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御言葉に従った司令官ナアマン (列王記下5:9~14)

メッセージ

2011年1月30日富里教会
「御言葉に従った司令官ナアマン」
            (列王記下5:9~14)
1. 小さな宣教師

アラム軍の将軍であり軍の司令官であったナアマンは、アラムの王様の信頼も厚く、数多くの武勲を立て、イスラエルに侵入していった時にも勝利を収めた勇士でした。ところがこのナアマン司令官に唯一つのそして最大の悩みがありました。それは、重い皮膚病を長年患っていたことです。他の聖書ではその病いはらい病だったとも書かれてあります。らい病は大変な病です。どんなに高い地位と名誉がありましても、どこの国の人であろうと苦しくつらいものがあります。この病気さえなければ、この病いを何とかしたい、どうして自分だけがと考えてしまうものです。

そしてナアマンの家には、イスラエルから拉致して来た一人の少女がいました。この少女はナアマンの妻の召し使いとして使われていました。ある日、この小さな女の子がナアマンの妻に「ご主人様がサマリヤの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」(5:3)と言いました。わらをもすがる思いであったナアマンは、この少女の一言を聞いて、そのイスラエルの預言者のところに行く決心をします。病や痛みは人を謙遜にしてくれます。

私は、このお話を読んで、神様はこんな小さな少女をさえ、ご自分の伝道の目的のために用いるお方だということを知りました。このかわいそうな一人の少女、しかも捕虜として連れ去られ、拉致された少女を通しても一人の心ある異邦人をさえ救おうとされました。神様は、救いのためには、どんな手段をも用いられるお方だということを、まず第一に覚えたいと思います。

2.聴くことはへりくだること

ナアマンは自分の病の故に、召し使いの少女の言葉を聞いて、礼を尽くして、わざわざ属国までやって来たのでした。そして、イスラエルの王がさじを投げたところで、預言者エリシャが登場します。エリシャは人を遣わして、自分の所に来るようにと勧めました。ナアマンがどうしたか、次の5:9以下を読んで見ましょう。

「ナアマンは数等の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。エリシャは使いの者をやってこう言わせた。『ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。』ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。『彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれると思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。』彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。『わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。』ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダン川に七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供のようになり、清くなった。」(列王記下5:9~14)

A.部下の声に聴き従ったナアマン

ここに、ナアマンの心の葛藤が手に取るように述べられています。エリシャは、自分で出てきて、ナアマンの体に手を触れてじきじきにいやしたのではなく、使いの者をやって、なすべき事を告げました。アラムの高官に顔も見せずに挨拶もせず、本当に無礼な態度だったと思います。ナアマンにしてみれば、はるばるアラムから、高価なお礼の品物をたずさえてやって来たのに、人を差し向けて言いつけるとは、侮辱されたも等しい行為でした。さすがのナアマンも、堪忍袋の緒が切れました。

「せっかく来たのだから、預言者自身が出てきて、手をかざすとか、なでるとかしてみてくれればいいものを、あのドロで濁った汚いヨルダン川に行って、七回身を洗えだと。人を小馬鹿にするのもいいかげんにしてもらいたい、そもそもわしを誰だと思っているんだ。」と怒り心頭になって憤慨して帰ろうとしました。それでも、同行した部下たちの勧めを聞いて、彼はヨルダン川に下って行って7回、川の中に身を浸しました。バプテスマのようにして、7回水の中をくぐりました。そうしましたら、なんと彼の皮膚病はきれいになくなり、体はもとのように、いやまるで子供のようなつやつやしたみずみずしい肌になったのです。これは彼が本当に、体も心も霊も新生児のように新しく生まれ変わったことを示しています。まさに奇跡が起こりました。

また、いかに人間が他人の言葉に耳を傾け、それに従うことが難しいかということです。もし、ナアマンが自分の家でも、亭主関白で奥さんの言うことも、ましてや召し使いの言うことにも全く耳を傾けないような人物だったら、おそらく奇跡は起こらなかったでしょう。また、部下を支配し部下に恐れられ、部下の言うことを全く聴かない上司であったならば、おそらく奇跡は起こらなかったでしょう。でも彼は、家族の声を聴き、召し使いの声を聴き、また自分の忠実な部下の声にも耳を傾けて聞きました。そして、その声に従いました。

B.へりくだって川岸に下って行ったナアマン

でも、部下の声に従うまで、ナアマンにだって葛藤がありプライドがありました。こんな濁った小さなヨルダン川よりは、ダマスコのアバナ川やパルパル川の方がきれいだし大きい川だというプライドもありました。実際、彼は誇り高きアラム軍の総司令官です。それを人をよこして指図するとは何事か、この皮膚病が移るので触れたくないのかと思ったに違いありません。

不本意であったかも知れませんが、あの茶色く濁ったヨルダンの川岸に下って行って、水に入りました。そしてエリヤの言ったとおりに7回、体を川に沈めたのです。エリシャの言葉に憤慨しても、神様は彼のそばに別な代弁者を置いて下さって、そのそばの人の忠告の言葉を通して、へりくだって御言葉に従うようにしてくださいました。

14節に「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダン川に七度身を浸した。」とあります。つまり、御言葉に従うためには、川の中に身を低くして下って行かなければなりません。しかも、自分が軽蔑していたあのヨルダン川の岸辺へとです。「下って行って」(=Go down)はじめて、水を飲むこともできるし、身を沈めることもできます。「下って行く」と言うことは、身を低くすする、へりくだることを意味しています。へりくだること無しには、御言葉に聴き、御言葉に従うことはできません。へりくだるならば、この神の御言葉にあずかることができるのです。

アメリカのフォークソングの中に、「川岸に下ろう」(=Down by the riverside)という歌があります。その歌詞の中には、何度も何度も「ダウン・バイ・ザ・リバーサイド、ダウン・バイ・ザ・リバーサイド、川岸に下って行こう、川岸に下って行こう」という言葉が繰り返されています。私はこのフォークソングは、列王記のナアマン司令官のことを歌った歌ではないかと思われてなりません。

4.生まれ変わったナアマン

いやされたナアマンは、従者と共に来た道を引き返して、エリシャに会いました。そして「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」(15)と信仰を告白しました。天地万物を造られ、今も生きておられる真の神に出会ったのです。そして、持参した贈り物をエリシャに渡そうとしましたが、エリシャは辞退しました。そうしましたら、イスラエルの土を持って帰りたいと言い、そのことは許されました。おそらく、偶像崇拝の国アラムに帰って、このヨルダン川の土で祭壇を造って真の神を礼拝をしようとしたに違いありません。ナアマンは、神を礼拝する者へと変えられました。

また、彼の真面目な性格が表れていますが、エリシャにこう言いました。18節を見て下さい。「ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしも介添えさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さなければなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。」(5:18)と。これに対してエリシャは「安心して行きなさい」と答えました。でも、これが恒例化しないように、その都度その都、度真剣に祈りつつ、神様のとりなしと助けを求めながら参列したいものです。当たり前のように、あるいは自分から積極的に参列する事は気をつけなければなりません。

この一人の司令官を通して、異邦の国アラムにも神の救いが伝えられました。しかも最初は、連れ去られていったたった一人の小さな少女から始まった出来事です。神様は、どんなことをしてでも御言葉をこの地に成し遂げられます。
捕虜という不幸な出来事、病という悲しい定めの中にあっても、そのような苦しみ悲しみを通しても主のみ言葉は、それに従う者を喜びと感謝へと導いて下さいます。私たちも、このナアマン司令官のように、へりくだって主のみ言葉に耳を傾け、御言葉に従って行く生き方をしたいものです。(岡田 久) 

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