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復活の体 (Ⅰ コリント15・42〜49)

メッセージ

2010年4月4日富里教会
             「復活の体」
                   (1コリント15:42〜49)

1.復活への疑問
当時もイエス・キリストの復活について疑問や不信をもった信者がいました。15:12に「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」とか。また、35節には「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。」とあります。コリント教会にも、復活を否定する人や復活の体はどんな体なのか疑問視する人がいたようです。

ある方が、こう言いました。「私は、マリヤが聖霊によって身ごもったことや、イエス・キリストが死んでから復活したということがなければ、聖書を信じたい」と。しかし、この二つのことを抜きにしては信仰の出来事になってゆかないと思います。こうして教会ができたのは、復活された主が弟子たちに出会って、出て行って福音を宣べ伝えるようにとご命令されたので、今まで2000年間に渡って、伝道がされて来たのです。復活の主に出会った者が、主の復活の証人となって福音、すなわちイエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えて来たのです。そして、主を証し、主の福音を宣べ伝えるところに復活の主も一緒になって働いて下さいました。そして、教会が建てられて来ました。復活の主は、宣教の働きの中に、御言葉と共に今も働いておられます。

イエス様が甦らなかったら、19節にありますように「わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものですし、嘘をついていることになります」。教会もこの世に存在しなかったでしょう。しかし、現に今、福音が多くの人に宣べ伝えられて、次々と主を信じる魂が起され、神の国のご支配がこの地上で徐々に拡大しつつあります。教会があちこちに建てられています。

私自身も、本当に復活の主と、教会での友人の葬儀の中で、御言葉を通して出会いました。復活を確信するまでの私の信仰は、人生どう生きるべきかという人生訓、道徳的、倫理的なものでした。死後の世界や天国のことまで、信じるに至らなかったのです。でも、友人の告別式で主は復活して共におられる、死亡した兄弟は死んだのではない、信仰を持って、今天国に帰ったんだという実感と確信が与えられました。それで、もう仕事を辞めて、神学校に行く決心をしました。この真実の御言葉に生涯をかけようと思ったのです。友人の死を目の前にして、遺体が入っているお棺を目の前にして、復活の主に出会い、復活を確信したのです。そうしたら、もう誰かれかまわず、この救いの福音を語りたい、「主は甦られて、今も生きておられる」と語らずにはいられない、そういう思いに圧倒されて今日まで参りました。

2.義の器としての復活の体
では将来、私たちはどんな体で復活すのだろうかという疑問に、答えてみたいと思います。42節から読んでみたいと思います。
死者の復活もこれと同じです。蒔かれる時には朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには卑しいものでも,輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるのです。『最初の人アダムは命のある生き物となった。』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。」(15:42〜45)

私たちのこの体は、土から造られたアダムの肉の体を取っています。この体は、やがて時がくれば、誰でも衰え、朽ちて行きます。しかし、私たちはイエス・キリストを信じることによって、新しい霊的な命をいただきました。肉に属するこの世の人々は、自分の肉の思うままに生活し、そのようにして朽ちて行きます。しかし、私たちはキリストの霊によって、この肉の体ですが、これを肉の働く道具とはせず、むしろ、この肉体もキリストに属する体として神に仕える道具として用いることができるのです。バプテスマを通してキリストの体の一部分、キリストの体の手足になったのです。

1コリント6:13bに「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させて下さいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのですか」とあります。また続けて「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られてのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(6:19〜20)

ですから、私たち主を信じる者は、この肉の体をもって地上に生きている時にも、神の栄光を現す体として、主に仕えてゆくことができるのです。もちろん、生きている限り、この体はアダムの地上の体としての弱い部分、罪に負けてしまう部分も持っています。でもイエス・キリストにあるものは、肉の弱さの故に、たとえ罪を犯すようなことがありましても、イエス・キリストの十字架が私たちの罪を永遠に贖っていてくださるのです。

今日、櫻井さんはこの水の中に沈みました。完全にです。これは彼がキリストと共にすでに死んだ者だということです。肉の体はキリストと共に、バプテストリーの水の中に葬られてしまったのです。彼はすでに死んだ者なのです。私たちもそうです。どうして一度死んだ者が、また死ぬことができるでしょうか。どうして一度死んだ者が、再び肉の欲に走ることができるでしょうか。もはやわたしたちの体を、死も罪も支配することはできないのです。キリストの霊によって、生かされているからです。

もし万が一、罪に負けるようなことがありましても、罪を告白して悔改めるならば、罪赦され聖められるのです。キリストの十字架の贖いの血によってです。イエス・キリストを信じると言う者は、この福音、即ち、イエス・キリストの十字架と復活を信じる者です。バプテスマは、キリストに結ばれて、キリストと共に歩む新しい人生の第一歩であり、スタートです。バプテスマは、日毎に私たちが、古い自分に死んで新しく生きるための印です。バプテスマは、私たちが絶えず肉の自分に死んで、霊のキリストと共に生きるための印です。(ローマ6:4〜11)

ですから、私たちはこの体をもって、この体を祈りの宮として主に仕えてゆくならば、たとえ肉の体であっても、神の神殿、神の義の武器として主の栄光を現してゆくことができるのではないでしょうか。

3.栄光の復活の体
しかし、私たちのこの体は、地上に生きている限りは、アダムの体であり、肉の体であり、弱い体であり、朽ちてゆくものです。時には病気にもなります。怪我もします。そしてやがて衰えて、あちこち動かなくなります。痛みも悲しみも苦しみも味わわなければなりません。

でも、主イエス・キリストが来臨する時には、この体は一瞬にして栄光の霊の体に変えられます。52節に「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます。」とあります。これが栄光の復活の体です。もはや病気や苦しみや痛みや悲しみを持たない、光り輝く栄光の体です。

ただ、この主の再臨の前に死んでしまった人達は、先週も申しましたように、楽園に霊となって導きいれられます。霊ですからまだ体を取っていません。ここは天国の待合室です。そこで、主の再臨を待ちます。そして主が天から下ってこられる時には、先になくなった方のほうから復活して、霊の栄光の体をまとってイエス様のところにあげられるのです。それから、地上に残っている者が栄光の霊の体に変えられて昇って行きます。

このときの状況について、1テサロニケ4:16〜17(P.378)が詳しく述べていますので見てみましょう。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。」

神の霊によって生かされている私たちは、この肉の体はいわば、仮の宿であり、借家住まいをしているようなものです。でも、かといって、この仮住まいの体を汚してもいいということではありません。むしろ、この肉の弱い体であっても、主の霊の宿るところの聖なる神殿として祈りに専念したいものです。また、神様の働きをする義の武器として神の福音宣教の御用のために用いるべきではないでしょうか。やがて来るべき、救いの完成する輝かしい時を待ち望みながら。

最後にパウロはこう言っています。「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(15:58)私たちも、先に召された多くの信仰の先輩方の最後を見習って、地上での証の生涯を、全力で走り抜けたいと思います。残された人生、どんな苦労も無駄にはならないとありますから、常に霊に燃やされて、熱心に主に仕えて行きたいと願っております。
                                                      (岡田 久) 

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