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恵みが罪を圧倒する (ローマ5:12~21)

メッセージ
2017年5月7日富里キリスト教会

「恵みが罪を圧倒する」
(ローマ5:12~21)

1.四重の福音

先週は、すべての人は罪を犯して苦しみの中にあると言うことを学びました。そして、神様はそんなどうしようもない罪人を救うために、御子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、この十字架の贖いによって、すべての人の罪を赦された、これが「神の義」であると言うことを学びました。

そしてそれは、行いや律法を守ることによって得られるものではなく、ただ、わたしの罪の身代わりとなって下さった十字架のイエス・キリストを信じるだけで、義とされる、即ち罪が赦されて神の前に立ちことが赦されるということを学びました。これが「信仰による義」だと言うことを学びました。神が最初にイエス・キリストによる十字架の「神の義」を示され、それからその「神の義」であるキリストの十字架を信じるわたしたちが「信仰によって義とされる」とされると言うことです。決して信仰による義が最初ではなく、神御自身が第一に義なる方であるということであり、その神の義を福音の中に啓示されたと言うことです。ですから、もはや人間にはどこにも弁解の余地はないと言っています。

その信仰によって義とされたわたしたち、主を信じる者の幸いが5:1に記されています。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお蔭で、今の恵みによって信仰に導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」(5:1~3a)ここに信仰によって義とされた者の幸いが述べられています。

つまり「信仰によって罪赦された」と言うこと、そして「神との平和」をいただいていること、「今は恵みの中に置かれていること」、そしてやがて、「神の栄光にあずかる希望をいただいている」ということです。この四重の福音の中にわたしたちは置かれていると言うことが最大の幸せなのです。「信仰による義」「神との平和」「恵みの信仰」「栄光にあずかる希望」この四つです。ですからわたしたちは、人生の中で出会ういかなる苦難をも避けるのではなく、苦難さえも喜ぶという信仰を得ているのです。この四重の福音が、どんなに確実なものでありすばらしいものであるかと言うことを、パウロは最後にもう一度まとめて書いているのが、今日の5:12~21の御言葉です。

今朝はこの神様の救いというものがどんなに力強く、人間の罪を圧倒するほどのものであるかと言うことを、三つの段落に分けてお話してみたいと思います。
まず、第一に「人間の死の原因は何か?」(5:12~14)と言うこと、そして第二に、「罪の恵みの比較」(5:15~19)です。第三に「恵みの圧倒的な優位性」(5:20~21)についてです。

2.人間の死の原因は何か?

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は全ての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセの間にも、アダムと同じような違反を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。じつにアダムは、来たるべき方を前もって表す者だったのです。」(ローマ5:12~14)

「このようなわけで」というのは、今まで話してきたようにと言うことです。すなわち全ての人が罪を犯して神の前には義とされない、罪人だと言うことです。そしてパウロは、この一人の人あのアダムの堕罪によって、罪が全人類に入り込んで来ただけではなく、罪の結果である死もまた同じように全人類に入り込んだといっています。そしてすべての人が罪の中に置かれてしまったと同じように、すべての人が死の支配の中に置かれてしまいました。現に、わたしたちは全員、いつかは死を迎えます。これは誰にとっても明らかなことです。

しかし、人は死を恐れていますが、その死の原因となっている罪については無頓着です。死の原因が罪であるという正しい知識がないからなのです。パウロははっきりと、「一人の人アダムによって罪がこの世に入り、同じようにして死は全ての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」と言っています。あのアダムのエデンの園の中でも罪の出来事が、アダムの子孫であるすべての人類に及んでいるのです。そして神様が、罪を犯したアダムに対して「お前は最後には塵に帰る。」(創世記3:19)と肉体の死を宣言されました。ここから人間の死が始まったのです。もともと死ぬと言うことはありませんでした。

そしてアダムから始まって、キリストに至るまですべての人は罪の中におり、死もまた同じように全ての人を支配し続けて来たのです。そして、その罪の仕業を完全に「罪」だと宣言したのが、律法の働きでした。律法がなければ、人間は罪というものを知らなかったからです。

このようにして人間の罪や欲望に対して、誰かが「それは罪であり犯罪だ」と宣言しなければ、人間は悪いことをしていても、罪ではない罪人ではないと自分の正当性を弁護しようとします。そのようなことがないために与えられたのが、律法だったのです。神様がはっきりと、十戒で「姦淫は罪だ」「むさぼりは罪だ」と指摘しなければ、善悪の判断さえできない感情的な生き物になってしまっているのです。人間は罪の中にありますから、自分で自分を正しく見ることができません。律法ではっきりと「姦淫は罪だ」と宣言しているので、罪の自覚が生じるのです。それが律法の働きです。

そしてパウロは、この律法以前の人間、すなわちアダムからモーセまでの間に生まれた人間もまた、アダムの堕罪によってすでに罪の中にあり、死も支配していたと言っています。こうして全ての人は、このアダムの犯した罪の支配の中にあり、その結果としての死なのです。ですから、死を恐れる前に、わたしたちはその原因となっている罪を恐れなければなりません。そして、その死の原因である人間の罪の解決を早急に考える必要があります。この罪の解決がなされたならば、自ずと死の解決もできるのです。なぜならキリストの十字架は、罪と死と悪魔に勝利されたからです。(Ⅰコリント15:55~57)

3.罪と恵みの比較

次にパウロは15節から21節まで、このキリストによるところの恵みの賜物と、アダムの罪の支配を比較して述べています。しかも七回も、繰り返し、繰り返し語っています。15節では「一人の人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、一人の人イエス・キリストによる恵みの賜物は多くの人に豊かに注がれます。」と言っています。次に16節では、「裁きの場合には一つの罪で有罪判決が下されるが、恵みの場合には多くの罪があっても(イエス・キリストを通して)無罪判決が下されます。」と言っています。17節では、「一人の人の罪によって、死が支配しますが、恵みと義の賜物の場合には、一人の人イエス・キリストを通して命を受けて支配するようになります。」となっています。

18節では「一人の罪によって有罪判決が下されましたが、一人の義人によって全ての人が義とされて命を得ることになります。」と言っています。19節では「一人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」と言っています。20節はまとめの言葉のようですが、「罪が増し加わったところには、恵みもなおいっそう満ちあふれるのです。」と言っています。そして最後に21節では、「罪が死によって支配してたように、恵みも義によって支配し、イエス・キリストを通して永遠に続くのです。」と結論付けています。

パウロは、何度も何度も同じようなことを繰り返し述べています。そのことを20節の言葉が結論づけていますが、「罪の増し加わったところには、恵みがますます満ちあふれた。」という一言に尽きるような気がします。つまり、どんなにアダムの罪が大きくて全人類に影響を及ぼしていても、このアダム以来、何千億人という人類の罪を、たった一人の人イエス・キリストによって帳消しにするということは、いかにこのイエス・キリストを通して示された神の恵みのプレゼント(賜物)が大きなものであるかと言うことです。この桁外れの、比較できないほどの神様の恵みのプレゼンの大きさと影響力を訴えているのです。

これほどパウロが、口を酸っぱくして、神様の恵みの賜物であるイエス・キリストの救いを訴えても、人間は罪の暗闇の中にうごめいてその光と命のプレゼントが解らないでさ迷っているのです。そしてそれは誰にでも差別なく、イエス・キリストを信じる者には無条件で与えられる神様からの恵みのプレゼントなのです。この恵みの大きさがどんなものであるかを、パウロはなんとしても訴えたかったのです。

4.恵みの圧倒的な優位

「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」(5:20)とあります。今週の暗唱聖句にもなっているこの5章のキーワードです。でもこの言葉にどこかおかしいところはないですか。罪が増すところに、恵みがいっそう満ちあふれたとあります。

普通は、罪が増したところには、苦しさがいっそう大きくなったとか、罪が増したところには、徹底的な裁きが下されたとなるのではないでしょうか。あるいは、反対に言ってみますと、恵みが増し加わったところには、罪が姿を消したとか、罪が減少したとなるのではないでしょうか。そのように信仰を理解している人もいるかもしれません。罪と恵みは相反するものであると考えている人はいませんか。両者相対立していて、片方が大きくなると片方が小さくなるというのが常識ではないかと考えている方もいると思います。

しかし、パウロはそうは言っていません。そうではなく、罪が増し加わったところには神の恵みはますます満ちあふれたと言っているのです。わたしたちは自分はクリスチャンだクリスチャンだと言っていながら、ともすると自分の罪の大きさには気がついていないのではないでしょうか。じつはわたしたちは、信仰とはあくまでも罪からの救いであるにもかかわらず、罪の自覚が薄いのです。あるいはもう自分には罪はなくなってしまった、聖められた者だと勘違いしている人はいないでしょうか。むしろ私たちは、信仰が育って来るに従い、自分の罪の大きさを以前よりももっと大きく感じて来るのです。いかに自分のこの心、肉体の中に罪がうごめいているかと言うことです。それをパウロは7章で論じています。自分の罪について無頓着の人を、わたしは信仰の薄い人だと言ってもいいのではないかと思います。

生前イエス様は、主の晩餐式の時に弟子達の足を洗いながらこう言いました。「もしわたしがあなた足を洗わないなら、あなたはわたしと何の係わりもなくなる。」(ヨハネ13:8)と。今、わたしとイエス様は、主がわたしの足、即ち罪に汚れを足を洗うことによってつながっているというのです。これがイエス様とわたしたちの絆です。もし「自分の汚れや罪はもうありません」という人は、今日の主の晩餐式にあずかる必要はありません。よく、「わたしは罪に汚れているので、主の杯を受ける資格はありません。」と言って、拒む方がいますが、それは間違いです。むしろ資格がないからこそ、受けるに値しないほど罪に汚れているからこそ受けるべきものなのです。悔い改めの心を持ってです。それが主の晩餐式にあずかる者の真の姿です。

一人の友人の牧師が、教会を辞めてしばらくたったある日のこと、わたしの教会に遊びに来てくれました。そして、玄関に置いてあった備え付けの讃美歌を見ながら、こう寂しげにつぶやいたのを覚えています。「ああ、教会の備え付けの讃美歌や聖書、どこにでもあるありふれた光景だな。でもあの時は、もうこの讃美歌も聖書も見たくはないと思ったほど苦しかった。でも今こうして、少し元気になってみると、教会の備え付けの讃美歌を見て教会を懐かしく思うようになれた。神様はいつも自分を恵みの中に置いていて下さったのに、自分の方がその恵みを忘れていたんだなあ~。」と。

こうして毎週礼拝に来ることのできる恵み、愛する兄弟姉妹が与えられていることの恵み、この恵みはもう二度と帰って来ません。どんなに辛くても罪に打ちひしがれていても、キリストのからだである教会を離れてはいけません。なぜならここは恵みの場だからです。イエス様の恵みが満ち溢れている所なのです。そしてもう一度経験したいと思って振り返っても、二度と帰って来ることのない恵み瞬間、瞬間なのです。ですからわたしたちは、今日のこの恵みの今という日を精一杯生きるのです。

たとえ罪があっても、主の恵みはそれを超えてはるかに大きいのです。こうして主の恵みはわたしたちのうちに満ちあふれて、永遠の命へと導いて行って下さるのです。最後に5:21の御言葉を読んで終わりにしたいと思います。「こうして罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(5:21)

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