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御言葉を土台とした人生 (ルカ6:46~49)

メッセージ

2013年11月10日富里キリスト教会

「御言葉を土台とした人生」
(ルカ6:46~49)

1.二つの家の共通点

短いたとえ話ですから、もう一度読んでみましょう。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその人の家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方はひどかった。」(ルカ6:46~49)

ここに二つの家がたとえで語られています。どちらも新築の立派な家です。ただしこの二つの家は一見、立派に立ってはいますが、台風などで水が出たり、洪水がやって来るとその結果は全く違ってしまいました。一方は、洪水が来てもしっかりと立っているし、もう一方は、洪水が来るとあっという間に土台から崩されて、流れされてしまいました。

わたしたちもそうです。信仰を持って、教会に来て、信仰生活を続けています。しかし、長い信仰生活の中では、いろんな人生の嵐や台風や洪水に見舞われる時があります。どちらのクリスチャンも、外見的には違いはありません。信仰を持って、教会生活を送っています。「主よ、主よ。」と呼び求める祈りもします。クリスチャンの交わりをして、教会を建て上げることができました。

そして、表面的なうわべだけの信仰や見せかけの信仰をはぎ取って、試練の前には不信仰な姿、弱い自分の姿というものを見せつけることがあります。しかし、私たちはそのようなことを人生の中で何度か経験して行くうちに、嵐や洪水が来ても流されない、人生の基盤と言いますか信仰の基礎をしっかりと持つことができるようになるのではないでしょうか。嬉しいような辛いような思いですが、信仰生活とはそういうものです。そのような試練を何度か経験して行く中で、それを乗り越える術と力を一人一人に植え付けて下さるのが私たちの神様です。

2.二つの家の相違点

次に、では一体この二つの家のどこが違っていたかを見てみたいと思います。建物にとって大事なものは、外見の上物の建物ではなく、目に見えない家の土台であるということが解ります。それでは、いったいどういうところが、岩を土台にしていたのかを、三つの点においてみてみたいと思います。一つは、「御言葉を継続して聴き続ける」ということ。二つ目は、「主のもとに行く信仰」について。三つ目は、「御言葉を聞いて行う信仰」についてみてみたいと思います。

A.御言葉に継続して聴き続ける

まず第一に、クリスチャンにとっての揺るぐことのない土台とは、「主のもとに行くこと」「主の御言葉を聞くこと」「それを行うこと」なのです。日本語ではよく解りませんが、「主のもとに来る、御言葉を聞く、それを行う」と言う動詞が、どれも原文のギリシャ語では現在分詞の形をとっています。つまり英語でいいますと、全部に~ingが付いています。つまり、主のもとに来続けている、御言葉を聞き続けている、それを行い続けているということです。これが岩の上に立った家です。

それに比べ、あとの土台のない人の場合には、「聞いても、行わない」は、全部、過去形になっています。つまり、昔は聞いていた、でも今は聞いていない、昔は一回聞いたことがあったが、でも今は聞いていない。昔は、一回は行ったことがあるが、今は行っていないということです。残念ながら、この一回限りの御言葉に聞くというクリスチャンがいかに多いかということです。

岩を土台としている人は、過去に一度だけ御言葉を聞いたというのではなく、現在も常に、御言葉のもとに行って、御言葉を聞き続け、それを行い続けている人のことです。これが、岩を土台としている人の生き方です。御言葉は生きていますし、昔も語り今も語り続けています。私たちが、聞く耳さえ持っていれば、いつでも語って下さるのです。

B.主のもとに行く

二番目に、耐震設計のない家のどこが違っていたかと言いますと、一番最初の言葉です。「主のもとに行かなかった」ということです。イエス様は、「まず、私のもとに来なさい。」とおっしゃいました。でも、流された家の人は、「聞いても行わないし」、もともとイエス様の御許に行っていませんでした。イエス様のもとに行くということは、ただ、礼拝に出席する、スモールグループに参加するということではなく、イエス・キリストの御言葉の権威に従うということです。主の足もとにひざまずいて、主の権威の前にひれ伏して、神を畏れ敬い、その権威に従うということを表しています。

マルタとマリヤと言う二人の姉妹がいました。姉のマルタは一生懸命おもてなしをして忙しくしていましたが、妹のマリヤは、イエス様の足もとに座って、じっとお話を聞いていました。(ルカ10:39)仕事をしない妹に向かって、姉は、イエス様に訴えました。「妹がサボって何もしません。イエス様、妹になんか言って下さい。」と。するとイエス様が、「マリヤは良い方を選んだのだから、それを取り上げてはいけない。」と姉をやさしくたしなめました。妹のマリヤは、イエス様の足もとに座って御言葉を聞いていました。これが、主のもとに行くということです。つまりイエス様の足もとに座って、いつでもその御言葉に従う用意があるという態度を示しています。御言葉への徹底的な服従です。

また、この洪水に流された家のお話の後にも、同じようなことが述べられています。ローマの百人隊長が、自分の部下が病気になって、イエスにいやしてもらおうとしました。しかし、自分は異邦人で直接には主にはお会いできないことを知って、使いの者をやって、「ただ、お言葉をください。そうすれば僕の部下は治ります。」(ルカ7:7)と言いました。「自分は権威に従う者だから、何でもご命令に従いますので、わたしの部下をいやして下さい。」と頼みました。するとこれを聞いたイエス様は、これほどの信仰を見たことがないと言いました。百人隊長は、神の言葉の権威の下に服して、それに徹底的に従おうとしたのです。これが、主のもとに行くということです。

一方、土台を据えていない家の人は、主のもとに出て行ってはいません。ただ、集まって来ただけです。そういう人は、聞くには聞くが、それに従おうとはしないでしょう。何か物珍しい話を聞いて、感慨深い話を聞いて満足して帰って行くだけです。「今日の説教は良かった。」と。決してその言葉に従おうとはしないのです。これが、土台を据えていない人の信仰です。御言葉の権威への徹底した尊敬と服従に欠けている人です。礼拝の時だけ、教会にいる時だけの信仰で、それを家の中で、自分の地域でも行わない人のことです。当然、御言葉を聞くには聞くが、それを行わないようになってしまいます。

C.御言葉を聞いて行う

そして第三番目ですが、何と言っても岩を土台としている家は、御言葉を聞いて行う人です。明確な違いは、主の御言葉を聞いてそれを行うかどうか、この一点だということです。皆さん、今日も礼拝に来ています。主の御もとに来ました。そして、聖書の御言葉を聞いています。後はそれを聞いて行うかどうかだというのです。その行うかどうかによって、岩の上に立てているか、砂の上に立てているかの違いが出るというのです。それが、この家のたとえ話の一番大きな違いです。

もしかしたら、いや信仰さえあれば、行いはなくてもいいのではないですかと言われる方もあるかもしれません。でも信仰と言うのは、ただ信じるのではなく、この主の言葉に対する絶対的な信頼です。そしてこの御言葉の権威を信じ畏れて、それに従うことが信仰ではないでしょうか。百人隊長は、別にイエス様の御言葉を行ったわけではありません。ただ、「自分は異邦人、しかもローマ人で兵隊であり罪の下にある人間です。主のもとに行くことさえはばかるような罪人ですが、こんな人間にもお言葉が頂ければ感謝です。」と全幅の信頼と畏敬の念を持って御言葉を待ちました。これが、行いを伴った信仰です。

このように、信仰と言うのは、主の御言葉の権威に従って、実際に一歩踏み出してみなければ解りません。たとえ、先が見えずとも、無理なように思われても、一歩信仰を持って踏み出す時に与えられるものです。主の前にへりくだり、その権威を信じて自分を明け渡して、ゆだねてゆく時に実現して行くのが信仰の出来事です。み言葉は実際の経験の中で試され、磨きがかけられて、私たちの心の底に、がっちりと土台を造って下さいます。何事にも揺るがない人生の土台です。それはイエス様の御言葉の権威に従い、御言葉を聞いてそれを行うことによって、ますます確かなものになって行きます。

教会もそうです。このイエス・キリストの御言葉の権威を第一とし、この御言葉に立つ時、教会はしっかりと土台をさえてこの世にあって建ってゆくことができます。私たちの教会も、そして私たち一人一人も、もう一度、自分の家の耐震設計、対洪水設計を見直して、信仰の補強をしましょう。どんな嵐が来ても、地震が来ても揺るぐことのない岩に土台をしっかりと据えて行きたいと願っています。                       (岡田 久)

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