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御名を崇めさせためえ (マタイ6:5~15)

メッセージ

2014年9月7日富里キリスト教会

「御名を崇めさせたまえ」
(マタイ6:5~15)

1.祈りの心得

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:5~8)

イエス様は、まず祈りの心得をわたしたちに教えております。ここに二つの偽善的な祈りが述べられています。一つは「人に見てもらおうとして祈ること」と、「言葉数を多くしてくどくどと祈る」ということです。もし人に見てもらおうとして、神殿の階段のところに立って祈っている人は、すでに人々の賞賛を受けてしまっているのだから、もう祈りの報いを受けてしまっていると言っています。「あの人は祈り深い。」「あの人は敬虔で信仰深い。」という賞賛を人々から受けしまっているのだというのです。そうではなく、本当の祈りは、わたしたちの隠れたことをご覧になっている天の父なる神様に祈りなさい、そうすればあなたがたの隠れた祈りは神様に届けられているというのです。人に見られなくても、神様に見られることの方が大事だというのです。

そのためには、奥まった自分の部屋に入りなさいと言っています。これは自分の心の中の奥底までご覧くださる神様の視線を覚えて、一人静まれる個室を選びなさいと言っています。静まって、自分の心の奥底に沈んでいるいろんなお思いを主に申し述べるようにということです。そのためには、喧騒な場所や人が出入りする場所ではいけません。静まれるところです。

そして、「戸を閉める」ということも大事です。外界から遮断するということです。心を統一して神様だけにまっすぐに向き合うためにも、いっさいの外部との交渉を遮断することです。電話や携帯をそばにおいてもいけないかもしれません。人に邪魔されないようにすることです。そこでは、神様の懐に入って、神様と一対一で相対する場所ですから、聖なる場所であり聖なる時間になると思います。自分の部屋がない人は、ともかく一人になれて邪魔が入らない場所を選ぶことが大事ではないでしょうか。自分の部屋がない場合は、車の中で祈ることもいいかと思います。

2.天にましますわれらの父よ

公の祈りでは「天にまします我らの父よ」となっていますが、聖書では「天におられる私たちの父よ」となっております。わたしたちの神様への祈りは、まず何と言っても「天のお父様」、あるいは「天にまします我らの父よ」という呼びかけから始まります。そう祈りなさいとイエス様が教えてくださいました。まず、最初に私たちと神様との関係を明確にしています。それは、神様は父なるお方だということです。そうであれば、私たちは子であるわけです。つまり、父と子の関係にあるということです。

これが、一般的なこの世の神様に対する祈りと違う点です。クリスチャンだけが、そしてキリストの弟子である私たちだけに赦された祈りの言葉であり、祈りを献げることのできる者の特権です。ただ単に、信じる者と信仰の対象者である神との関係だけではなく、もっと親しく父として呼びかけることが赦されている神なのです。しかもこのお方は天におられるのです。この天におられるからこそ、すべての物を造られ、すべての物を御支配しているお方だということです。決して、この地上のどこかにおられるというお方ではないのです。この世界の創造主であり世界を御支配しているからこそ、私たちの願いごとに答えてくださるお方なのです。

私たちの神様は、目に見えませんし、この世を超越しておられるお方で、天におられます。人間の手の届かない所におられ、人間の意のままになる神ではないのです。それ故に、私たちはこの目に見えないお方ですけれども、父として呼びかけることができるのです。父というのは、私たちを生んでくださった方です。そしてわたしたちを養い育ててくださったお方ではりませんか。いつも愛の眼差しをもって、愛と寛容をもって私たちを見守っていて下さいます。そして、わたしたちが間違ったりすると、時には叱ってくれます。決して見捨てたりされる方ではりません。これが父なる神です。

あの放蕩息子の父親のような存在です。時には厳しく訓練してくれます。また時には見過ごしてくれますが、いつも愛の内に心配して見守っていて下さいます。父親のような方です。親という漢字の示す通り、父親は、「木の上に立って私たちの帰るのを見ていて下さるお方」だということです。そして、わたしたちが悔い改めて父の家に帰って来るならば、喜んで迎えて下さるお方です。

天にはおられますが、私たちが自分の罪を悔い改めて父のもとに帰るならば、いつでも迎えに出て下さるのです。しかも、いつ帰って来るのかと待ち続けておられるお方なのです。呼べばすぐそばにいて下さるお方なのです。悔い改めた砕かれた魂のすぐそばにいて下さるお方なのです。そういう私たちに、ご自分を父として現して下さいました。これが父なる神様であり、「天のお父様!」と呼ばせて下さるお方です。ですから、この「天にまします我らの父よ」という祈りの呼びかけは、イエス・キリストを通して父なる神のもとに立ち帰った者にだけに許された、神の呼び名なのです。

また「我らの父」と呼んでいるということは、ユダヤ人だけの父ではなく、アメリカ人だけの父だけでもなく、ロシア人の父でもあり、日本人の父でもあり、中国人の父でもあり、イラン人の父でもあるということなのです。全世界の人々の父になって欲しいという願いも入っているのです。それは私たちだけの願いではなく、神様もそのような父なる神として崇められることを願っているということです。ですから、「天におられる私たちの父よ」と祈りなさいとイエス様が教えて下さったのです。

3.願わくは御名を崇めさせたまえ

この第一の祈りの中で、やはりキーワードは「御名」と「崇める」です。御名と言いますのは、神様の名前ということですが、ただ単にその人を呼ぶというだけのことではありません。その名前には、その方の本性と言いますか、その方の御性質と御人格が表されているのではないでしょうか。

私たちに与えられている名前は、イエス・キリストです。そしてこのお方を通して父なる神様、聖霊なる神様を知ることができました。ある方は、わざわざ「イエス・キリストの父なる神様」と呼びかける方もいます。御独り子イエス・キリスト様をご啓示して下さった神様は、御子の十字架の死を通して私たちに御自身の愛を示して下さいました。それは、あの放蕩息子の父親のように、誰でも罪を悔い改めて、父なる神の御前に立ち帰って来るならば、その罪を赦し、再び私たちに神の子としての地位と身分を与えてくださるというお方です。そして、御子イエス様と同じように、「天のお父様」と呼ぶ特権を与えてくださるお方なのです。

次にこの「崇める」という言葉ですが、ギリシャ語では「ハギアゼイン」という言葉です。これは「聖なるものとする」という意味と同時に、「尊敬する」という意味があります。ですから、ある人は「御名が聖く尊ばれますように」と訳していました。まず神の名が、聖別されることです。そしてこの神の名を呼び求めるわたしたちも同時に、聖なるものとなることを目指します。そして、それは、私たちの聖なる行いや態度を通して、私たちだけではなく他の人々も神を敬い尊敬するようになりますようにという意味が述べられています。これが「崇められますように」ということの意味です。

この「崇める」という漢字にもそのような意味が隠されています。「山カンムリ」の下に宗教の宗という字があります。山は、神様のいます場所です。この山という漢字も、山の形のイメージから来たと言われていますが、よく見ますと、三つの縦の棒が下で一本の棒に繋がっています。これは三位一体の神を表しているとどなたかがおっしゃっておりました。なるほどなと思いました。

この三位一体の神の元に私たち人間がいて、神を仰ぎ望むことが「崇める」という漢字の意味だそうです。下の「宗」という漢字は、宗教の宗ですが、これは文字通り、「ウカンムリ」つまり一つの家を表しています。その一つの家の下に示すという字がありますが、これは神の存在を示すお供え物の台を表しています。つまり、家族の者が一緒に集まって、三位一体の神を仰ぎ望む様子を表したのが、この「崇める」という漢字の意味だそうです。

ですから今日のこの礼拝のように、私たちが神の家族として一つ屋根のもとで、共に祭壇を囲んで、神を仰ぎ見ることです。今日は主の晩餐式がありますから、このイエス・キリストの贖いと復活によって神の前に立つ、これが今日の礼拝です。それは私たちが、神の名を聖なるものとして聖別し、この御名を尊敬することです。そのために私たちもこの世から聖別されて、主の前に出て礼拝を献げております。主の復活を記念して、日曜日を特別な聖なる日として神を礼拝しております。

そして、この私たちの礼拝の姿を見て、この世の人たちも共に神を礼拝することができるようにという証しの要素もあります。声を掛け合って、神様を礼拝しに行こう、今日はCSの最高出席日だから10時から出席しようと誘います。このように、私たちだけではなく、願うことならば、全世界の人々が、全ての造られたものが、神を崇めることができるようにさせてくださいと祈ること、これが「御名が崇められますように」という第一の祈りです。

ですからまず、私たち自身を聖別しなければなりません。そしてわたしたちが集まって共に主に礼拝を献げているその姿や生活がこの世に対する証しとなります。そして、すべての被造物が最終的には、神を崇めるようになりますようにという祈りの言葉が、この第一声なのです。もうこの最初の「天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ。」という祈りの言葉で、全部の主の祈りを言い尽くしていると言っても過言ではありません。

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