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心の割礼 (ローマ2:17~3:8)

メッセージ
2021/5/16
富里キリスト教会礼拝説教
「心の割礼」
(ローマ書2:17〜3:8)

①有言不実行
ローマ書の連続講解も1ヶ月ほど進んできましたが、みなさま感想のほどはいかがでしょうか。恵まれているでしょうか?本音を言うとそうでもないと言う方もおられるかもしれません。その気持ちもよくわかります。それは、もちろん私の力不足という前提があるとは思いますが、聖書テキストの内容が罪について語られているからでしょう。しかし、申し訳ございませんが罪シリーズは異邦人の罪、神の裁きの原則、そしてユダヤ人の罪とまだまだ続きます。
先週は、神にえこひいきなし。善を行うものが義、悪を行うものは神の怒りと苦しみが下る。その原則にユダヤ人も異邦人も関係ないよ。そういうお話でした。ここまでは特に誰に対してという特定の固有名詞はでてこず、あなたはという二人称単数の呼びかけがあり、それゆえこの箇所はまさしく自分自身に語られていると受け取りやすいかもしれません。
しかし、ここからいよいよパウロは本当に伝えたかった対象であるユダヤ人に対して、名指しでロックオンしていきます。ユダヤ人よ、だからお前たちは罪人なのだ。そのように切り込んでいきます。一体ユダヤ人にはどのような罪が明らかにされたのでしょうか。またユダヤ人は自分たちのことをどのように思っていたのでしょうか。

ローマ2:17−20
「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り。神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。」

ユダヤ人の自負、誇りは律法を知っている、語っているといったところにありました。神の真理を私たちだけがわかっているのだ。暗闇の中にいるなんにもわかっていない異邦人たちに、どらどら私たちが教えてやろうか。そういった高み、上から目線で他民族を見る高慢がそこにはありました。これは裏を返せば、自分たちだけはちゃんとできているという前提が彼らの中にあったことを表します。
しかし、パウロはその前提を粉々にぶち壊します。いや、お前たちは口では言っているけど実行はしていないよ、と。お前たちは律法を守っていると自分を誇るが、むしろ破って神を侮っているのだ。そこまで言います。パウロは相変わらず厳しいですね。正直、ちょっと友達にはなりたくないなぁとか思ってしまいます。しかし、パウロが言っていることは事実ではありました。
律法とは、罪の律法、行動の律法と言われるように行動の原理、実行されるべき神の意志です。神様が私たちに守るようにと示された要求です。ですから本来、律法は拘束力をもち聖なるもの、よいものであります。そしてユダヤ人はその正しいものである律法を守っているから自分たちは正しいと思っていました。しかし残念ながら罪ある人間は律法を完全に守ることはできません。それはユダヤ人とて例外ではないのです。なのに自分たちはできていると高慢にも誇っている。さらには、自分はできていないのに周りにはやれという。これは大問題ですね。
有言実行という言葉がありますが彼らは有言不実行なのだとパウロはいうのです。一番いいのは不言実行、次に有言実行、そして不言不実行、最後に有言不実行。これが一番よくないと神学校の先生が申していました。お前たちは口だけだ。そこまでユダヤ人はけちょんけちょんに言われてしまいます。しかし、人はそこまで言われないと自分の罪に気づかないものなのです。
このユダヤ人を見てみなさんは、愚かだなぁと思いますか。もし、そうならばこのパウロの言葉は自分に向かってブーメランのように返ってくることでしょう。なぜなら、これはすべての人間に突きつけられた言葉だからです。人は皆、自分の罪は棚に上げて人にやれというのです。
特に牧師に対しては突きつけられる言葉でしょう。私も説教の準備をしながら「どのツラ下げていってんの?」と自問したくなることもあります。しかし、それでも語ることが神様に召され、教会に託された私の使命であります。有言不実行ではないかと自問しながらも語っております。しかし、私もできていない、だからこそ共に主に取り扱っていただきましょう。神様の恵みを共にいただき続けましょう。そのように思いながら語っております。できていないことをわきまえて語るならば主はきっとゆるしてくださるのではとも思っています。
しかし、そのような思いを踏まえないのであれば、それは、もうまさにその牧師はユダヤ人となってしまうでしょう。その姿はまさしく神を侮っているのです。牧師だけでなく、クリスチャン一人一人も同じです。どうでしょうか。私たちはユダヤ人が異邦人を見るような目でノンクリスチャンの人を見てはいないでしょうか。私たちは分かっているけどノンクリスチャンは分かっていない。私たちはきよいけど彼らは汚れている。そういったどこか上から目線を持ってはいないでしょうか。もちろんクリスチャンとノンクリスチャンには明確な違いがあります。それは罪人の自覚があるかどうかです。また、クリスチャンは罪から解放され、少しずつ罪から離れていきます。しかし、まったく罪を犯さなくなるというわけではありません。クリスチャンもノンクリスチャンも罪を犯してしまうと言った点はことの大小はあれども同じでしょう。そもそも罪の大きさは比較するものではありません。
にも関わらず私たちはただ、主の憐れみのゆえに救われているだけなのです。自分に功績はゼロなのです。自分を誇れるはずなどありません。そう言った私たちがノンクリスチャンの方々に対してすべきことは、私を憐れんでくださったようにその方達も主が憐れんでくださりますようにとまず、祈るということではないでしょうか。主はそのように望まれているのではないでしょうか。

②心の割礼
パウロは律法の有言不実行を語った後、次に割礼について言及をしました。ユダヤ人にとって割礼は特別なものでした。律法が守れなくても私たちには契約のしるしである割礼がある。そういったユダヤ人たちに対するパウロの反論がここにはあります。割礼とは男性器の包皮を切り捨てることで、創世記17章に神とアブラハムとの契約のしるしとして、すべてのものが受けたことから由来しています。そして、割礼は契約のしるしであり、しないものは契約をやぶったものとして民から断ち切られると言われていました。そしてそれが神の選民イスラエルのしるしと誇りとなったのでした。彼らにとって割礼とは本当に大きなことであり、もはや民族的アイデンティティとなっていたと言って良いでしょう。
実はこの割礼問題とは当時の多くの教会を大変困らせてきたものでした。使徒言行録ではアンテオキア教会で異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンに救いには割礼が必要だと強要され、パウロたちと大激論になり、エルサレム教会で会議するまで発展しました。その結果、救いとはただ主イエスの恵みによるもので、異邦人が割礼をする義務はないという結論が出ました。それほど、ユダヤ人にとって割礼とは大きな事柄だったようです。そこに彼らはすがろうとしました。
しかし、パウロはそんなユダヤ人をさらに追い詰めます。律法を守ることができていないのなら、それは割礼を受けていないことと同じである。そもそも割礼とは外見のものではない。その本質は心にあるのだ。そのようにパウロは言います。エレミヤ4:4にはこのようなことが記されています。

「ユダの人、エルサレムに住む人々よ。割礼を受けて主のものとなりあなたたちの心の包皮を取り去れ。」

この言葉は、バビロン捕囚前に神に背を向け偶像礼拝に走るユダヤの民に対して語られたものです。自分の罪に目を向けない、認めない。神のみ前において、また自分自身に対して罪を隠すこと。この罪を隠す心の包皮を取りのぞき、罪を認め、悔い改め、神に立ち返る。これこそ割礼の本質なのです。
しかし、この時のユダヤの民は結局立ち返ることができず、神様から異邦の民もイスラエルも同じく無割礼であると断じられてしまい、バビロン捕囚というさばきを受けるに至りました。

エレミヤ9:25
「エジプト、ユダ、エドム、アンモンの人々、モアブ。すべて荒れ野に住み、もみあげの毛を切っている人々、すなわち割礼のない諸民族をことごとく罰しまた、心に割礼のないイスラエルの家をすべて罰する。」

このように割礼の本質は心にあり、それは旧約聖書において明確に記されていながらも当時のユダヤ人はみことばを十分に理解せず外見だけの割礼をすることに満足し、さらに誇っていたのです。この姿は本当に悲しくも滑稽といわざるをえません。
聖書は常に本質を語り、本質を求めます。イエス様もパリサイ人の外見を取り繕う表面的な信仰を厳しく批判しました。そして、このメッセージは私たちクリスチャンにも突きつけられます。なぜなら残念ながら私たちも何事も表面的なもので判断しようとしてしまったり、自分自身を表面的なもので取り繕おうとしてしまう、そのような一面を大なり小なり持っているからです。
礼拝出席、献金、奉仕、会堂の大きさ、教会員の数、などなど。こういったものが信仰以外のしるし、よりどころとしての割礼となっていないでしょうか。人も自分自身もそういったところで、はかっていないでしょうか。これらのものはとても大切です。それも確かなことです。しかし、それはそこに本質が伴っているのであるならば、ということです。形だけの割礼では意味がないのです。
パウロはⅠコリント7:19で
「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。」
と語りました。外見的な割礼の有無は問題ないという意味です。大切なのは神の掟。では、一体神の掟とはなんでしょうか。それは互いに私たちが愛し合うことです。イエス様は
ヨハネ15:12
「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」
と言われました。罪を神のみ前に露わにし、悔い改め、神の愛に生き、その愛で一つ一つをなすのであれば、それこそ霊によってほどこされた心の割礼を受けたといえるでしょう。それは自分の力ではなくまさしく神の恵みによって、本当の意味での新生がなされたことを意味します。心の割礼とは私たちにとってのまことのバプテスマなのです。形式として水に沈むだけではなく、本当の意味で罪に死にキリストによって新しく生きた者、これこそが外見ではなく内面がクリスチャンである者なのです。そしてその者とはまことにキリストの愛に生きる者であり、決して自分の行いを誇るということはないでしょう。

③神の真実
パウロはちょっとかわいそうになるぐらい、ユダヤ人をこきおろしました。ではユダヤ人にいいところなど一つもないのでしょうか。そのような民を選んだ神様のほうが間違っていたのでしょうか。そういうことでは全くないとパウロは断言します。
ユダヤ人は神の言葉がゆだねられた、神様に選ばれた民でした。上下ではありませんが御心を表すために用いられた特別な民でした。イエスさまは肉においてはこの民からお生まれになりました。
しかし、ずっと語ってきたようにユダヤ人には大きな欠けがありました。そんな民を選んだ神様が悪いんじゃないの?いいえ、けっしてそうではないのです。罪を犯したユダヤ人にやはり、問題があるのです。神様はいつだって誠実で真実なお方です。背を向け続けるユダヤ人に向かって神様はなんども帰ってこいと叫び、救いの手を差し伸べ続けられました。その手を振り払ったのは彼らの方なのです。神様をいいわけにして、自分の罪を正当化することはできません。
また、ユダヤ人が悪かったから神が裁いた。つまり彼らが悪だったからこそ神は正義を明らかにすることができた。むしろユダヤ人のおかげで悪が神の正義の引き立て役になったんじゃないの?それを怒るのってひどくない?こういった主張が当時あったようです。しかし、これはあまりにも無理のある論法でしょう。これをパウロは人間の論法と言っています。つまり、人間側の都合の良い、言い分ということです。まさしく、人はこうやって真理、神を否定したくなるのです。自分の罪を認めたくないからです。どうにかこうにかして自己正当化したいのです。これぞ、まさしく無割礼の者です。
いきなりですが、親切な青鬼くんという昔話がありまして。ある山に気立ての優しい赤鬼くんがいました。彼は人間と友達になりたがったのですが、いかんせんその風貌から怖がられてしまい、悩んでいました。そこに親切な青鬼くんが「じゃあ、ぼくが悪者になって村で暴れるから、赤鬼くんがそのぼくをやっつけなよ。そうしたら、いい鬼だとわかって友達になってくれるだろう。」そういったことを言って、実際に行動し青鬼くんは赤鬼くんに懲らしめられ、赤鬼くんは村の人に信頼され、友達ができました。そういったお話です。
青鬼くんが悪者になったから赤鬼くんの良さを村人は知ることができたわけですが、しかし、青鬼くんがユダヤ人なわけでも、赤鬼が神様ということでもありません。ユダヤ人は悪いフリではなく、実際に悪かったわけですから。そして神様も真実な方ですから青鬼がいようといまいと、神の正しさというものはどのようなときでも明らかにされるものです。こう言った論法はただの悪の正当化にすぎないのです。
今日の箇所はここまでですが、今日も非常にきびしい言葉が突きつけられましたね。あなたは言っていることをやっているのか、ちゃんと有言実行しているのか?外見だけのクリスチャンになっていないか?内面がクリスチャンであるものこそ真実のクリスチャンだ。自分の罪の言い訳は神様のせいにするな。
本当に耳が痛くなります。できていないなぁと自分自身強く痛感いたします。しかし、そのような自分の現実を知ることがとても大切なのだとも思います。なぜならそこで聖書は終わらないからです。だからイエス様は来られたのです。そんな罪の現実から私たちを救い出すために主イエスは、人となってこの地に来られ、十字架にかかられ私たちの罪を全て受け取られたのです。むしろ、本当は、神さまは赤鬼くんの悪いイメージを全て受け取った親切な青鬼くん側だったのです。悪くもないのにその愛ゆえに甘んじて悪者とされたのです。この驚くべき救いはもうすでにきているのです。そして、救いようのない自分の罪に気付かされたその時こそ、そのあなたの救いは始まっていくのです。
心の包皮を取り除き、神のみ前において罪を認め、悔い改めましょう。神様はそのような者を必ず憐れみ、慈しみをもって赦してくださるお方なのですから。そして、その神の愛を受けて、霊によって割礼を施された者として、内面にこそキリスト者の本質である神の愛を中心に置き、神を愛し隣人を愛する、愛に生きる者として共に歩んでまいりましょう。

武井誠司

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