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復活の主に出会う (ルカ24:28~43)

メッセージ

2011年4月24日富里キリスト教会
「復活の主に出会う」
(ルカ24:28~43)
1.不信仰な群れから始まった教会

実は、今こそこうして教会が全世界に広がっていますが、その起源は、二千年前は本当に小さな群れでした。イエス様が残された12弟子が、その起源になるわけですが、この12人の弟子達も最初から元気に伝道を開始したわけではありませんでした。イエス様が、生きておられる時には、「十字架にかけられて死んで、三日目に復活する」ということを何度も聞いていましたが、いざ、実際にイエス様が十字架にかけられてなくなった時には、誰も復活したということを信じることが出来ませんでした。

中には、仲間から外れて、自分の家に帰って行ってしまう弟子もいました。それが今日読んだクレオパともう一人の弟子でした。あんなに、主が生きている時には、熱心について来ていたのに、イエス様が死んでしまうとみんなクモの子を散らすように、バラバラになってしまったのです。この二人の弟子たちは、もうイエス様が死んでしまったので、神の国が来るという運動も終わりだと、あきらめてさっさと実家に戻って家業に精を出そうとしておりました。

私は、この弟子たちの不信仰はわかるような気がします。誰も死んだ人が甦るなんてことは信じられません。彼らは、疑いと失意と不信仰の只中にいました。
つまり私は何が言いたいのかと申しますと、「わたしは復活は信じない」とか「見なければ信じない、さわって確めない限り信じない」という、自分の正直な気持ちを言っても良いということです。教会はそういうところです。

信じているふりをする必要はありません。私に、「復活なんてありえないし、自分も復活のイエスに出会ったことなんかない」と言って、ぶつかって来てもいいのです。反論してもいいのです。疑問を率直にぶつけてもいいのです。納得がゆくまでです。信仰とは、求めることですから、どこまでも納得が行くまで食い下がることも大切です。

でも、疑いつまずき、背きつつも、やがてイエスの強い腕のつかまれていることにやがて気がつく時が来ます。自分で得たものでは在りません。信じることが出来ない不信仰な私たちのほうに、イエス様が近づいて来て、語りかけ、出会って下さったのです。24:15に「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」とあります。

イエス様が近づいて下さり、共に歩いてくださり、語りかけてくださったのです。だからこうして、いつの間にか今も、イエス様に従って歩くようになりました。私が選んだのではなく、イエス様が選んで下さった。イエス様が先に出会って下さったのです。イエス様が先に愛して下さったのです。復活の主は、そういう不信仰な私たちに、イエス様のほうから出会って下さったのです。ここに、私たちの信仰の歩みの始まりがあり、教会の出発点があります。

2.日曜日に礼拝するようになった理由

当時は、旧約聖書、ユダヤ教の時代でした。神様が天地万物をお造りになり、七日目にその創造の業を止めて、安息に入られました。それが、第七日目であり、これがユダヤ教の安息日となっていたのです。ですからユダヤ人は土曜日に一切の仕事を止めて安息日を守り礼拝をします。

イエス様は金曜日に十字架につけられて、葬られました。ユダヤ教では安息日は、金曜日の夜から始まり、土曜日の夜までまる一日かかります。何の仕事もすることができません。土曜日の夕方には安息日は終るわけですが、夜お墓に行って、遺体に油を塗るわけにも行きませんので、マリヤたちは日曜日の朝早くにイエスの体に油を塗るために墓に出かけて行きました。そして、この日曜日の朝にイエス様が復活され、日曜日を主を記念して礼拝をするようになりました。

この日の日曜日の朝早く、マリヤたちが主の葬られた墓に行きました。ところが、すでに墓の穴を塞いでいた大きな石は転がしてあり、墓の中には二人の天使が座っていてこう言いました。「主は復活された。あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(ルカ24:6~7)と。これを聞いて、彼女たちは弟子たちのところに行って、一部始終を告げました。ところが弟子たちは、誰もこのことを信じませんでした。ちょうどそこへ、あのエマオの途上で復活のイエス様とであったクレオパともう一人の弟子が、帰って来ました。そして旅先であったことを全て告げたのです。イエス様が十字架にかけられて死んで葬られて、三日目の日曜日に起こった出来事でした。すなわち、日曜日に主の復活にまつわる出来事が次々と起こったのです。

別な言葉で言いますならば、日曜日は、イエス・キリストの十字架と復活の救いの出来事を弟子である私たちが、一週間の出来事を持ち合って互いに集まって来て、語り合い分かちあう時だということです。そして、私たちが互いに語り合い分かち合う時に、そこにまた復活の主が現れてくださって一人一人に聖霊の息吹を注いで、再びこの世に遣わしてくださる日だと言っても過言ではありません。

ここにキリスト教会が安息日を週の初めの日、日曜日の朝に持つようになった理由があります。これが教会の姿です。教会の建物ではありません。牧師がいてオルガンがあるのが教会ではありません。先に会衆がいたのです。共に集まる集会が会ったのです。共に聖書を開いて御言葉を読み人々がいたのです。証と語り合いがありました。

この集会、集まり、会衆、グループに復活の主が現れたのです。それが教会の出発点であり、今日に至るまで、全世界に広がって来たのです。中心は復活のキリストです。それが教会の宣教です。ですから、もっと小さな分かち合いのグループがなければ、そこに主は現れませんし、復活体験をすることはできません。宣教師が伝道するのではなく、どこまで行ってもこのグループが、二人三人の集まりが伝道するのです。その集まりを、主の再臨の時までやめてはいけないとパウロは言いました。(ヘブライ10:25)

3.生きた御言葉となって出会われる

では、どうしたら、この復活の主と出会うことができるのでしょうか。それには、先ほど来言っておりますが、第一にあの弟子たちのように、主の前に正直になるということです。復活なんて信じられないと率直に言う時に、主は必ずそういう私たちに出会ってくださいます。そして第二に、自分が体験したことを分かち合ったり、語ったりすることです。マリヤが、空の墓に行った時、後ろから呼びかける復活の主と出会いました。それを、弟子たちに語るとき、そこにまた主が現れて下さいました。トマスが、信じないと言い張っているところに主が現れて出会って下さいました。

そして、このルカによる福音書の24章のエマオの村に行く場面でもそうです。クレオパともう一人の弟子が、イエス様の十字架と復活について話し合っているところに、復活のイエス様が現れて、わざわざ聖書全体について御自分について語られておられることを説明して下さいました。そして、二人の目が開かれて、この旅の人物がイエス様だと解って、エルサレムに帰って行って、仲間に旅先の出来事を告げたのです。そして、そう話しているところにまたイエス様が現れてくださいました。それが日曜日の出来事でした。

このように復活の主は、弟子たちが聖書について語り合い論じ合っているところに現れてくださいます。私たちが互いに、聖書に教えられたり、体験したことを語り合います。お互いの心のうちに働いておられるイエス様を分かち合う時、励まされ、確信と喜びが出てきます。主がその人に出会って下さった証拠です。ですから私たちは、毎週毎週、集まってきます。集まる必要があるのです。そして一人一人の心の目を開いて聖書が解るように悟してくださるのです。

聖書の御言葉はなかなか解りにくい箇所があります。だから来て御言葉を聞くのです。質問し合い語り合うのです。復活のことがまだ信じられないかもしれません。それでもいいです。教会を離れないで、毎週来て皆さんの証を聞いたり説教を聞くのです。その集会で、そういう人に、主は必ず出会ってくださいます。

ルカによる福音書24:30に「一緒に食事の席についたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」とあります。これはどういうことかと言いますと、イエスが、パンを取るということは、イエスが主人になったということです。中近東では、家の主人がパンを裂いて渡し、肉を切って渡します。つまり、今までは弟子たちは、自分の目で聖書を読み、自分で考え、自分の視点で聖書を読んで来ましたが、この瞬間、イエス様の視点、神様の目から聖書を読むことができるようになったということを意味しています。イエス様が自分の主人になったのです。すると、イエス様の姿が見えなくなりました。見えなくてもいいのです。物理的に科学的に見て確める信仰から、御言葉に聞く信仰に変わったのです。この時、はじめて二人の弟子は、復活の主に出会ったのです。

そして、急いでまたエルサレムに戻って行きました。そして、主と出会った喜びを仲間に告げていましたら、そこにまた主が現れてくださいました。こうして、復活の主は、私たちが伝道して行く先々で現れてくださるのです。私たちの集まりの中で、語り合いの中で復活の主が一人一人に丁寧に出会ってくださるのです。ですから、集まらなければ、御言葉を語り合わなければ、そこに復活の主との出会いは生じません。また、語る時に復活の主がどこででも、いつでも現れてくださるのです。これが伝道です。

主は今も生きて、目には見えませんが、御言葉をもって私たちと共に具体的に働いておられます。罪と死と悪魔に勝利して甦られ、今も共におられる復活の主に心からの賛美と感謝を捧げようではありませんか。    (岡田 久)

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