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悔い改めて、主に立ち帰れ (マラキ3:6~12)

メッセージ

2011年3月20日富里キリスト教会
「悔い改めて、主に立ち帰れ」
(マラキ書3:6~12)
1.神の愛に対する応答としての十一献金

今朝取り上げましたマラキ書は、旧約聖書の一番最後の預言書となっています。
そしてやがて来るべき、イエス・キリストの救いと最後の審判のなされる終末の時を預言しております。3:19~20を読んでみましょう。
「見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行なう者は、すべてわらのようになる。(主が)到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。」

やがて来るべき日には、地球規模で天変地異が起こるだけではなく、宇宙規模で星が落ちたり、天体が揺り動かされたりする事象が起こりますので、もはや避難の限界を超えています。(言葉で説明できません。)どこへも逃げられません。でも、その時こそイエス様が天から下ってこられ、選ばれた者たちを呼び集める時なのです。そのような天変地異、宇宙天体の異変が起こったら、いよいよ私たちの救いが近づいていると言うことを信じることが大切です。あわてる必要はありません。身を起こし頭をもたげて主の来るのを待つことです。

マラキはそういう主の日が近いことを預言し、神に選ばれたイスラエルの民は、今信仰を持って主に仕えてゆくべきことを訴えました。と言いますのは、この時代、イスラエルの民はバビロンの捕囚から帰ってきまして、新しく再建されたエルサレムの神殿で礼拝をしておりました。しかし、いつの間にか彼らの信仰はマンネリ化してきていたのです。まだ主が来ない、いつ来るかも解らないから自分たちのために財を蓄え、新しい若い妻を迎えて楽しくやろうという風潮がイスラエルの国に満ちていました。しかもそういう堕落と腐敗が、神殿を守るべき祭司たちから始まってきていたのです。これは私たちにもありがちなことです。神様の恵みと祝福を忘れて、自分のために財を築き、この世の快楽のみを求める生活に流れて行ってしまったのです。

当時、神様への献げ物としていけにえの動物が捧げられるのですが、その際に、律法では傷や病気を持っていない丈夫な最上のものを献げるはずなのに、彼らは目がつぶれたものや、足に傷があったり、病気の動物、あるいは盗んで来たものを持ってきて献げていました。いわば、余り物です。処分に困って捨てるようなものを、神殿に持って来ていたのです。そして、自分たちは最上のものを食べていました。そんなものを支配者である総督に献上してみなさい、総督は喜ぶだろうかと皮肉をこめてマラキは言いました。どんな人間でも、天皇陛下に献上すると言うのであれば、最高のものを持ってゆくはずではないか、なのにあなたがたは、そんな余り物を主である神に献げるのかとマラキは厳しく叱責しました。(1:8,13~14)

献げものというのは、まず神様が私たちに捧げてくださった最高の宝物である御子イエス・キリストという最高の献げ物に対する応答の行為です。神様が最高の献げ物である御子イエス・キリスト様という愛の賜物に対する私たちの応答の心、これが献げることの意味ですね。いわば信仰告白のようなものです。
貧しいやもめは、2レプタ(200円)を献げましたが、それは彼女の生活費の全部でした。これは神様の愛を受けて信じた者の信仰告白であり、忠誠心の表れであり、信仰の服従の行為だったのです。

昨日読んだ詩編の中にこういう御言葉がございました。
「わたしは(神)、献げ物についてお前を責めはしない。お前の焼き尽くす献げ物は、常にわたしの前に置かれている。・・たとえ飢えることがあろうとも、お前に言いはしない。世界とそこに満ちているものは、すべてわたしのものだ。わたしが雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでも言うのか。告白を神へのいけにえとしてささげ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それからわたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。」(詩編50:8、12~15)
この信仰の告白と罪の悔い改めこそ、神の喜ばれる献げ物だったのです。

2.神への感謝と証しの行為としての十分の一献金

十分の一の漢字は、什分の一と書きます。什器備品の「什」という字です。これは人べんと十の字が組み合わさった感じですが、よく見ると人間と十字架の二つからできています。つまり、「什一献金」と言いますのは、イエスキリストの十字架によって救われた人が、神に感謝しつつ、一つの目的を目指して生きると言うことを意味しています。つまり、人間がキリストの十字架と一緒になる時、それは神の器、神の道具として自分を献げるということを意味しています。

「什器備品」という漢字が示しているとおり、イエスの十字架と人が一緒になる時、文字通り、それは家具とか家財を表わしています。神の器、神の道具として自分の全生活を通して主を証しして行く生き方です。これが十一献金の本当の意味なのです。パーセントの問題ではありません。信仰生活のあり方を示しています。全身全霊全生活を通して神に献げて行く生活、そのしるしが什一献金なのです。

お金の問題だけではありません。十分の一とか、十分の二とかとかといった割合の問題ではないのです。献金の時間ではなく、献身の時間なのです。神様は、お金の額や割合を見ておられるのではありません。私たちの信仰を、私たちの心を、私たちの真実を見ておられるのです。

マラキは彼らをこう批判しました。「人は神のものを盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしのものを盗んでいる。あなたがたはまた『どうして我々はあなたのものを盗んでいるのか』と言う。十分の一と、献げものを持ってである。」(マラキ3:8口語訳)

3.試してみよ、神の祝福を

最後に、「じゃあ私たちはどうしたらいいでしょうか?」という問いに対して、マラキはこう言っています。3:10「十分の一の献げものをすべて倉に運び、
わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう。」(マラキ3:10)

愛の神様は、そんなにも私を疑うなら、試しに十分の一を献げてみなさいと言ってくださいました。余り物や残り物ではなく、神様から預かっているものの全てを感謝を持って告白し献げるつもりで、十分の一を献げてみなさい、とおっしゃったのです。神様は、お金が欲しいのではありません。神様が求めているのは、全てのものは神様のものですから、そういういけにえや献金や品物ではないのです。私たちの神に対する信仰の告白であり、感謝の供え物でああリ、神への全き服従と献身なのです。

その表れが、私たちの十一献金なのです。そうしたら、神様は天の窓を開いてあなたたちに神の祝福を限りなく注ぐとおっしゃって下さいました。これが信仰告白です。十一献金には大きなハードルがあるかもしれません。特に、御主人がクリスチャンでない方の場合には、様々の葛藤や戦いがあるでしょう。でも、その葛藤や悩みや信仰の戦いを通して、初めて経験する神様の大きな祝福、あふれるほどの恵みと言うものを体験するのではないかと思います。

万軍の主は、十分の一の献げものを持って私を試してみなさいとおっしゃっておられます。そして、「必ず」あなたがたのために天の窓を開いて、祝福を限りなく注ぐであろうとおっしゃっておられます。この神様の祝福の約束を信じて、真心込めて精一杯の信仰の献げものをしましょう。主が再び、この地上に立たれる日は間じかです。いつ主が来られてもいいように、信仰と感謝をもって主に仕えてゆくものとなりたいと願っております。     (岡田久)

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