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御霊のうめき (ローマ8:22~30)

メッセージ

2013年9月1日富里キリスト教会

「御霊のうめき」
(ローマの信徒への手紙8:22~30)

1.被造物のうめき 

19節から読んでみます。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:19~22)

被造物が苦しみうめいているのです。そして、神の子、即ち救われる人間が早く起こされるようにと、人間が神の前にまともになってこの自然を、本来あるべき姿で治めることができるようにと、うめきながら祈っているのです。そして、この被造物自身も、やがていつかはわたしたちと同じ神の栄光にあずかることのできる日が来ることを待っているとあります。

だから、たとえ今のこの苦しみがどんなに大きくても、声にならない声を出して、忍耐して希望をもってその日を待ち望んでいるのです。やがて、すべての人間が救われて、神の子となるならば、そのことによって自分達被造物自身も同じ神の栄光に輝く自由にあずかることができると願っているのです。ですから、彼らも今は苦しいけれども、やがて来る栄光の日を待ち望みながら、うめきつつ忍耐して、その時を持っているというのです。これが被造物のうめきです。

2.体の贖いを待ち望む人間のうめき

そしてこの呻きは、被造物だけではなく主に愛されている私たちも、同じようにうめきをしているとパウロは言っています。23節から読んでみましょう。「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:23~25)

霊の初穂と言いますのは、聖霊様によって信仰告白をし、神の子とされたということです。人間がその最初の救いにあずかっています。御霊は、わたしたちが神の子であることの保障であります。しかし、わたしたちのこの肉の中に存在する罪のゆえに、この体が罪の体であり、肉の弱さを持っているからです。バプテスマを受け、クリスチャンになり、神の子とされたにもかかわらず、わたしのこの体にはまだ罪の力が働き、自分でしようと思うことができないほどに罪の束縛の中にあり、惨めな死の体になっているのです。それでも救われてはいるのです。

パウロも叫んでいます。「ああ、わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるだろうか!」(ローマ7:24)と。
クリスチャンとして神の子としての資格をいだたきながら、人を憎んだり、ねたんだり、批判したりする弱さをまだ持っている自分です。時には、あまりの感情の激しさによって祈ることさえできなくなる時もあります。また、ときには罪に負けてしまうこともあります。悪とは知りながらも罪を犯してしまうこともあります。これが、御霊の初穂をいただいている私たちの現実の姿です。

このうめくような祈りを通して、キリストの体である教会が神の御栄光を現して行くのではないでしょうか。そして、私たち一人一人も、赦せない敵のために、苦しみながらもうめきながらも、声に出して祈る時に、この世界に神の子がまた一人、また一人と産まれて来るのではないでしょうか。これが、わたしたちのこの弱い肉の体が贖われるということではないかと思います。敵を愛する。敵のために祝福を祈る。このような平和への祈り手が、一人また一人と出現することです。そのことを、わたしたちも、また全被造物自身も切に待ち望んでいるのです。

3.御霊のとりなしの祈り

最後に、御霊様もうめきながら祈っていて下さるということを覚えたいと思います。全被造物もわたしたちも共に呻きながら、この体が贖われて神の子が一人でも多く出現することを祈り求めています。しかし、聖書には人間や被造物だけではなく、御霊様である神様も共に呻きながら祈っていると記されています。

「同様に、霊も弱い私たちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、霊自らが、言葉に現せないうめきをもってとりなして下さるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召されて者たちのためには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:26~28)

クリスチャンになれば、人は誰でも祈ることができるようになると考えています。でも、果たしてそうでしょうか。確かに、願いごとやとりなしの祈り、感謝はできるかもしれません。しかし、自分の罪を悔い改めたり、先ほどのフランスの村人のように、自分たちを迫害し苦しめた者のために祈るとなるとそう簡単にはいかない時があるのではないでしょうか。信仰経験のある人であればあるほど、祈りというものはそう簡単にできるものではないということを自覚してくるのではないでしょうか。パウロでさえ、「わたしたちはどう祈るべきか知りません。」と言っています。

祈りの言葉はこの御霊なる神様の言葉なのです。ですから、この私たちの口から出る祈りの言葉が、神様の御前に達するのです。わたしの声ではなく、御霊様の声だからです。神様が御霊の願うところ、御霊の思いを汲んでくださるのです。これが、わたしたちの祈りが神様のところに届く理由なのです。御霊様が執り成して下さるのです。御霊様が祈らせて下さるのです。わたしたちの祈りの声は御霊の声なのです。ですから、祈る時には、まず神様の御臨在を仰いで、神の前に礼拝を捧げて、頭だけではなく心も低くして、主を賛美しつつ畏れひれ伏して畏敬の念をもって祈るべきです。

ですから賛美が必要なのです。礼拝でも、教会学校でも、祈祷会でも、スモールグループでもまず主を賛美してから祈ります。それはこの私たちの献げる祈りが主の御心に適うものでありますように、そして御旨にかなった正しい祈りを献げることができますようにと心を整えるためです。そして、主の御臨在を仰ぎつつ、御霊様の導きを願いながら祈るのです。

ですからパウロはこう言っているのです。「神は愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(8:28)わたしの好きな御言葉ですが、どういうことかと申しますと、どんな苦しみや、困難や問題があっても、この御霊のとりなしによる祈りによって、すべてのことが益(=プラス)になるということです。

なぜか、それは私たちの献げる祈りの言葉は、実は私たちの言葉ではなく、御霊様の言葉だからです。神様御自身の言葉だからです。そして、御霊様ご自身が、わたしの代わりに、わたしの思いを汲んで、共に苦しみうめきながら、神様に向かって声をあげて下さるのです。これは神様御自身の声です。神様の祈りです。もし、わたしたちの献げる祈りが、わたしたちの声ではなく神様御自身の声だったとしたら、どうでしょうか。その祈りは、間違いなく天のお父様の耳に達することになるのではないでしょうか。「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。」(8:27)とあります。御霊のうめくような声ですから、天のお父様がそれを聞いてくださって、すべてのことを益、即ちプラスにして下さるということなのです。これが、祈りがきかれるということです。しかも、万事を益となるような結果で祈りがきかれてゆくということです。

ですから、イエス様が、「祈り求めることは、既にかなえられたと信じなさい。」(マルコ11:24)といいました。また「誰かに恨みに思うことがあれば、赦してやりなさい。」(マルコ11:25)と言われたのです。これが御霊のとりなしによる御心に適った祈りです。確かに、そこに至るまでは心の葛藤があるかもしれません。悩み苦しみうめくかもしれません。でも御霊様が、そういう弱い私たちを助けてくださいます。ですから、うめきながらでもいいです。わたしたちよりも御霊である神様の方が、一緒にうめきながらでも御心に適う祈りができるように励まし助けてくださいますから。祈りましょう。この祈るという最高の特権をわたしたちは与えられたものです。(岡田 久)

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