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御心がなりますように (ルカ22:39~46)

メッセージ

2014年11月2日富里キリスト教会

「御心がなりますように」
(ルカ22:39~46)

はじめに

イエス様がこの世に来られた目的も、天の父なる神様の御心をこの地上で行うために来られました。そして、イエス様御自身は父なる神様にどこまでも徹底的に服従された方でした。「わたしの食べ物とは、わたしがお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)、「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハネ5:30)、「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」(ヨハネ6:38)とあります。

自分の意志や自分の考え、自分の思想、ポリシーで行動するのではなく、主イエス御自身がそうであられたように、私たちクリスチャンも天の父なる神様の御心を行うことに、全生涯をかけて従うことが大切ではないでしょうか。そういう生き方をイエス様御自身が生涯、身をもって示して下さいました。ですから、たとえこのルカ福音書では、この第三の「み心がなりますように」という祈りが欠けていたとしても、主イエスの生き方を通して、私たちも主に従って神の御心を行うことができるように、祈り求めて行くことが大事ではないかと思います。

1.み心の天になる如く

さて最初の「み心の天になる如く」という言葉ですが、私たちの救い主であられるイエス・キリスト様は、肉を取って天から降って来られました。そして30歳から3年間、伝道の公生涯を歩まれ、数々の御言葉と御業によって、神の国の到来を告げ知らせました。そして、最終的には、ご自分を贖いの子羊として、全人類の罪の贖いのために十字架にかけられ、苦しまれ、死をもってすべての人々の罪を贖って下さいました。そして、三日目に死人の中より復活されて、私たちに救いの道を開いてくださいました。

そして40日間、その復活の体を弟子たちに現されました。復活されてから40日目に、みんなの見ている前で天に昇って行かれました。その時、主はまた同じような姿でこの地上に再び来ると言われました。世の罪の贖いの業を果たし終えた後で、ご自分が来られた父のみもとへと帰って行かれました。今キリストは、天に帰られて父なる神様の右の座に着いておられます。

「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:20~23、新P353)

天上における父なる神様の右の座と言いますのは、すべてを支配する権威、力、主権が与えられた天の神の御座です。それは力と尊厳と栄光の御座でもあります。そこではキリストは、すべてのものを支配し、すべてのものをその足元に従わせておられるのです。それはすべての敵をその足元に置くまで支配し、最後の敵である死が滅ぼされるまで続けられるのです。そしてそのために聖霊様が、父から御子に与えられ、御子から私たちに降されて、今も救いの業をこの地にもなし続けておられます。

キリストは今は、天上におられますが、御自身は教会の頭として、御自身の体である教会の中に満ち満ちておられるのです。教会は天上におけるキリストのからだそのものを地上で表したものです。目に見えないキリストのからだが、この教会の交わりと働きを通して、この世界に証しされております。そして、御自身の体である教会が、キリストが語られる御言葉と御霊の働きによって洗い清められて、天上のキリストの栄光の体を表すことができるようにと、今も私たちのために十字架の上で執り成していて下さるのです。

しかしながら、この地上にあるキリストのからだである教会は、この世の罪とサタンとの戦いの真っただ中にあって、いまだに完全な勝利をみてはいません。(ヘブライ2:8)しかしながら、すでにキリストの十字架と復活によって救いは成し遂げられました。キリストは罪と死とサタンに完全に勝利されました。そして今私たちは、救いの完成を目指して、この私たちの体も教会も完全に贖われることを祈り求めつつ歩んでおります。

天上ではすでに、すべての被造物が主の前にひれ伏して礼拝しているように、やがてこの地上においても、福音宣教によって全ての被造物が主の前にひれ伏して、天にある者も地にある者もすべてのものが一つになって、一つの神を礼拝することができるよう祈っております。これが「み心が天になる如く」という第三の祈りではないでしょうか。

2.地にもなさせたまえ

すでに天上では、その御座に父なる神様がおられ、その右の座にはイエス・キリスト様が着座されておられます。そして天上のあらゆるものが、聖なる御座におられます父なる神と神の子羊であるキリスト様を囲んで礼拝をしておられます。しかしながら地上では、いまだにサタンが律法を武器にして罪を起こさせ、その結果として人間に死をもたらす力が働いております。サタンはすでに十字架によって滅ぼされましたが、最後の抵抗を続けてクリスチャンと教会に戦いを挑んでおります。

キリストのからだであるはずの教会でも、クリスチャン同士の争いが起こったり、分裂や分派が起こって教会がバラバラにされたりします。神の選ばれた聖徒に対して、サタンは罪を起こさせようと必死に最後の抵抗をしております。今なお、キリストのからだである教会が傷つきうめいております。そして、世の人々は今なお、罪とサタンの支配の中にあって、戦争をして互いに傷つけ合い殺し合ってうめき苦しんでおります。

でも、勝利はすでに、神の子羊によって成し遂げられました。後は時間の問題です。そして時が来れば、天からキリストが下って来られ、最終的に死と悪魔は滅ぼされてしまいます。ですから、この「み心をなしたまえ」という祈りは、クリスチャンが完全にキリストのものとなり、自分の体を通して神のみ業がなされるようになることを祈る祈りです。「御名を崇めさせたまえ」は神に向かって手をあげて祈り求めることです。「御国を来たらせたまえ」は自分の心の中にキリストの全き御支配が実現するようにという祈りです。そして「み心をなさせたまえ」は、自分のこのからだを通して、その行動と言葉において、神の御意志、神の御計画がこの世に向かってなされるようにという祈りではないでしょうか。

いわば、祈りに祈ったあげくに、神の救いの勝利を信じて最後に主にゆだねて、一歩踏み出す時の祈りとなって行くのではないでしょうか。罪との戦いの祈りのような気がします。でもそれは、恐る恐る出て行くのではなく、すでにキリストが勝利したことを信じて踏み出す時の祈りではないかと思います。

あのオリーブ山のゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られたイエスの祈りこそ、この第三の祈りの模範を見ることができるような気がします。22:41から読んでみます「そして自分は、石を投げて届くほどのところに離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、み心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、み心のままに行って下さい。すると天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。』」(22:41~44)

イエス様は、父なる神様に、「み心でしたら、この十字架の杯を取り除けてください。」と祈っています。イエス様は、真の神であると同時に真の人間でした。ですから私たちと同じように、十字架の苦しみと死に対する畏れ、恐怖を抱いていました。できれば自分が苦しまなくても死を選ばなくても、人々を罪から救う道を教えて下さるようにと祈ったに相違ありません。

それは血を流すほどの死に物狂いの祈りでした。こんな激しく苦しい祈りがあったでしょうか。自分の願いと神の願い、自分の思いと神の思い、自分の意志と神の意志が激しくぶつかり合った場所でした。まさに、「ゲッセマネ=(油絞り)」の園にふさわしい祈りの戦いでした。まるで石のひきうすに身体が挟まれて、石の重みで身体がつぶされるような苦しい祈りの戦いです。イエス・キリストは十字架の上で肉を裂かれ、血を流して苦しみを嘗め尽くされたように、この祈りの戦いにおいても精神的霊的な苦痛を味わわなければなりませんでした。

そしてこの祈りを終えて立ち上がった時には、すでに主の心は決まっていました。祈りにおいて主は決断されたのです。しかし、祈りが終わった後には、主の心は定まって、しっかりとその眼は十字架を見据えていたのでした。祈りの中ですでに主は勝利されたのでした。「み心でしたら、この杯を取り除いて下さい。」という祈りから「み心のままになさってください。」という祈りに変わりました。主イエスは十字架にかかる前に、既にこの祈りにおいて勝利を確信されたのではないでしょうか。たとえ、目の前に自分の死が待っていようとも、多くの困難が待ち構えていようとも、その先には光がある、復活の命があり、勝利があることを確信したのではないでしょうか。全てを神に委ねて立ち上がったのです。

3.信仰の決断の祈り

新約では、このイエス様のゲッセマネの祈りがありましたが、旧約聖書にも同じような祈りをした人物を思い出すことができます。それは、あの神と夜通し格闘して祈ったヤボクの渡しでのヤコブの祈りではなかったでしょうか。この川を渡るべきか引き帰すべきか、兄のエソウと会うべきか、合わないでそのままやり過ごすか。できれば、合いたくない。兄の反感を買って下手をすれば一族もろとも滅ぼされてしまいかねない状況でした。このままそっと父イサクのもとに行くこともできたはずです。

でもそれでいいのだろうか、ヤコブは一人川辺に残って思案にふけりました。そして、そこに神の御使いが現われてヤコブと闘ったのです。自分の意志が勝つか、神の意志が勝つかの死に物狂いの戦いでした。神の前にまた兄エソウの前に出て、謝罪するかどうかの分かれ目でした。一晩中祈り続ける戦いでした。ヤコブは一晩中、この神の使いと格闘をするような祈りをして、ついに神の使いに勝ちました。しかし、その時彼の腿のつがいも外されていたのです。腿のつがいという体で一番大事な力の中心部分が、神の手に触れられて砕かれたのです。ヤコブの自我が完全に砕かれて、彼は主に全てを明け渡して、ようやく川を渡るその一歩を踏み出すことができました。

「自分が正しい、わたしは間違っていない、悪いのは兄の方だ。」と言い張ってきたヤコブの自我が祈りの末に砕かれ、彼は一切を主に明け渡して委ねて、兄と会う決心をしました。そこで彼は新しく生まれ変わったのです。新しい人ヤコブ(=イスラエル)の上に太陽が上り、彼は杖をついて立ち上がりました。そして兄エソウに面会しました。すると、兄に滅ぼされてしまうどころか、敵である兄エソウが駆け寄ってきてヤコブと和解の接吻をしたのです。「み心の天になる如く、地にもなさせたまえ。」の祈りが成就した瞬間です。

私たちが心の中に葛藤を覚えながらでも祈る時、神様は必ず最善の道へと導いてくださいます。祈りの中で私たちは勝利を確信することができるのではないでしょうか。ですから、私たちが眠ってしまって祈りを止めるようなことが無いように、天使が現われて励まして下さいます。人を憎んだり、恨んだり、赦せなかったりして、祈りを止めてしまったり、教会から離れてしまわないで祈り続けることを主は願っております。絶えず主の御心を求め、自分の固い意志や考えを捨てて、主の御心に従って歩むことを主は願っておられます。

「御心が天になる如く、地にもなさせたまえ」と祈ることができるならば、私たちはすでに祈りの中でそのことはかなえられたと信じることができるのではないでしょうか。なぜならば、そのことが神様の御心だからです。神様の御心を求め、神様の御心を見つけ、神様の御心に従う道を選び取るならば、そのことは祈りの中で既にかなえられたと信じることができるような気がします。この祈りを通してヤコブは兄の前に、イエス様は十字架の前に一歩足を踏み出す決心をしました。たとえそれが、不本意な道であり、苦しみの道であり、実現不可能のように見えましても、その信仰の一歩が神の一歩となって行くのではないかと思います。

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