悔い改めて福音を信ぜよ (マルコ1:1~14)
メッセージ
2018年1月7日富里キリスト教会
「悔い改めて福音を信ぜよ」
(マルコ1:1~14)
1.神の子イエス・キリストの福音の初め
1:1に「神の子イエス・キリストの福音の初め」という冒頭の言葉は、ちょうど新しい年2018年の最初の礼拝にふさわしい御言葉ではないでしょうか。元旦、新年礼拝、何もかもが新しく出発する時です。正月には恒例の箱根駅伝がありました。寒空に風を切って走り抜ける若者の一途な姿に、多くの人々が感動を覚えているのではないでしょうか。そして元気をもらうといいますか、よし自分も一生懸命ゴール目指して走ってゆこうという気持ちになります。でも選手たちにとりましては、レースが終わるとすぐにまた、来年の箱根を目指して練習が始まります。酒々井町にあります順天堂大学は、今年はもう一歩のところで、シード権を逃がしてしまいました。そして、正月が終わると同時に、来年の箱根を目指してすでに練習がスタートしています。いわば、ゴールとスタートは一つのものであるような気がします。そしてわたしたちクリスチャンにとりましても、目指すべきゴールはイエス・キリスト様です。そしてそのゴールを目指してすでにスタートが切られているのです。新しいスタートが始まりました。ゴールはイエス・キリスト様です。このお方を目指して、わたしもあの箱根の駅伝選手のように、今年も全速力で走ってゆきたいと願っています。
信仰はいつも初めなのです。たとえ途中で挫折してしまっても、コースを外れてしまって道を見失ってもいいのです。大事なことは、常に初めに立ち返ることです。いつもスタート地点に立つということです。初めに立ち返るということは、目的地であるゴールに目を向けるということだからです。創世記1:1「初めに神は天と地を創造された。」ヨハネ1:1「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」という最初の言葉と、このマルコ1:1「神の子イエス・キリストの福音の初め」が一致しているような気がします。ここに立ち返る時が、私たちにとっての初めなのです。そしてその福音の中身は何かといいますと、「イエス・キリストは神の子である」ということです。あのナザレの大工の息子、十字架に架けられ死んでまたよみがえられたお方は、紛れもなく神様の子であった、神ご自身であった、ここに立ち返るのが、私達のスタート地点であり、ゴール地点でもあるような気がします。
How do you start in this new year 2018? Someone may decide that I will read the Bible everyday,
or I will reduce my weight this year or I will walk 5,000 steps every day. But it may not keep long
time. But it's OK even if it is not keep going. I think that the faith is always in the beginning. Even
if you may be lost your way and be frustrated ,you can stand the start point in every time. Even if you may stop your plan and lose your confidence ,you need to stand the first step and return the start point what you want and you need. And our start point and goal is that Jesus Christ is the Son of God. That man who has been a carpenter of Nazareth and crucified on the cross and raised from the dead is the Son of God and the God himself. This is our start point in anytime and anywhere.
2.悔い改めのバプテスマ
マルコは、このキリストの福音の前に何が求められているのかということを記しています。イエスは神の子、メシアである、イエスはキリスト(救い主)であるという福音の前に、ユダヤ人に求められていることは何かといいますと、それは「悔い改める」ことでした。イエス・キリストがガリラヤで福音宣教の第一声を始める前に、求められていたこと、それが「悔い改める」ことでした。
「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶものの声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の許しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」(1:2~5)
ユダヤ人は、自分の心の中に罪の自覚が生じると、進んでバプテスマを受けて清めていただきました。ある人はバプテスマではなく、神殿に動物のいけにえを持って行って供え物をして罪の赦しと清めを受けていました。ユダヤ人は、罪を犯し、罪の自覚は生じるごとに、荒野のヨハネのもとに行っては水のバプテスマを受けていたのです。今、成田山はにぎわっていますが、おそらく同じような信仰を持ってきているのではないでしょうか。厄払い、事故防止、健康祈願、水子供養といった罪や汚れや厄を清めて払っていただくために人々は、関東一円から集まってきています。そしてお札を買ったり、お賽銭をしたりして行きます。
でもこのヨハネのバプテスマには、限界があります。罪の自覚が生じるたびに、いけにえを備えたり、バプテスマを受けて身を清める必要があったからです。毎年、成田山まで行かなければなりません。そこの場所に行って、ヨハネにバプテスマを授けていただかないと清まりません。でもヨハネ自身は、水を持って体の罪を清めるという自分のバプテスマの限界を知っていました。つまり水によるバプテスマの限界です。これでは、人間が生きている限り、何度も何度もバプテスマを受けなければならないからです。ヨハネは、人間そのものの持っている罪を完全に、たった一人の犠牲によって、一回の贖いで完全に清めて下さるお方を知っていました。それが神の子羊、イエス・キリストの到来であり、キリストの十字架の贖いのだったのです。
John the Baptist is preparing the way for Israelite. He came to the desert and preaching a baptism of repentance for the forgiveness of sins. Many people from Judea and Jerusalem came to John and being baptized by him in the Jordan river . But John's baptism is to repent their sins through the water .But he expect and prophesy the one who will give them a baptism through the holy Spirit.
John knew the one who will fulfill the perfect redemption through the one sacrifice and one time .
So he said I am unworthy before the one who will come after me .
3.聖霊のバプテスマ
ヨハネはこういいました。「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしは、わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は、聖霊でバプテスマをお授けになる。」(1:7~8)ヨハネは、水のバプテスマでしたが、その方は聖霊によってバプテスマを授けるというのです。水のバプテスマは、身を清めるという個々の実際に犯した罪に対して成されるものですが、聖霊のバプテスマは、その人の心の中にも働いて、すべての罪を清めてくださるものです。実際に犯した罪も、また行動には移していなくても、心の中で犯した罪までも完全に清める力を持っているのです。ヨハネの水のバプテスマとは雲泥の差があるバプテスマです。
聖霊が降る時、人は自分の一切の罪が明らかにされ、罪を告白せざるをえなくなります。心の内側にある隠れた罪をさえ、暴き出すのが聖霊の働きです。自分の知らない罪、隠している罪、意識していなかった罪さえも教えてくださいます。そして、その罪を赦し清めることのできるのは、聖霊の働き以外にありません。ですから聖霊によるバプテスマなのです。もし、わたしたちが自分の罪を隠したままで、バプテスマを受けたらどうなるでしょうか。やがて隠されていた罪がすぐに頭をもたげてきます。その人の生活は昔となんら変わりません。いやむしろ、前よりも悪い人になってしまうかもしれません。自分というものがすぐに頭をもたげてきます。他のクリスチャンと争います。競争します。生まれ変わっていません。
でも聖霊のバプテスマは、人間の罪を知らせるだけではなく、その罪を永遠に贖ってくださるのです。罪に勝利する力をつまり、人間の罪の贖いのために、神の御子イエス・キリストが来てくださり、わたしたち人間の罪の贖いとして、一回限り十字架に架かって、すべての人の罪を完全に贖ってくださったからです。神の御子イエス・キリストの贖いの業である十字架と、その罪と死に対する勝利のしるしとして復活された方の知らせ、これが福音の中身なのです。このイエス・キリストの言葉と業を記したのが、この福音書なのです。そしてこの福音が宣べ伝えられ、この福音を信じることを得させてくださるのが、聖霊様の働きなのです。誰も聖霊によらなければ、イエスは主である、イエスは神の子メシアであるとは告白できないからなのです。これが聖霊のバプテスマです。
それはユダヤ人も異邦人も変わりません。割礼の有る無しではありません。聖霊の教えるところに従って、生きるものの生き方です。聖霊のバプテスマには、心の中の隠れた罪のすべての罪が明らかにされます。これが聖霊のバプテスマの特徴です。自分のすべての罪を告白して、そこにイエスの十字架の贖いの恵みが注がれるのです。心に石を抱えたままでは聖霊のバプテスマにはなりません。心がおごり高ぶったままでは聖霊のバプテスマになりません。聖霊のバプテスマは、一人一人をへりくだらせます。素直にさせます。イエス様でさえ、「今は受けさせてほしい。」といってヨハネからバプテスマを受けました。
The baptism of the holy Spirit is working in the Name of the Father and the Son and the holy Spirit. This means that we will die with Jesus on the cross and then we will live with Jesus through the holy Spirit. Whenever and wherever we are we can confess and repent our sins in the name of Jesus. As soon as we pray in the Name of Jesus, our sins will be redeemed and purified and He will overcome the sins. Moreover the holy Spirit revealed our sins in our deepen heart. And the baptism of holy Spirit made us humble and submit like Jesus Christ.
4.悔い改めて福音を信ぜよ
1:15に主イエスはこう言って伝道の公生涯に入られました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と。この「時は満ちた」という言葉も、「神の国は近づいた」という言葉も、意味ありげな言葉です。「時は満ちた」は英語では、The time has come で、「神の国は近づいた」は、The kingdom of God is near となっています。何か、新しい時が始まるという予感を抱かせます。またその時に向かって、私達も心の準備をする必要があります。そのときが近づいているということです。つまり、これから新しい時代が始まり、新しいことが起こる、だからあなたがたは、心してその時に備えるように促しているのです。
パウロは他のところで「時は縮まっている」(Ⅱコリント7:29)といっています。これは、現在は切羽詰った危機的な状態にあるがゆえに、あまりこの世のことに関わりを持ってはいけない、この世のことで気を配り過ぎないようにと警告した言葉です。今の時代は、危機的な時代なのですから、いつ何時、まさかということが起こらないとも限りません。ですから、そういう時代に生きているものとして、心の準備をして目を覚ましていなさい。この神の福音を信じて、ひたすら祈りに専念していなさいといっているのではないかと思います。また、まだキリストの福音を信じていない人は、悔い改めてイエス・キリストの福音を信じなさいと訴えています。
悔い改めるということは、言語のギリシャ語では「メタノイア」といいます。心の向きを変えるということです。自分の罪を告白して悔い改め、自分の心をしっかりと主イエス・キリストに向けることです。方向転換です。これがイエス・キリストを信じるということです。キリストに目を向ける時、私達の罪が明らかにされます。それと同時に、キリストが私達の罪を身代わりになって背負って、十字架についてくださり、わたしたちの罪をことごとく赦し清めてくださったということを教えられます。これはすべて聖霊様の導きによるものです。この十字架と復活の主に目を向けることが信仰です。まっすぐに目を向けるのです。BSのアンテナのように、1度でも狂っていると神の顔が映りません。一部の狂いもなく、心を集中して主に向くことです。そのとき、わたしたちの罪がすべて赦されます。あの十字架のキリストに、しっかりと焦点を合わせるのです。いつもこの方に心を向けることです。これが私達の始まりであり、また終わりでもあるような気がします。スタートでもあり、ゴールでもあります。
To repent means to change the direction from me to Jesus. We have to fix our eyes to Jesus Christ repenting our sins. Then Jesus teach our sins and guide us to the right way. So please fix our eyes on Jesus straight .Don't distract your eyes aside, do not look at a neighbor. Look at Jesus Christ only.
Now the time is coming and the Kingdom of God is near .Pray constantly and stand on the Word
of God firmly and do not stop the meeting.
目線をはずしてはいけません。まっすぐに見つめましょう。わき目を振らずに、キリストにのみ目を注ぐことです。キリストを見ることです。これが新年の成すべきことではないでしょうか。新しい年の出発点です。今や時は満ち、神の国は皆さんのところに更に近づいています。この福音書を読む私たちに対して、時が迫っているが故に、早く主イエス・キリストを信じるようにと決断を迫っているような気がしてなりません。また信じている者も、ゴールでありスタートである主イエス・キリストに、もう一度集中してゆく年にしたいと願っています。