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弱い人が必要 (Ⅰ コリント12・20〜26)

メッセージ

2010年3月7日富里教会
           「弱い人が必要」
        (コリント人への第一の手紙12章20〜26節)

1. 一つの体、様々な賜物
12:13に「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるためにバプテスマ(洗礼)を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分からなっています。」(12:13〜14)とあります。

私たちは一つの霊によって、一つの同じ信仰を与えられ、一つのバプテスマによって、一つのキリストの体に結ばれました。教会はこの地上に残されたキリストの見える体であり、この世に対してキリストの愛と真理を交わりを通して現して行くところです。そして、一つの霊によって救われた私たちが、一つの体である教会を形づくるために、様々な霊的な賜物が、一人一人に与えられています。ある人は、このようにして説教する預言の賜物、ある人には強い信仰、ある人には病気を癒す力、ある人には奇跡を行なう力、ある人には音楽や賛美の賜物、伝道の賜物、献金をする献げものの賜物、管理の賜物いろんな働きや務めがキリストの体に与えられています。

2. お前は要らない
ところが、このコリント教会では、「私は、あの人と違うから、同じ体には属していない。」とか「あの人は、足手まといだから、いらないんじゃないの。」というようなことを言い始める人がでてきたのです。同じ一つの体であり、同じ一つの霊から生まれたのに、賜物や働きが違うからと言って、教会の中に競争や差別や反目が起こってきたのです。

12:16から少し読んでみましょう。「耳が、『私は目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向って『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向って『お前たちは要らない』とも言えません。」(12:16〜21)

どなたか解りませんが、目が手に向って、「お前が要らない」といってしまうような状況が、コリント教会に起こりました。頭の働きの方が、足の働きよりも優れていると思ったのでしょうか、下の人に向って「お前は要らない」と言っていたのです。本当に悲しい言葉ですし、悲しい現実があったのです。教会は一つの体であり、いろんな奉仕や働きがあり、個性もありますが、それでも、体と言うものはそれぞれが、それぞれの働きをして全体が動くわけです。目が手に向かって、お前は要らない、頭が足に向ってお前は要らないと言えるでしょうか。

こういう例え話があります。手と口と歯がつぶやきました。「俺たちはいつも、胃袋のために、食事を作って食べさせてあげている。なのに胃袋は何もしていなじゃないか。面白くないから食事を作らないことにしよう。」と。口も言いました。「俺も胃袋のために食べるのをやめよう」と。歯もいいましした。「俺も胃袋のために噛み砕くのをやめよう」と。すると、食べ物が来なくなりましたので胃袋は困ってしまいました。そして、だんだん小さくなってゆきました。手も口も歯も、小さくなってゆく胃袋を見ていい気味だと思いました。でも、本当にそうでしょうか。手もだんだん力がなくなりました。口も弱くなり、歯もボロボロになり始めました。

そうです、一つの体と言うのはそれぞれの器官が、お互いにお互いを必要としているのです。一つが弱れば他の一つも弱るのです。なぜなら、生きている体であり、お互いに繋がっているからです。これが体です。一つが弱れば、他の部分も弱ってしまうのです。また、一つの部分が元気になると、他の部分も元気になります。体というのはそういう働きをします。

3.弱い人が必要
12:22〜26まで読んでみましょう。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えの良い部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべて部分が共に喜ぶのです。」(12:22〜26)

教会は、むしろ「弱く見える部分、格好が悪い部分、見苦しい部分、見劣りのする部分」、こういう人が最も必要とされるのだというのです。こういう団体は他にあるでしょうか?みんな、どこの団体も集まりも、参加者は何とか自分だけはよく見せよう、かっこうよく、美しく見せようとします。それが普通の集まりです。でも教会だけは、弱い人、見劣りのする人、格好の悪い人が必要とされ、大事にされるのです。

ちょっと24節の後半からの部分を、この世の集まりに当てはめて、少し皮肉交じりに読んでみました。「人間は、この教会の中で、美しい部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てました。そのために、教会の中では絶えず分裂が起こり、各部分が互いに美しくなろうと競争しています。一人が苦しめば、他の人が喜び、一人の人が尊ばれれば、他の人がねたみます。」いかがでしょうか。このような集まりの方が実感として解りやすいのではないでしょうか。そして、これはわたしたちの教会でも、起こりうることなのです。

パウロは、真の教会は、強い人、完全な人、美しい人、能力のある人ではなく、弱く見える人、かっこうが悪く見劣りがする人ほど必要なのですと言っています。なぜなら、弱いところに神の力が働くからです。その弱い部分をカバーしようとするところに、互いの愛が沸きあがってきます。だから、むしろ、弱い部分のところに教会全体の心が注がれ、教会が兄弟姉妹に対する愛と配慮によって、結びつきをより強固なものにすることが出来るのです。

26節の御言葉は、教会の姿を言い表した本当にすばらしい御言葉です。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」教会は命の通う生きた体です。家族以上に心配してくれます。一人が苦しめば、教会員全員が共に苦しんでくれます。教会は他者の苦しみを、共に苦しむことができるのです。苦しむ力があります。それはイエス・キリスト様の十字架の苦しみの愛をみんなが知っているからです。隣人の苦しみを避けることなく、心底、その苦しみを共に苦しむ力が教会にはあります。それは、あの十字架の主の裂かれた肉、流された血にみんなが預かっているからです。そして、苦しみはやがて喜びに変わるという確信と希望が教会にはあります。

そして、喜ぶ時には、一緒に心から喜ぶことができます。喜びは分かち合えば、何倍にも大きくなります。そのような、主を中心とした交わりの中で、お互いに癒され、励まされ、悔改めることによってキリストの体が少しづつ形作られて行くのではないでしょうか。キリストの体である私たちは、他者の苦しみも共に苦しむことができ、他者の喜びも共に喜ぶことができます。そして、キリストの体である教会は、共に苦しめば苦しむほど、さらにより強い一致へと私たちを結びつけてくれます。

4.愛の教会をめざして

最後に、一つの例を話して終わりにしたいと思います。あるところに、5人の男の子の兄弟がいました。両親は、廃品回収をしながら一家を支えていました。いつもダンボールを集めて、夜遅く帰ってきます。長男は小学校5年生でした。末っ子はまだ学校にも上がっていませんでした。食べ盛りの子供達ばかりで、お兄ちゃんがいつも小麦粉に砂糖と塩をちょっと混ぜて、フライパンでホットケーキを作ってくれていました。ところが、出来上がったホットケーキを5等分に分ける段になると、いつも大喧嘩が始まります。最初に、お兄ちゃんが大きいのを取っていました。末の子はいつも小さいのしか残りません。

ある日、お兄ちゃんが教会学校で聞いた、イエス様のお話を思い出しました。そして、自分ばかりいつも大きいのをとることは、イエス様の教えに反すると思いました。そして、本当の愛のある兄弟になろうと思い、五つに分けたホットケーキを、今度は、最初に末っ子に取らせました。そして、自分はいつも最後に取るようにしました。そんな日が何日も続きました。すると、二番目の弟が「お兄ちゃんのいつも少ないから、僕のをあげる」と言って、自分のケーキの端を少しちぎって、お兄ちゃんのケーキの上にのせました。そうしたら、三番目の弟も、僕もと言って少しあげました。とうとう、一番年下の子も「僕もあげる」と言って、全員、お兄ちゃんのケーキの上にのせたのです。そして、最後に5人の腕白坊主たちはシーンと静まり返りました。すると、みんなの目に涙があふれてきて、ボタッ、ボタッと畳の上に落ち始めました。一番下の子が、「ね、兄ちゃんたち、僕たち本当の兄弟だよね!」と言ったのです。

兄弟姉妹の中で、一番弱くて小さい子を群れの真ん中に置いて、みんながその子をいたわり、カバーしてゆこうとする時、そこに何にも変えがたい兄弟姉妹の一体感が沸き起こってきます。ですから、体の中で他よりも弱く見える部分が必要なのです。弱い人は皆から、神様の愛を引き出してくれます。この愛が教会の信徒の交わりであり、主の晩餐式の意味するところであり、目指すところではないでしょうか。私たちもそのような、一つの体である愛の教会を目指して前進して行きたいと願っております。
                                                 (岡田 久)

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