこそ、そこに私たちの力の源があります。苦難の時にも喜びましょう。いや苦難をこそ喜びましょう。苦しみに感謝しましょう。そこにこそ、聖霊様の働きによる私たちの救いの道があるのです。           (岡田 久)

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