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復活の希望 (Ⅰコリント15:42~58)

メッセージ
2018年5月27日富里キリスト教会
「復活の希望」
(Ⅰコリント15:42~58)
1.福音の核心

この15章でパウロは福音の中心メッセージは何かということを、1:3~5で述べています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。」(15:3~5)

パウロが一番大事なこととして延べ伝えたことは、「イエス・キリストがわたしたちの罪のために死なれたこと」そして「三日目に復活したこと」そして「このわたしに現れてくださったこと」の三つです。ですから、聖書の試験を受けるとしたら、質問が「福音の中心は何ですか?」と問われたら、躊躇なく、「イエス・キリストがわたしの罪のために死んでくださったこと」そして「三日目に復活したことです。」と答えたら大正解です。一番目と二番目があっています。

そして三番目に、その私の罪のために十字架に架かり、三日目に復活して、「今も生きておられるイエス・キリストとわたしは出会いました」これがわたしの福音なのです。その復活の主との出会いは、教会のいろんな伝道活動や行事の中で、人間関係の中で、また御言葉を学んだり祈ったりする中で起こります。ですから、教会を離れないで、真剣に主に仕える教会生活をすることが大事です。その時に必ず、主はいろんな仕方でその人に、必ず出会ってくださいます。ですから手を休めることなく、ひたすら祈りとみ言葉をもって主に仕えてまいりましょう。

Paul is preaching about the core of the Gospel. That are three points, the first is that Jesus Christ died for our sins and the second is that He was raised on the third day and the third is that He appeared to us.
This is the core of the Gospel. If you are asked about the core of the Gospel, please answer the three points above. So you should never leave from church fellowship. Because resurrected Jesus will surly appear to you through the live of church activity. I have many experiences to see the resurrected Jesus in the church activity, for example in the funeral in the church or in the meetings of the Bible study and prayer or in the workplace. Through many encounters with resurrected Jesus my conviction about resurrection had become a sure thing and then I have decided to be a pastor.

この復活の主と出会うということは、それほどに自分たちの人生を180度変えるほどの出来事なのです。じゃあ、牧師でない人は、まだ復活の主と出会っていないということになるのかと言いますと、そうではありません。復活の主と出会って、信徒として素晴らしい働きをされている方もたくさんおられます。牧師以上の働きをしている方もおられます。いずれにしましても、復活の主に出会うということは、ものすごいインパクトです。皆さんもそうだと思います。高くじに当たった、難関大学に合格した、何かの大会で優勝したとしたら、もう黙っていられないでしょう。

それと同じように、復活の主と出会ったということは、もう黙っていられないほどの喜びです。口を押さえても誰かに話したくなります。こんなに無口で口下手の自分が、話すことを職業とする仕事をなったのです。じゃあ、いつから何がきっかけでそうなったのかと言いますと、やはり、長い時間をかけて教会生活をしてゆく中で、祈りとみ言葉を通して少しずつ信仰の核心が与えられてきたのではないでしょうか。

2.復活がなければ

もし復活がないとしたら、わたしの人生は何だったでしょうか。今まで18歳の高校2年生でバプテスマを受けて、30歳まで教会に仕え、いろんな役員や奉仕をし家庭集会を開き、クリスマス会を開いた、そして30歳で県の職員を辞めて妻も教師を辞めさせて献身しました。もし、復活がなかったならば、イエス・キリストがわたしの罪のために死んでくださり、三日目に復活しなかったとしたら、わたしの人生は何だったでしょうか。大失敗です。世間で一番空しい人生です。献身した時、世間の人や親戚のものは、「あいつは頭がおかしくなったんじゃないだろうか」といいました。県の職員になったら、知らない人まで親戚ですという人が現れれて、やめて神学校へ行ったら知っている人まで遠ざかって行きました。

本当に清水の舞台から飛び込むようなものです。キリストが復活したからできるのです。そのキリストと出会ったがゆえに、この福音に献身できるのです。必ずしも牧師や宣教師になることが献身ではありません。今のままで、自分のいる場所で、全力を尽くして主に仕え、この福音を宣べ伝えることではないでしょうか。牧師のわたしよりもたくさんの魂に伝道をして素晴らしい働きをしている信徒の方も何人もおられます。それは主が復活したからです。そしてその復活のキリストに出会ったからです。そして自分もやがて復活の体に甦るということを知っているからです。今の体は、地上の仮の宿にすぎないのです。

「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々は滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(15:17~20)

If Christ has not been raised our faith is futile, we are still in our sins.
And then those who have fallen asleep in Crist are lost. If only for this life we have hope in Christ, we are to be pitied more than all man. But
Christ has indeed raised from the dead resurrected over the death. And became the first fruits of those who have fallen asleep. (15:17-20) We know that we will be raised up to the resurrected spiritual body
same as Jesus. Jesus is the first fruit and we will be the second one and third one. Jesus is the eldest son and we will be younger son and youngest son and younger sister. This body on the earth is the temporary inn.

本当にキリストが復活して、そしてこんなわたしにも出会って下さらなかったならば、そこまでする人はいないと思います。実際にキリストが復活していなかったら、私は騙されていましたし、わたし自身宗教をかたった詐欺師ではないでしょうか。嘘をついてみんなをだましているのですから。皆さんも被害者です。でも、キリストは実際に復活しました。キリストが復活したということ、そして今も生きておられるということ、そしてわたしたちと共にいてくださるということは真実です。

そして天国が存在するということに確信を抱いているからこそ、一切を捨ててこの仕事に就いたのではないでしょうか。キリストが復活したので、わたしも復活にあずかるのです。わたしも死んでも生きるのです。生きていていつまでも死なないのです。(ヨハネ11:26)キリストが復活の初穂で、わたしたちは二番穂、三番穂なのです。キリストが復活の長男で、わたしたちは次男、三男、次女、三女なのです。

3.真理はわたしを自由にする

週報にも書きましたが、先日来、日大のアメフト部の危険タックルの問題がマスコミをにぎわしています。あれほどに真実がはっきりしているのに、日大の内田監督はどこまで嘘をつき通そうとしているのでしょうか。選手が自分の真実の思いを告白しているにもかかわらず、大の大人がしかも教師であり指導者でるべき人間が、真実を隠し続けています。自分を欺き、教え子を欺き、神を欺いています。

わたしは復活を信じるということは、あの学生のように、自分の罪を認めて謝罪し、ありのままを話すことではないかと思います。彼がクリスチャンかどうか分かりませんが、信仰の姿を見せられたような気がしました。信仰という言葉をギリシャ語では「ピステス」と言いますが、もう一つ意味は真理とも言います。神の前に真実を語ること、これが信仰です。

つまり信仰と言いますのは、神の方に向き直るということです。わたしたちが心を神に向けるならば、そこに神の霊が働いて、わたしたちの口から真実の言葉を語らせてくださいます。たとえ自分の罪や過ちでありましても、そのことを主の前に告白するならば、必ず主は御霊を降らせわたしたちを罪の束縛から解放してくださいます。パウロは、第二コリント3:17で「主の霊のおられるところに自由があります。」と言っています。そしてこの真理を語る時に、わたしたちは罪の束縛から解放されて自由にさせられます。(ヨハネ8:32)

これがあの真実を告白した日大の選手ではないでしょうか。彼は、自分を守ったり、真実を隠したりしてはいけないと決心して、真理を語りました。恐らく自分の過ちに対する責めを、一番に受けなければならないでしょう。でも彼は真実を語って、本当に罪の束縛から解放されて自由になったのだという感がしました。主の霊によって真実を語るところに、神の自由があります。自分を正しいとする律法の束縛から解放されたような気さえ感じました。人間の罪はどこまでも自分を正しいものとします。絶対に自分の非を認めようとしないことです。

そして、頑なに真実を覆い隠して、罪の力である律法の中に自分を置くならば、恐らくその行き着く先は死以外の何物でもありません。すでにあの監督、そしてコーチの方はあの時点で裁かれています。自分に一点の非も認めず、潔く自分の罪を認めていないからです。でもまだ、悔い改めるチャンスはあるような気がします。本人たちがどこで真実を語るのかです。このようにして今、世の中では神の裁きが進行中です。真理を拒んで、自分に裁きを招いています。安倍首相もそうです。どこまでも真理を覆い隠そうとしています。体制を守らなければならない、自分を守らなければならないという真実を隠し続け、自分を義とする律法の中に自分を置いています。その行き着く先は、死と滅び以外の何物でもありません。

Recently the problem of the American football club of Nihon university is taken up on the television. The student player who had a dangerous
breach tackle confessed his penalty and his own sins on the television.
However the director did not confess the truth even though he ordered it. I thought the director rejected the truth and invited judgment to himself. He denied the truth and he denied the God. He insisted his own justice. On the other hand the student player confessed the truth humbly and obediently. I thought the truth made him free. Wherever the Spirit of God is working there is a free. The student who had confessed his sins already set be free he was saved from his own sins. He was raised up with the new spiritual body from the flesh dead body.

イエス・キリストはこの罪と死の力に勝利されたのです。それがキリストの復活です。もちろん死んだ後に、わたしたちは天国への道、そして復活の命が授けられています。でもそれは、死んでからということよりも、この一連のテレビ報道を通して、もうすでに神の裁きは実行されていると思った次第です。悪人は自ら自分の悪を行って、どんどんと自分を死の裁きへと追いやっています。自分の非をどこまでも隠し通そうとしています。目の前に確かな証拠を突き付けられても、絶対に認めません。神の存在を認めていません。そのことによって自分を裁きに追いやっていることすら気が付いていないのです。

イエス・キリストは罪と死に勝利されて復活しました。今も生きておられます。あとはわたしたちの方で、このお方を受け入れて信じるかどうかです。素直にへりくだって自分の非と過ちと罪を認めて告白し、悔い改めるかどうかなのです。今は誰でも悔い改めるなら罪が赦され、誰でも救われるという恵みの時代なのです。内田監督はどこへ逃げようとしているのでしょうか。安倍首相は一国の長でありながら、嘘を塗り重ねて一体どこへ逃げこもうとしているのでしょうか。何を覆い隠そうとしているのでしょうか。真理であるイエス・キリストはわたしたちを自由にします。この真理であるお方からは、誰も逃げることできないのです。

一方、信じる者は、自分の非を認め、罪を告白して罪の束縛から自由にされて、今は魂の平安をいただいております。あの告白した学生を見て、わたしは彼はもしかしたらクリスチャンではないかとさえ思いました。土からできた肉の体をもっていますが、それと同時に、罪を悔い改めて新しい復活の体をも持っているような気がしました。彼にはへりくだりがあり、素直さがあります。真実を大切にする良心があります。恐らく今は、真実を話したことで彼の方が、心に平安をいただいているのではないでしょうか。

4.復活の希望

復活は確かに、将来のキリスト再臨の時に成就する出来事でもありますが、今この時代の中ですでに復活は始まっています。わたしたちはこの世にあって、今は二つの体を持っているのです。それはアダム由来に土からできた肉の体です。もう一つは信仰によって与えられた新しい霊の体です。今は両方の体をもって生きていますが、やがてキリスト再臨の時には、一瞬にして霊の体に変えられます。

「土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことができず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を継げます。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち一瞬のうちにです。ラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものとされ、わたしたちは変えられます。」(Ⅰコリント15:45~52)

アダム由来の肉の弱い朽ちてしまう体とキリストの由来の霊の体が、いつも心の中で激しく戦っています。霊の体は真実を話そうとします。しかし、肉の体はいや黙っていよう、嘘をつこうとします。この二つの体は、常に相争っているのです。でも私たちが神に感謝して主に顔を向ける時、そこに主の霊が働いてくださって、わたしたちを罪の力から解放してくださいます。真実を語ろう。嘘はつくまい、たとえ自分が責められても、恥をかいても、地位を失っても、神の前に恥ずかしくないものとして立とうとする力を与えてくれます。主に顔を向けるだけで、神はわたしたちに聖霊の力をもって真理を語る勇気と力を与えてくれます。これが信仰です。

ここが救いの分かれ目です。神を認める者と、認めない者、神の前に立とうとする者と、どこまでも逃げ隠れしようとする者です。肉の自分は、自分が神の目から逃げられると思っています。でも果たしてそうでしょうか。神の目からは逃げられません。そう観念して、ただ主に向くならば、真理の御霊がわたしたちを自由にしてくださいます。主の霊のおられるところに自由があります。ありのままを告白する力が与えられます。恐れも不安も心配もありません、そこには自由があります。

恐れる必要はありません。逃げる必要もありません。主に向くだけでいいのです。そこに自由があり、平安があります。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。」(15:54~57)

We have two bodies the one is Adam’s fresh body, weak earthly body,
The other is spiritual body, heavenly body. These two bodies conflict in our mind. We Christian is always in this battle and struggle between these two bodies. However when we just look up to the Lord, the power of holy Spirit will pour down into our heart and let us be free. By the love of God through the holy Spirit we will be able to confess the truth and proclaim the good news. This is the guidance of the holy Spirit and the power of God. This is the reason that Jesus Christ won the death and death was swallowed up in the victory of resurrection.
Therefore brothers and sisters let us give the thanks to God through Jesus Christ. Always give ourselves fully to the work of the Lord, because we know that our labor in the Lord is not in vain.

皆さんはどこに立ちますか。あの監督のようにどこまでも真理から目を背けて逃げ隠れしようとしますか。それともあの選手のように真実をすべて話して、へりくだって神の裁きを待ちますか。今はまだ復活の新しい体は目には見えませんが、でもあの記者会見を通して、真理による救いと律法による罪の裁きが一目瞭然ではないでしょうか。キリストは既に罪と死と律法に勝利しましたら、わたしたちも何も恐れる必要はありません。真理であるお方を見上げて、真実を告白できます。死は勝利に飲まれてしまいました。キリストは死と罪に勝利されました。

そしてやがて時がくれば、キリスト再臨と同時に、わたしたちの霊の体に変えられて主の元へと帰って行くことができるのです。そのことを信じ、また覚えつつ、今置かれている教会で、また置かれている職場で、家庭で、キリストの復活の証人として主の愛と真実を証してゆく者となりたいと願っております。

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