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心から兄弟を赦す (マタイ8:21~35)

メッセージ
2,017年3月5日富里キリスト教会

「心から兄弟を赦す」
(マタイ18:21~35)

1.赦すことの難しさ

「そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(マタイ18:21~22)

「そのとき」とありますのは、この前の18:15で主イエスが「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」という兄弟姉妹に対する赦しの大切さを教えられた後です。そしてクリスチャンの祈りの大切さも教えられました。
「二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである。」(18:20)この有名な言葉は、赦しの文脈で語っていますので、兄弟姉妹を赦すという祈りを二人または三人ですることを言っているのではないかと思います。

この仲間である兄弟姉妹を赦し合うと言う信仰の戦いは、クリスチャンであれば、誰でも一人一人が必ず経験することだと言っても過言ではありません。わたしたちは仲間に馬鹿にされたり、ひどい目に会わされたりする時があります。そういう屈辱に耐えきれずに、教会を去って行ってしまう人は少なくありません。いやほとんどの人がそのような辛い体験を経験しているのではないでしょうか。

しかし、かといって自分を傷つけた人の罪を赦さないで、仕返しをしたからと言って、怒りや憎しみが収まるというわけでもありません。何でクリスチャンになったのか、何で教会なんかに入ったのかと後悔する人もいるでしょう。自分を傷つけた人を許さないよりは赦した方がいいことは分かっていますが、いつまでその人を赦さなければならないのでしょうか。一体何回までその人を赦したらいいのでしょうかと、ペテロはイエス様に問うたのです。彼もまた自分が傷つけられたり、誰かに攻撃されたり、恥をかかされたりした経験があったに違いありません。

それに対する主イエスの答えは、ペテロの予想と反して、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」という答えでした。これは7×7=490回まで赦しなさいと言うことでしょうか。そうではありません。聖数7と7をかけるということは、回数の問題ではなく、「永遠に、どこまでも、無限に」赦しなさいと言うことです。一回であろうが、三回であろうが、七回目であろうが、あなたがたはどこまでも自分に罪を犯した兄弟を赦しなさいと言うことです。自分が赦した回数を数えている限りは、それは赦したことにならないと言うことです。

ルカによる福音書にも同じような言葉があります。「もし兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:3~4)ここでは一日に七回、悔い改めて来るなら赦しなさいと言っています。八回目からは赦さなくてもいいと言うことではなく、これもどこまでも赦しなさいと言うことです。ただし、ただ黙っているのではなく、「戒めなさい」と言っています。戒める、責める、とがめることが大事です。これがクリスチャンの真の赦しです。憎んで戒めるのではなく、無限に赦す愛を持って戒めるのです。そしてその人が悔い改めたら、その人を地獄の裁きから救うことになるのです。これが兄弟を得ると言うことです。

2.自分が赦されていることを忘れたクリスチャン

そしてイエス様は、どこまでも赦すことの理由として次のようなたとえ話をされました。マタイ18:23~34まで述べられていますが、要約しますと次のようになります。王様に借金をした家来がいました。そしてその返済を迫られたところ、その金額があまりにも大きかったのでしょうか。1万タラントンの借金を返せなかったのです。

今日のお金で言いますならば、1タラントンは、日本の国家予算の60倍の金額です。ですから、自分も妻も子供も財産も全部売り払っても返しきれない金額と言うことになります。そしてこの1万タラントンの借金を返せずに猶予を願い出た家来に、王様はどうしたかと言いますと、何とその莫大な借金を帳消しにして下さったのです。何と気前のいい王様でしょうか。それはただ、王様はその人を「憐れに思った」とあります。この王様の憐みの心によって、莫大な借金を帳消しにしてもらったのです。そして実は、この家来がわたしたちクリスチャンのことをたとえているのはお解りだと思います。わたしたちの罪が赦されるためには、神の御子イエスキリストの命という計り知ることのできないほどの莫大な贖い金が支払われたのですから。これがわたしたちの今の立場なのです。国家予算の60倍もの負債を帳消しにしてもらった人、これがクリスチャンなのです。

ところがこの家来が、王様の前から出て来て、家に帰る途中でしょうか、今度は自分がお金を貸している仲間に出会いました。そして家来は、何と仲間を見ると、「捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った」(18:28)というのです。何という対応の仕方でしょう。ついさっきまで、返済を待って下さいと必死にお願いしていたのです。そして返済どころかすべて帳消しにして下さった主君の憐みの温情を忘れてしまったのでしょうか。そしてこの家来は、返済できない仲間を返済するまで牢屋に閉じ込めてしまいました。

これ聞いた王様は、家来を呼び寄せて、「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」(18:32~33)と言いました。そして怒りをあらわにしてその家来を、借金を返すまで牢役人に引き渡したのです。そしてこう言いました。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を愛さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(18:35)と。

ここで疑問に思うことは、この家来はどうして自分が莫大な借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、仲間の小さな借金を赦してやらなかったのと言うことです。主君の恩を忘れたのでしょうか。自分の借金の額に比べたら、仲間の金額は大きな額ではないので払えると思ったのでしょうか。なぜあんな大きな恩を受けていながら、自分の仲間の借金を免除してやることができなかったのでしょうか。それはやはり、この家来は自分の借金の大きさ、その重大さをというものを理解していなかったのではないかと思うのです。そしてその借金をないものとしてやると言うことの痛みが、分からなかったのではないでしょうか。自分が抱えている罪の大きさ、そしてそれを無条件で赦して帳消しにして下さった神様の忍耐と憐れみを理解していなかったのではないでしょうか。

王である神は、この借金を抱えて支払いをすることのできない家来を「憐れに思って赦した」とあります。この「憐れに思う」と言う言葉は、ギリシャ語ではスプランクニゾマイと言いますが、これは内臓という名詞にもなっています。(英語で脾臓をスプリーンといいます)ですから、はらわたがえぐられるような衝動をもって憐れむ、同情するという意味ではないかと思います。確かにそうですね。ちょっとミスをしたから赦すとかというものではなく、赦せないという憎しみや反感を持ちながらも、罪人である家来に対する憐れみの心が勝利して、苦しみながら呻きながら赦したのです。

それはそうです。神様はわたしたちの罪のために自分の一人息子を犠牲にしてその罪を帳消しにして下さったのです。そしていけにえのわが子の苦しみを見ながら、まるで自分のはらわたをえぐられるような思いで世の罪を赦す決断をした親の気持ちです。断腸の思いと言いますか、はらわたが張り裂けるような思いで、自分の息子を犠牲にして赦したのです。それがこの1万タラントンの負債の免除と言うことではないでしょうか。ある人が言いました。「真の赦しは痛みの中にある。」と。痛みや苦しみの伴わない赦しはあり得ないのです。

3.一人一人が心から赦す

最後に主イエスは、こう言いました。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(18:35)と。ここで「一人一人」と言っています。これはクリスチャンなら誰でも経験することだと言うことです。一人一人がこの試練に会わせられます。兄弟姉妹を赦す信仰の戦いに出会わない人いません。苦しむ赦しを経験したことがないというクリスチャンはいません。

そしてもう一つは、「心から」という言葉です。お母さんが喧嘩した兄弟に対して、お互いに謝らせて仲直りさせると言った場合に、どうしても形だけになってしまいがちです。喧嘩両成敗、お互い様だからとか、おやつをもらえないからとかで仕方なく赦すことがあります。でもここでは、牧師が言うから仕方なくとか、これからも付き合わなければならないから仕方なくといううわべだけの赦しではありません。

「心の底から」と言うことですから、祈りが必要です。恨みつらみや憎しみで忠告するのではなく、心底心から赦すことです。それはわたしたちが1万タラントンの罪をまず最初に、神様に赦していただいたからです。この神様の私に対する1万タラントンの赦しの故に、わたしも自分に負債のある人を赦しますと祈りの中で宣言することが大事ではないかと思います。(マタイ18:18~20)

その人はわたしに借りがありましたが、わたしはその人の罪を赦しました。イエス・キリストの贖いの故に、わたしに負債のある人を赦しますと祈りにおいて宣言することです。すると、そのときに祈りが聞かれます。今まで自分の心を縛って来た人を赦せないという固い心が解け始めます。そして赦しとやわらぎの感情がわき起こって来ます。

主の祈りの第五の祈りに、「我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪を持赦したまえ。」という祈りがあります。わたしたちはいつもこの祈りを唱えています。その五番目に、わたしたちに負債のある者をわたしたちが赦しましたので、わたしたちの負債をお許しくださいという祈りです。まず仲間を赦しましたので、神様どうかわたしの罪をも赦してくださいという順番になっています。神様から1万タラントンの無限の赦しを受ける前に、わたしに600デナリの負債のある兄弟の罪を赦しますという祈りです。

まず祈りにおいて、相手の罪を赦す祈りをした後で、初めて神様からの罪の赦しを受けることができるのではないでしょうか。主の晩餐式は、わたしたちが王なる神様から1万タラントン(日本の国家予算の60倍)の負債を帳消しにして下さったと言うことを忘れないように、毎月毎月何回も繰り返して、天国に行くまで続けられる儀式です。それはわたしに負債のある者をわたしが赦しましたので、わたしの罪をも赦してくださいという祈りの時です。自らの罪を悔い改め、兄弟姉妹を赦す愛の決断の時です。

これがわたしたちの一週間の生活の出発点です。キリストの愛と憐れみを証して行く群れの姿です。なかなか目に見える兄弟姉妹を赦すことのできないわたしたちかもしれませんが、それでも主は無条件でいつまでもわたしたちの罪を贖っていて下さいます。七の七十倍するまで無限に赦しておられます。1万タラントンというわたしの大きな負債を、十字架の上で帳消しにしてくださいました。そのような思いを持って、共に主の晩餐にあずかって行きましょう。

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