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復活の力 (イザヤ40:28~31、60:1~3)

メッセージ

2016年3月27日富里キリスト教会

「復活の力」
(イザヤ40:28~31、60:1~3)

1.雲の彼方に輝く光

今月は主の御受難を覚えながら、イザヤ書から「苦難の僕」の歌を学んで参りました。苦難の僕は来たるべきキリストを預言しているということも学びました。わたしたちの罪の身代わりに神の僕であり、神の子羊である方が苦しみを受け、病を負い、傷を受け、死に至るまで打ち砕かれて下さったと言うことを学びました。その打たれた傷によってわたしたちの罪が赦され贖われたのだと言うことをも学びました。そしてこの苦難の僕は、その苦しみの只中にあっても、自分の苦しみによって与えられるその実りを知っていたということも学びました。やがて、この苦難の雲が晴れて、その苦しみの向こう側に太陽の光が待っているというのです。だから、主イエス・キリストは自らすすんで、この苦しみの杯を飲むことができたのです。

もしわたしたちの人生が苦しみと悲しみだけならば、そしてそれだけで終わるのでしたら、人は生きて行けるでしょうか。その行き着く先が暗闇と死以外のないものでもないならば、早くこの苦しい人生を終わった方が楽かもしれません。何の生きる希望もありません。でも、私たちの人生は、この救い主イエス・キリストの生涯がそうであったように、苦しみの彼方に永遠の命、希望の光を見ることができるのです。希望光があるかないかという、この認識の違いは天と地ほどの違いがあります。

2.起きよ、光を放て

今朝はこの苦難のキリストを預言したイザヤ書の中から、復活の光輝くキリストを預言した個所を見てみたいと思います。53章のキリストの十字架の贖いを預言した御言葉は有名ですが、他にもキリストの復活を預言した言葉があるに違いないと思いまして、イースター礼拝にもこのイザヤ書を取り上げさせていただきました。そうしましたら、40章と60章にキリストの復活を預言した御言葉あることを発見しました。

先に60:1~3を見てみましょう。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は上り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現われる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちはその差し出でるその輝きに向かって歩む。」(60:1~3)

これはイスラエルの民が、バビロン捕囚から解放されて、新しいイスラエルの栄光の時代が到来するということを預言した言葉ですが、わたしはここに復活の光が預言されているような気がします。「起きよ、光を放て!」という力強い言葉です。これは死と暗闇の世界、すなわちあの墓の中の真っ暗闇の世界に復活の光が射し込んで、死人が起き上がった、復活したということを預言している言葉ではないかと思います。

イースターを象徴するものは何でしょうか。「空の墓」「墓の中の光輝く天使の姿」「天使の真っ白な衣」「白い百合の花」「イースタエッグの卵の白い色」「新しい生命」です。新しい命と光輝く世界です。つまりこの「起きよ!」という言葉は、「死人の中から起き上がりなさい。」という言葉です。そして光を放てと言うのは、その新しい命の光を全世界に向けて発信せよと言う宣教命令の言葉です。

天地創造の一番最初に、神様が「光あれ!」と言って混沌の世界から秩序ある世界を造り出したように、今やイエス・キリストの十字架の苦しみと復活の力によって、新しい天地創造が始まったと言う宣言の言葉ではないでしょうか。それがあの御子イエス・キリストの十字架と復活によって、この闇の世にもたらされた新しい光の世界の始まりなのです。聖霊による神の子の誕生と霊のイスラエルである教会の誕生、そして福音宣教による新しい世界が今始まったというのです。

キリストの再臨の時が近づいているのです。しかしそれでも、この暗闇の世界に生きるわたしたちの上に、このキリストの復活の光が輝き上ると言っています。「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。」(イザヤ60:19~20)

3.鷲のように翼を張って上る

そのように復活の光に照らされて歩むわたしたちの生き方を、イザヤは更に次のように述べています。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:28~31)

ここにも復活の力にあずかる者の生き方が述べられています。この復活の朝の光に向かって進む者は、決して疲れることはないと言うのです。復活の希望をもって生きているわたしたちには、人生の終わりとか人生の最期という言葉は当てはまりません。人生の終わりは新しい命の世界の始まりなのです。いやキリストの復活にあずかっているものは、すでにこの光のもとに移された者なのです。復活の力と希望に生かされているものです。もうわくわくして主のもとに飛んで行きたいという思いが、この「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」(40:31)という預言の言葉ではないでしょうか。

この辺ではあまり鷲を見ることはありませんが、よく海岸の岩場のところに巣をつくって外敵から雛を守り、自分自身は魚や小動物を狩りして運んで来て、雛を育てることが良くあります。海から吹き上げてくる風を上手に捉えて、岩場を高く舞い上がる姿は何とも言えない雄々しさがあり、鳥類の生態系の中では頂点に立つ鳥だと言われています。

そして主の再臨と復活の朝を待ち望むクリスチャンも、この鷲のように大きな翼を駆って天高く舞い上がる姿に似ているとイザヤは言っております。おそらくこの「上る」という言葉は、最後は天にまで昇って行く携挙の場面を描いているのではないでしょうか。わたしたちの国籍はすでに天国にあります。そこから主が来られるのを待っているわけです。そして主が来臨した暁には、わたしたちは天高く主と同じ姿に代えられて栄光の内に引き揚げられてゆくのです。

もちろん主の再臨の前に息を引き取るようなことがありましても、わたしたちの国籍はすでに天にあるのですから、瞬時に主のふところにわたしたちの霊は引き揚げられてゆきます。つまり地上の人生が最後ではなく、その後があるということです。しかももっと素晴らしい場所が用意されているのです。ですから、わたしたたちはその時を期待し、復活の朝を待ち望みながら今を生きているのです。それがまるで鷲が翼を張って舞い上がるような姿にも似ているということを、イザヤはイメージしたのではないでしょうか。

崖を舞い上って行く鷲は、自分の力で翼を駆って上って行くのではありません。海から吹いて来る潮風をその大きな翼に向けて、風の揚力を利用して昇って行くのです。自分の力で空を駆って行くのではなく、自分の翼に風を受けて飛ぶ時に空高く舞い上がるのです。ですからわたしたちも、大手を広げて主に向かって祈りましょう。そして神の霊、聖霊様を十分に受け止めて、その聖霊の力によって上に上って行くのです。

そのように天に心を向け、聖霊の風によって上を目指して生きている人は、どういう生き方をするかといいますと、「走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」と言っています。よく耳にする言葉が、「最近疲れやすくなった。歩けなくなった。昔はよく走ったり歩いたりしたけど、65を過ぎるとだめだね~。」という言葉です。でも、聖書では「主に望みをおく人は、新たな力を得て、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れることがない。」(40:31)と言っています。ですからまず先に、復活の希望をもって、聖霊の風を十分に受けることです。その時に初めて私たちは、走っても弱ることなく、歩いても疲れることがないのではないでしょうか。

空の墓にいた御使いはこう言いました。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(マタイ28:7)死から甦られた主は、復活されてわたしたちより先にあのガリラヤの宣教地に行って、そこで待っておられます。2016年度の新しい年も、この甦って共に働いてくださるわたしたちの主イエス・キリスト様と共に出て行って、聖霊様の力を受けて福音を宣べ伝える年として参りましょう。
「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:30~31)    

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