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心の割礼 (ローマ2:17~29)

メッセージ

2013年2月10日富里キリスト教会
「心の割礼」
(ローマの信徒への手紙2:17~29)

1.律法による肉の割礼(金メダルの呪い)

神様は、モーセの十戒を通しましてイスラエルの民に神の本音ともいえる十の掟、十戒を与えられました。そしてこの十戒を中心にしまして、ユダヤ人の生活全般にわたる細則を定め、これを守ることが神の祝福の前提であると考えました。その中に、神との祝福の契約のしるしとして、アブラハム以降、ユダヤ人の男性は皆、生後八日目に前の皮を切り取る割礼という儀式を行うようになりました。

ユダヤ人は、この割礼は、神との神聖な契約しるしとして重んじております。イエス様もパウロもユダヤ人の両親から生まれましたから、生後八日目に割礼を受けました(ルカ2:21)。すべて、神の律法に基づいて行われたものです。ユダヤ人の生活のすべてにおいて、宗教上のあるいは社会上の法律のような規定が設けられ、それを守ることが神の祝福の条件でした。それが神の民としてのユダヤ人の誇りでもあったのです。

しかし、パウロはそういうユダヤ教の指導者のことを厳しく批判しています。2:19~21にこうあります。「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と解きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」(2:20b~23)

このように律法は本来、神の本心とでもいうべき大切な神様の御言葉でした。それがユダヤ人に与えられ、神を知り、神の御心に従って歩むべきはずでした。ところが一旦、周りから賞賛されたい、人から良く思われたいという人間の傲慢な心、自分を誇る思いが出てきますと、「ねばならない」という律法の落とし穴に入ってしまいます。他人には教えながら、自分には教えないという、律法主義の落とし穴に入ってしまいます。

2.心の割礼

そのようにしてユダヤ人は、自分達には律法がある、自分たちは神の祝福が約束されていてあのアブラハムの子孫として割礼というしるしを持っているという誇りがありました。しかし、パウロ自身、ユダヤ人の中のユダヤ人として、そういう彼らの外見上のしるしをパウロは見破ってこう言っています。2:27b~29を読んでみましょう。「あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく、“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」

外見上のクリスチャンがクリスチャンではありません。中身が大事なのです。うわべではなく、見てくれではなくその人の心の中が大事なのです。真のクリスチャンは、聖霊によって心の中にイエス様をお迎えしているかどうかです。心が砕けているか、心が柔らかくなっているかということです。自分の心の中の汚れを取り除いているかということです。この心の皮を切り裂き、心の汚れ、隠れた罪を取り除くことが真のキリストの名による聖霊のバプテスマなのです。心の割礼なのです。

この心の割礼に関連しまして、旧約聖書のエレミヤ4:3~4(P.1180)に大事な言葉がありますので読んでみましょう。「まことに、主はユダの人、エルサレムの人に向かって、こう言われる。『あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに、わたしの怒りは火のように発して燃え広がり消す者はないであろう。』」

これはイスラエルの民、ユダの人々に向かって語った預言者エレミヤの言葉です。旧約聖書の中でも、神様は、ユダヤ人に対しまして、主に立ち返ること、たとえ悪を行ったとしても、直ちに主の前に罪を告白して立ち帰ることを説いています。肉体に傷をつける割礼だけではなく、「心の中の包皮」を切り取りなさいと勧めています。私たちの心の中を見ておられる主は、心の中の罪汚れを悔い改めることを願っております。割礼はもともと、外科的な処置をすることではなく、自分の心の皮を切り裂いて汚れをとり除くこと、悔い改めて主に立ち帰ることを意味しております。

また、エレミヤがここで言っている耕作地と言いますのは、人間の心を指しています。ですから、割礼を受けて、自分の心の中の汚れを取り去った者は、一回だけではなく、何度も何度も自分の心の畑を耕して、心の中の罪や汚れ、固い石や苦い木の根っこを掘り起こして、いつも自分の心の耕作地を柔らかくしておきなさいという意味です。そして、そういう柔らかい土地に、神の御言葉の種を蒔くようにしなさい。茨のままの心を放置したままにしておいてはいけない。心に茨があったり、石があったりするとせっかく蒔いた御言葉の種も、根を張ることができず無駄になるというのです。

お互いの心が清められ、お互いに心を耕して、成長してゆくための門出とならなければ、本当の意味での結婚式にはなりません。割礼も本来はそういう霊的な意味がありました。バプテスマもそうです。水のバプテスマは一度ですが、聖霊のバプテスマは、何度も何度も繰り返して行われます。心の石や茨を取り除いて、柔らかい新しい良い土地に御言葉の種を蒔き、その種を離さずしっかりと御言葉に留まり続けることです。そして、信仰から信仰へ私たちの信仰が深められ、成長してゆくように。若い夫婦の結婚も結婚から結婚へと、お互いの耕作地が掘り起こされて柔らかくし、種が芽を出して成長し、実を結ぶ夫婦になって行くことです。

3.聖霊と御言葉によるキリストの割礼

最後になりますが、じゃあどうしたらこの聖霊による心の割礼を受け、内面的なユダヤ人になって行くことができるのでしょうか。私は二つあるような気がします。一つは先ほども申しましたが、御言葉の種です。もう一つは聖霊様の働きです。

この神の御言葉を自分の心の畑に蒔くということです。そのためには、自分の心を耕さなくてはなりません。自分の心を耕すためには、御言葉を他人に向けるのではなく、まず自分に向けることです。ユダヤ人は、律法の中に神の真理と知識が隠されていると考えていました。そして自分は、それを説き明かし、人々に教える教師であり、盲人たちの案内人であると考えていました。そしてそのことを誇っていたわけです。しかし、彼らの心には割礼が施されていなかったために、この御言葉が生きて働きませんでした。

律法の御言葉を、他人ではなく、まず自分自身に向けることです。私はこれが、外見上のユダヤ人と心の内面的なユダヤ人を分ける決定的な点だと思います。時には、自分に向けたくないこともあるでしょう。肉の割礼の時もそうです。前の皮を切り取る時には、痛みを伴います。たとえ生後八日目の赤ちゃんでも、あまりの痛さに声をあげて泣くでしょう。でも、自分に御言葉を向ける時、自分の外見上の見栄や誇りが砕かれて、切り落とされて、本当の自分が現れます。他人に誇ることができない、自分の罪や汚れや闇の部分が露わになるでしょう。

でも、それが律法の本当の役割なのです。3:20に「なぜなら、律法を実行することによっては、誰一人神の前では義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」これが律法の目指すところです。律法をそのように自分に向けて語るならば、それこそ真の意味での心の割礼を受けることができるのです。これは聖霊様の働きです。聖霊様が、御言葉のメスを使って、私たちの心の包皮を切り裂いてくださるのです。そして、主の前にわたしの心の闇、心の罪、心の汚れを露わにし、目の前に突きつけてくださるのです。もはや、人を裁いたり教えたりできない、自分自身の未熟と無知を教えてくださるのです。

「ああ、何という人間だろう、どうしたら私は救われるのだろうか。」と。そして、私たちの目を、あの神の義であるイエス様の十字架へと導いて下さいます。罪と汚れと闇の中に突き落とされたような自分をも、無償で罪を贖い、恵みを持って神の前に義としてくださる十字架の主の贖いの業へと目を注がせて下さるのです。イエス様が、わたしたちの罪のために、御自身でその痛みを担って下さいました。イエス様が私たちの代わりに、血を流して苦しんでくださいました。これが私たちのイエス・キリストによる聖霊による心の割礼なのではないでしょうか。もはや、この十字架のイエスの血によってしか償われない私の罪の贖いへと導いてくれるのではないでしょうか。そしてこれこそが、真のユダヤ人、心に割礼を受けたものの姿ではないでしょうか。   (岡田 久)

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