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復活の主と共に

メッセージ

2009年9月13日富里教会
      「復活の主と共に
       (ルカによる福音書24:28〜36)

1. はじめに

主の御名を讃美します。
教会学校強調月間の第二週目を迎えました。先週は、教会学校に22名の方が参加して下さり、最高出席となりました。更にこの月、多くの方が教会学校に参加されるよう祈ってまいりましょう。先週は、愛を追い求めなさい、特に、預言の賜物を追い求めなさい、ということで教会では、牧師だけではなく、誰でも預言ができ、誰でも教えることができ、代わる代わるお互いに教えたり、学んだりするところであるということを学びました。

第2週目の今朝は、どうしたら、復活の主と共に歩むことができるのだろうかということを学んでみたいと思います。復活のイエス様とお会いしたい、復活の体験をしたい、そして自分も主の復活の証人となって伝道したいと誰でも思っていると思います。ところが、イエス様を信じてはいるものの、今一つ確信がない、本当に復活ってあるんだろうかと、疑問を持たれたりしておられるクリスチャンの方も少なくはないと思います。実際に復活されたイエス様にまだ出会ったことが無く、なんとなく教会に来ている、奉仕で来ている、伝道するのも恥ずかしい、できれば教会を休みたいと後ろ向きになっていたりしていることはないでしょうか。今朝の教会学校で学んだヨナも、そういう信仰者の一人でした。神様が預言者として伝道に用いようとしますが、ヨナの方が神様に背を向けて拒んで、逃げ出してしまったお話でした。

2.共に歩かれる主(御言葉の静聴と探求)

今日の新約聖書に出てまいります二人の弟子も、ヨナと同じように、神様に召されていながら、復活と言う出来事がまだ信じられないで、神様の召しに背を向けて、教会の仲間から離れて、昔のもとの生活に戻って行こうとしていました。ルカの24:13〜16までを読んでみましょう。「ちょうどこの日(イエスが復活した日)、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向って歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩きはじめられた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」とあります。

三日前に、エルサレムで起こったイエス・キリストの十字架の死に出会い、この死につまずいてしまった二人の弟子です。ましてや復活なんか信じられるはずがありません。マリヤたちが「主は復活されて、生きておられます」(22節)と証言してもそれを信じることなく、仲間から抜けて、もとの生活に戻ろうとしていました。時は夕暮れ、彼らの信仰も沈みかけた太陽のように消えかかっていました。この二人の弟子(一人の名前はクレオパ)に、甦られた主が近づいてこられ、一緒に歩き始められました(Jesus came up and walked along with them)。そして二人に声をかけましたが、二人の目が遮られていて、それがイエス様とは気がつきませんでした。

それでも、主はあきらめず、二人と一緒に歩きながら、聖書全体にわたってご自分について記されていることを説明されました。25節に「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシヤはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」(24:25〜27)とございます。

イエス様は、信仰の核心を失って、仲間から離れて行こうとしている二人の弟子に、何とかエルサレムの仲間のところに連れ戻そうと、愛と忍耐をもって聖書全体にわたって説明をして下さったのです。ここに、復活信仰の一つのポイントがあります。それは、聖書全体について学ぶことです。イエス様は復活信仰の確信のない弟子に対して、何とか彼らの目を聖書に向けさせようとしました。しかも聖書全体です。当時は旧約聖書しかありませんでしたから、旧約聖書全体について説明し、イエス・キリストの十字架と復活について預言されていたことを熱心に解き明かされたのです。

私たちも、イエス様を信じて従って参りました。でも、時には、この復活ということがピンと来ない、イエス・キリストは罪と死と悪魔に勝利して今も生きておられる、という確信を失ってしまうことがあります。でも、もし確信がない、復活がまだピンと来ないという方がおられましたら、ぜひ、聖書全体にわたって調べ学んでみてはいかがでしょうか。

ヨハネ20:8〜9の御言葉を見て下さい。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とあります。(口語訳では「しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことを記した聖句を、まだ悟っていなかった。」)

つまり、キリストを信じることと、復活を信じることは別である、信仰は持っていても復活の主と出会い、復活信仰に生きることとは別のことであることが分かります。この聖句を悟る、復活を理解するということは、まず聖書全体にについて読み深く学び、説明をしてもらうことから始まるのではないでしょうか。まず最初にともかく信じることです。イエス・キリストは私の救い主であると。それからじっくりと聖書から十字架と復活を理解することではないでしょうか。信じてから調べるのです。調べてから信じようとすれば、一生かかるかもしれません。もし、私は信じているけど、まだ復活信仰の確信がないと思われる方がおられましたら、まずこの聖書全部を調べてみる必要があると思います。聖書を読まなければ、私たちの信仰生活は始まりません。復活された主は、議論している弟子にこっそり近づいて来られ、二人の目を何とか聖書全体に向けようとされました。

2. 目を開いて下さる主(理解と適用)

二人の弟子は、その旅人がイエス様とは知らずに、目的の村エマオにやって来ました。そして、先に行こうとするイエス様を何とか引き止めて、今晩一緒に泊ってもらうように頼みました。28節に「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊るため家に入られた。」(ルカ24:28〜29)とあります。

ここで大切なことは、イエス様を引き止めることです(Stay with me)。途中、一緒に聖書の話をした時に、何か心の中に熱いものが込み上げて来るのを感じたのでした。このまま別れると、一生会えないかも知れない、いや、それよりも自分たちが今、一番求めている大切な何かを、見失ってしまうかもしれない。そういう直感がありました。ですから、先を急ぐイエス様を無理やり引き止めたのです。

復活のイエス様は、私たちの人生で、すれ違うようにして出会ってくださいます。私たちのすぐそばまで来ますが、そのまま放って置くと行過ぎてしまいます。ですから、自分の人生で、この時、と思った瞬間に、イエス様をしっかりと捉えて離さないことです。一期一会と言う言葉がありますが、信仰の出会いも同じようなものです。「一期」は一生と言う意味です。「一会」一回のチャンスと言う意味です。ですから人生にまたとない、一回限りのチャンスを捕らえて離さないことが大事です。これが、「一緒にお泊りください」という言葉です。

今、水曜日の祈祷会の後、第2回目の「拡大する人生」をやっていますが、私も後半、顔を出して手伝っています。とても笑いに満ちた楽しいクラスです。台湾人の黄さんやモンゴル人のチュカさんゾオラさんも、日本語のテキストを一生懸命読んで、頑張っています。一人の姉妹が、「拡大する人生」の学びが終っても、このメンバーでまた続けて学びをしたいと言って下さり、リーダーの家内も喜んでいました。初めはおっくうでも、やがて聖書を学ぶ楽しさ、あかしを分かち合う楽しさが出てきます。このチャンスを捉えて、もっと学ばせて下さいと、イエス様を引き止めることが大事ではないでしょうか。

私も高校生の時に思い切って手をあげて、イエス様を信じました。でもその後救いの確信もなければ、復活のことも、十字架の本当の意味も解らず、長い間苦しい日々が続きました。いつ教会を辞めようかと思っていました。でも、学生時代、聖書研究会に入って一生懸命聖書を学びました。聖書には何か真理がある、しかし自分で聖書の中からそのことを見つけ出し、自分で霊の糧を食べることができないのです。ですから、教会の牧師先生に毎週自宅に来てもらい、一緒に聖書を学びました。雨の日も雪の日も遠くから車で40分もかけて来てくださり、一緒に学びました。皆さん仕事が終ってから集まってきます。共働きをしていましたので、仕事を終えて帰ってから集会のために部屋を掃除したりしますが、時には眠くなります。その中で、ついに神様が私の目を開いて下さり、聖書の真理、主の復活を信じることができるようになり、私は伝道者になる決心をしたのです。

このクレオパともう一人の弟子にとっても事情は同じでした。自分たちにとって何か大切なことを持っているに違いないと思われた旅人を、無理やり引きとめて泊らせました(Stay with us)。そして、一緒にテーブルを囲んで食事をする時に、二人にとって人生の転換となる事件が起こりました。30節を読んでみます。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった(Give it to them)。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」とあります。

この見知らぬ旅人が、パンを裂いている様子を見て、初めて、あの手つきはイエス様だと分かったのでしょうか、そのとたんに、二人の目が開かれ、その旅人の姿が消えてしまいました。これはどういうことかと申しますと、私たちが復活というものを、自分の目で確かめるようにして見ようとする限りは、復活のイエス様は気がつかないということです。そうではなく、復活の主と出会うということは、肉眼で確かめるのではなく、聖書を通して、御言葉を通して主と出会うことです。イエス様から、御言葉のパンをいただくようにして読むことです。

この食事の時にパンを裂くという作法は、その家の主人がすることです。つまり、イエス様が自分の主人だということが分かったのです。今まで二人は、自分が主人でした。信仰は持っていましたが、まだ自分中心の肉的なクリスチャンだったのです。でも、真のキリスト者といいますのは、自分を僕として、主人であるイエス様の前にへりくだる所から始まります。イエス様が主人となること、イエス様から御言葉のパンを受けること、これが目が開けるということです。これが、「聖書の御言葉を悟る」(ヨハネ20:9)ということです。御言葉が啓(ひら)かれると言うことです。「御言葉が開かれると光が差し出で、無知な者にも理解を与えます(詩篇119:130)。目で見る信仰ではなく、御言葉に聴く信仰、御言葉に従う信仰に変えられたのです。

これによってこの二人の信仰が、ガラッと変わりました。彼らの人生の旅も180度転換しました。二人は時を移さず、方向転換し夜のうちに再びエルサレムに向って走り出したのです。もうイエス様の姿を墓の中に探す必要はありません。御言葉の中に主は生きておられる、二人は、途中で、今まであったこと、聖書の話をした時にお互いに心に熱いものが込み上げてきたことなど、いろいろ話し合い、励ましながらエルサレムの仲間のところに戻って行きました。
復活の主と出会い、霊の目が開かれますと、クリスチャンの人生も大きく方向転換します。

3. あかしの中に現れる主(分かち合い)

33節から読んでみましょう。「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(24:33〜36)

二人が失望落胆し、教会を離れていってしまっている時にも、イエス様のほうから近づいて来てくださり、一緒に歩きながら、語りかけて下さいました(Jesus himself came up and walked along with them)。聖書を悟ることができず、信仰が無きに等しいような弟子に、イエス様は一緒に泊って下さり、共に食卓について、御自身の手をもって御言葉のパンを与えて下さいました
(When Jesus was at the table with them and began to give it to them)。そして、彼らが、主に出会ったことを仲間に証すると、そこにまた復活の主が現れて下さったのです(Jesus himself stood among them and said to them)。

クレオパともう一人の弟子は、自分たちが教会を去っていったこと、聖書も復活も解らなかったこと、でも、誰かと一緒に聖書全体を読み、調べたこと、そしたらイエス様御自身の手から御言葉をいただいて、初めて霊の眼が開け、復活の主と出会ったこと、そのとたんに姿が見えなくなったこと、そして急いでまた、みんなのところに戻ってきたことを証しました。

すると、二人がその証をしている最中に、その場に主が現れて、「平和があるように」と言われました。このように、私たちが自分の復活の主との出会いを証する時に、そこに再びイエス様が現れて下さいます。これが伝道です。復活の主は、証の中に現れながら一人一人に出会ってくださるのです。

こうして、エルサレムから始まって地の果てのようなこの日本にまで、福音が宣べ伝えられてきました。先月の教会の修養会でも、皆さん方の人生の証を伺うことができました。また、教会学校の中でも、特に今学んでおります「拡大する人生」の中でも、「マスターライフ」の中でも、礼拝後の各会でもいろんな場所で、主が証の中に現れて下さっています。これからも復活の主は、私たちを通して、御言葉と証を用いて、全世界に福音を宣べ伝えようとされています。

今も生きて共にいてくださる主、共に語らいながら歩んで下さる主、御声をもって励まし慰めて下さる主、御言葉と証の中に共に働いて下さる私たちの主の御名を心から賛美し、感謝しつつ、今週も主を宣べ伝えて行きましょう。

        (岡田 久)

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