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心の貧しい人は幸いなり (マタイ5・1〜12)

メッセージ

2010年4月18日富里教会
「心の貧しい人は幸いなり」
                      (マタイ5:1〜12)

1. 心の貧しい人々

若い頃は、この教えが良く解りませんでした。普通、幸いな人というのは貧しい人ではなく、富んでいる人のことではないかと思いました。ましてや、心が貧しいということはどういうことだろうかと、不思議に思いました。また、クリスチャンだったら、心がカラカラに渇いて、がつがつしているような人よりも、むしろ、心豊かにゆったりと何事にも余裕を持って生活している人の方が、クリスチャンとしてふさわしいのではないだろうかとも思いました。ですから、これは「心の豊かな人は幸いである」の間違いではないかとも思ったほどです。

確かに英語の聖書を見てみますと、「Blessed are the poor in spirit」となっています。この「ザ・プア=the poor」という言葉は、貧しい人々と言う意味ですが、原語のギリシャ語で見てみますと、もっとひどい言葉です。「プトーコイ」という言葉ですが、乞食のような人、貧乏、倒壊、死骸と言う意味もあります。これは「極貧の非常に貧しい生活をしている者」という意味で、更に「物質的に貧しいだけでなく、世間からも圧迫され失望し、神の助けを必要とし、これにより頼むしか生きて行けない人々」、と書いてありました。これが、心の貧しい者と言う本当の意味なのです。

ですから経済的には困っていても、心だけは清く正しくと言うようなものでもないようです。経済的にも肉体的にも精神的にもどうしようもなく、もう死を待つしかないほどに打ちのめされ、絶望して死にかかっている人ということです。そういう人々が幸いである、とイエス様は教えられました。

また、「心」と訳している言葉ですが、原語のギリシャ語では「プニューマ」(=英語Spirit)となっています。つまりもともとは、心ではなく霊という意味です。人間の一番奥深いところにある「霊」の部分において絶望している、貧しくなっていると言う意味です。聖書では人間は「体」と「心」と「霊」の三層構造から出来ているといわれています。ですから、その一番奥の深いところにある霊の部分において貧しい人、霊が欠乏して、死んでしまっている者は幸いであると言うのです。

そのように、自分は何か欠けていて、本当に生きているという実感が持てずにいる人。人生を空しいものだと考えている人、生きるとは一体どういうことなんだろうかと、心の中に飢え渇くような思いを持っているものは幸いだと言っているのです。天国はそういう人のためにありますと、イエス様は説きました。

2. 幸いな人

原語では、この教えの一番最初に「幸いなるかな!」と言う言葉が来ています。そして、その後に、「心の貧しき者よ、天国は汝のものなり!」という言葉になっています。ですから、イエス様は静かにこの教えを垂れたのではなく、大きな声で、感極まったようにして、「ああ、幸いなるかな心貧しき者よ!」と宣言しているわけです。この世界で幸福な者はお前以外にいない、心貧しくして、自分の心の中に何も持たずに、ただただ神の力だけを頼りにしている者は、ということです。

聖書の幸福感は世の様々な宗教が追い求める人間の幸福感とは全く相容れないものがあるのではないでしょうか。「心の貧しい者が幸いだ?悲しむ人々が幸いだ?」と最初の二つの教えを聞く限りにおいて、大部分の人々が、拒否反応を起すのではないでしょうか。そして私たちも、もし、この世的な幸福を求めて、キリスト教を信じてもそれは本当の信仰ではないと思います。

本来、人間の霊は、神様から息を吹きかけられて神様と交わることのできる存在でした。それが、あのエデンの園において神の御言葉に背くことによって、神様との交わりが断たれました。それ以来、人間の霊は神のもとを離れて、流離うようになったのです。ですから、人間は、本来自分が出てきたお方、すなわち神様のもとに帰らない限り、人はさ迷い、不安定で、心には常に恐れを持って生活しているのです。そして、何か外見的なことで、他の人より秀でることによって幸福感を感じるという、比較と競争世界の中に置かれてしまいました。他人より優れていれば、幸福になり、他人より劣っていれば不幸になるという悲しい存在になってしまったのです。

信仰の面でもそういうことがあります。一生懸命努力して何かを手に入れることが宗教的に良い事だと考えることがありました。私はそういう時にいつも思い出すのが、あの一人の富める青年のお話です。宗教的にも社会的にも何の落ち度もない完全な金持ちの青年が、イエス様のところに来て、「先生、永遠の命を得るためにはどんな良いことをすればいいでしょうか」と言いました。そこで、イエス様が、「もし完全になりたいのなら、行って、持ち物を売り払い、貧しい者に施しなさい」と言いました。そうしましたら、その青年は突然、顔を曇らせ、悲しみながら主のもとを去ってゆきました。なぜならば、その青年はたくさんの財産を持っていたからでした。(マタイ19:16〜22)

このお話では、青年の悲しむ姿が私の脳裏に浮かんできました。「かわいそうに、自分の財産を手放せなかったんだ」と思いました。「天国から締め出されてしまったんだな」と、瞬間思いました。でも、その時に、この山上の垂訓の二番目の教え、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」という教えを思い出しました。そうだ、イエス様は、本当はこの青年を愛しておられて、この青年が、自分の貧しさ、すなわち、財産を手放すことが出来なかったという、自分の弱さ、限界、汚さ、傲慢さ、自分の罪に、気づくのをイエス様は待っておられたのだなあと思いました。悲しんで、ガックリと肩を落として帰って行った青年は、きっと後で、自分の霊的な不完全さ、貧しさ、欠点というものに気が付いて、イエス様のもとに帰って来るに違いないと思いました。

多くの人々は、物質主義に駆り立てられて生きています。何かを獲得することこそ、現代人の望みであり目標です。飽くことを知らないこの人間の持ち物への衝動は、人より多く所有することで、幸せになり、人の賞賛を得ることで、幸福感を味わいます。この青年は地位も財産もありました。あとは人々の賞賛でした。良い行いをしたといって人々に認めてもらうことでした。でも、イエス様に言われて初めて、自分の心の中を覗き込んだのです。そこには、財産への固執、うぬぼれ、見せかけの道徳といった自分のどす黒い罪が見えたのです。そして、彼は自分の心の現実に気がついて、自分の境遇を生まれて初めて悲しんだのでした。

ようやく、自分の心の貧しさにも気づいたのです。そして悲しみました。本当の幸福、それは、天国に入ることですが、具体的には、自分の汚れを知り、自分の欠点を知り、また自分の霊的な不足を認め、イエス様の完全な御支配の中に入ることです。天国というのは、罪を赦して下さるイエス様の愛の支配にはいることです。そして、神様の目的に従う生き方に方向転換をすること、それが、最高に幸せな人生ではないでしょうか。

3. 天国はその人たちのものである。

最後に、天の国というのは、ギリシャ語では「バシレイヤー・ツー・ウーラノーン」と言います。直訳しますと、「天の権威」という意味です。天国のことを日本語でも別名「神の国」と言いますが、これも原語では「神の権威」と言う意味です。つまり、国といいますのは、どこかの領域を指すのではなく、神様の権威が及ぶ領域と言うことです。換言しますと、私たちが神様の権威に従う時、そこに神の権威が影響を及ぼす領域が存在するということです。これが天国です。神の権威に服従する領域ということです。

そして私たちが、心から自分の霊的な貧しさに気がつき、神様の助けを祈り求め、まず私たち一人一人が神様のご意志に忠実に従うところに、人生の幸せがあります。そして、そこにすでに、天の国が実現しているのです。そのためにも、まず私たちが自分の霊的な乏しさ、神様からかけ離れていること、自分のうちには何も誇るものがなく、霊的にはまるで、道で野垂れ死にしそうになって倒れている哀れなものであると言う事に気がつくことです。

そういう人こそ、自分の力ではなく、ただただ神の憐れみと助けにすがらなければならない人間です。そういう人こそ幸いな人間だと主は宣言されました。そういう人そこ、神の支配、神の権威のもとに依りすがらなければ生きて行くことはできません。それが「天国はその人たちのものです」という主の言葉の真意ではないかと思うわけです。そこにはもはや、自分というものはありません。また、あの人という他人を恨む気持ちもありません。ただ主の愛の中に生かされていることを感謝する生活です。主の権威のもとに従うことの喜びしかないのです。

つまり、聖書で言っている天国と言いますのは、どこか、雲の上か天上かにある世界というよりは、むしろ、神様の支配、神の力の及ぶ範囲のことをいいます。それは自らを空しくして、霊的に乏しく、欠けた者として、へりくだって、素直に主の御言葉に耳を傾けるところから始まる世界ではないかと思います。                                         (岡田 久)

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