ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

復活のからだ (Ⅰコリント15:42~49)

メッセージ

2014年8月24日富里キリスト教会

「復活のからだ」
(Ⅰコリント15:42~49)

1.様々な体がある

「しかし、死者はどのように復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないのではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく麦であれ他の穀物であれただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」(Ⅰコリント15:35~41)

つまりこれはどういうことかと言いますと、パウロはおそらくこう考えて説明していたのではないでしょうか。人間を植物のように考えますと、最初は一粒の種です。でもこの種を地面に植えますとやがて、芽を出し葉が付き、花を咲かせます。このように植物の場合でも、一個の種から芽が出て花が咲きそして実をつけるように、成長には変化があるということです。それはお解りだと思います。しかもその種から花への変化は劇的なものがあります。一体誰がこんな小さな一粒の種から、あのきれいなヒマワリが咲くのを想像したでしょうか。

ですから、人間も最初は小さな種粒にしかすぎません。でもやがてその種が地面に落ちて殻が壊れて、新しい芽が出て花を咲かせます。わたしたちは、その成長した美しい花を期待しつつ種を蒔きます。ここにサボテンの種があります。でもこの種にはサボテンという花の名前が書いてあります。わたしはこの種を見て植えるのではなく、やがてきれいに咲き誇るであろうあのサボテンの神秘的な花の姿を見て植えます。

同じように私たちも、最初は一粒の種ですが、やがてきれいに咲き誇る花の姿を見て土に植えられます。いつまでも種のままではありません。種は朽ちるために植えられるのです。この種が地面に落ちて死んで、そこから新しい命が緑の葉っぱとなって開花します。そしてやがてきれいなヒマワリの花や、小麦や落花生の青々と茂った葉を出して実をつけてきます。これが復活のからだです。

このように植物にさえ、やがてなるべきいろいろな花のからだがあるように、動物も同じように、いろんな体が与えられているというのです。それが次の言葉です。「どの肉も同じだというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。」(15:39~41)

わたしたちは体と言うとすぐに人間の体、肉体を想像してしまいます。でもパウロは、人間の肉体もあれば動物の肉体もありますし、鳥の肉体、魚の肉体があります。(肉体とは言わずに魚の身といいますが・・。)人間のこの体だけが肉体としての体ではなく、みんなそれぞれ違った肉の体を持っているのです。いろんな体があるのですから、みんな何でもかんでも体と言ったら、この人間の肉の体と結びつけてしまって考える必要はありません。もっと、想像をたくましくするならば、いろんな体があって、地上での体もあれば、天上の体もあるというのです。ですから、人間の体はこれしかないとは考えずに、目に見えない体もあるし、それぞれがそれぞれの美しさと輝きというものを、持っているのだということを説明しています。

太陽の輝きがあり、月の輝きがあり、星の輝きがあり、星と星の間にも輝きの違いがあると言っています。確かに、北極星と天の川の輝き、北斗七星やハレーすい星と星の中にもいろんな美しさと輝きがあります。ですから、人間の体も、地上での体、天上での体というものもあるのですから、復活したら一体全体どんな体で甦るのかなどと、自分の想像力と聖書の知識の足りないことを証明するような無知な言い方はしないでもらいたいと言っています。そういう人は「愚かな人だ」と言っています。

2.朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに復活する

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれる時には朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(15:42~44)

ここにパウロは蒔かれる時の種の状態と、蒔かれてからやがて開花した後の状態の体について述べています。四つの事例をあげて、繰り返して述べています。
一つは、まず蒔かれる時には朽ちるもので蒔かれますが、やがて朽ちない体に復活すると言っています。二番目には、卑しい体で最初は蒔かれても、やがて輝かしい体に復活すると言うのです。三番目は、弱いもので蒔かれてもやがて力強いものに復活する。そして四番目には、自然の命の体で蒔かれて、やがて霊の体に復活すると言っています。

最初は種の状態ですが、これは蒔かれる時と言いますのは、この世に生を受ける時ということです。最初は、朽ちる肉の体です。そして、この朽ちてゆくべき肉の体は、私も皆さんもそうですがやがて朽ちてしまう肉の弱さをもっています。ある場合には卑しい肉の体でもあるし、また弱さをもった肉体です。年をとればしわが増え、あちこちが痛くなってきてやがて年を経て朽ちて死んでゆきます。

でも朽ちるということも、自然の命の法則に合致することですから、聖書によれば、あちこちが衰えてくるという老化現象も悪いことではありません。それはやがて、朽ちることのない霊の体に甦るためのプロセスなのですから。畑の中に落ちた一粒の種が、全然朽ちることなく若々しいままであったら、芽も出ないし、花も咲きません。ですから朽ちることもやがて私たちがまとうであろう霊の栄光の体を思えば、悲観することではないということです。むしろ朽ちることによって、朽ちることのない輝いた栄光の体に甦るのですから。

たとえ人生の中で、いつも自分の体に病を抱え、生涯その体の弱さや痛みで悩み苦しむようなことがあっても、その一粒の種である肉の体は、弱さをもっており、やがては朽ちて行くものなのです。誰でもこの肉体をもって生きている間は、その身に弱さももろさも持っています。病気をしたり、失敗をしたり、卑しい体ですから時には罪を犯すかもしれません。これが自然のわたしたちの肉の体です。

でも復活の場合には、このような弱さや卑しさや限界をもった体ではなく、朽ちることのない永遠の体に変わります。卑しい体ではなく栄光に輝く体に変えられるのです。弱い体ではなく、強い体に変えられるのです。このようにわたしたちは自然的な命の体で蒔かれますが、やがては朽ちることのない強い栄光に輝く霊の体に復活させられるのです。そういう信仰と希望をもって生きています。それはイエス・キリストが死者の中から復活したから、彼を信じている私たちも同じように復活の霊の体にあずかることを知っているからです。

3.天に属するわたしたち

パウロはこう言っています。「わたしたちの地上の住みかである幕屋(肉体)が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みか上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。・・この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(Ⅱコリント5:1~4)

先週学んだように、何とか自分を迫害するもののために祝福を祈ろうと心がけております。相手を自分より優れたものとして仕えて行こう、敵に対して報復せず、その人のために善を計ってあげようと願っております。肉を体としている間は、時には迫害するものには何倍にしても報復しようとします。しかし、聖霊は、敵がかわいたら飲ませ、飢えたら食べさせなさいと励ましています。自分の心の中には善と悪がお互いに戦っているような葛藤を覚える時があります。まさにうめき苦しんでいるのが、現実の自分自身です。

それは、この体が天に属する体と地に属する体の両方をもっているからではないでしょうか。パウロもこう言っています。「『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属するものです。土からできた者たちはすべて、土からできた人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(15:45~49)

今はわたしたちは、最初のアダムの体を持って蒔かれました。でも、主を信じることによって既に、新しい復活の命にあずかっているものです。肉の体の弱さをもってはいますが、天に属する霊の体にもあずかっております。確かにこの二つの体は私たちの中で、お互いに戦ってはいます。でも、主に感謝し、聖霊様の助けと力をいただく時に、わたしたちはキリストの姿に似たものとされるのではないでしょうか。天に属する人の似姿にもなるのです。

肉の自分では、敵を赦すことは出来ないかも知れませんが、わたしの内に生きて働いて下さるキリストの力によって、聖霊様の助けによって、敵のために執り成しをし、迫害するのものためにも祈って行くことができるのではないかと思います。復活された主が、肉の弱さの故に悪に負けるのではなく、霊の力によって善を行うことができるようにして下さるのではないでしょうか。

今まで、いかに多くの信仰者がこうして復活の希望をもって信仰の戦いをしてきたことでしょうか。数え上げればきりがありません。イエス・キリストが死んで復活されたからには、同じように主を信じている私たちも同じ復活にあずかるのです。この弱く朽ちてしまうような体ではなく、栄光に輝く霊の体へと甦らされます。わたしたちはすでにこの新しい甦りの命にあずかっています。古い罪の自分は死にました。それならば、そのようの生き方をしたいものです。キリストの十字架と復活を通して、すでに死より甦ったものとして主の御跡に従って行きたいと願っております。         

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional