ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

弟子の足を洗うイエス (ヨハネ13:1~15)

メッセージ
2020年3月1日富里キリスト教会
「弟子の足を洗うイエス」
(ヨハネ13:1~15)
1.最後まで愛し抜かれたイエス

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食の時であった。すでに悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてをご自分の手にゆだねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」(ヨハネ13:1~4)

過ぎ越しの祭りの前ですから、普通この洗足の出来事は木曜日と言われています。教会によっては、木曜日にこの洗足の儀式を行う伝統的な教会もあります。主はいよいよ御自分が、全人類の罪の贖いの子羊として、神に供えられる聖なる神のいけにえの子羊となることを悟りました。そして今晩の夕食が、愛する弟子たちとの地上での最後の晩餐になるかもしれなかったのです。

そして主が最後の最後に一番言いたかったことを、この最後の晩餐の時に弟子たちに話したのです。しかも、言葉だけではなく具体的な動作で示しながら、弟子たちに深くその心に刻みつけようとされました。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」というのです。しかも、十二弟子の中には裏切り者もいたのです。悪魔は既に、イスカリオテのユダに、主イエス・キリストを裏切る考えを抱かせておきました。ユダの裏切りは今始まったものではなく、前からあったようです。

ここに二つの疑問があります。何故神様は、聖なる弟子たちの中にわざわざ裏切るものを入れておかれたのでしょうか。また、なぜイエス様はユダが裏切り者であり、自分を銀貨30枚で売り渡すということを知っていながら、黙っていたのかでしょうか。わたしがイエス様でしたら、裏切り者が判明した時に、彼を弟子団の中から追放していたかもしれません。「裏切り者!ここはお前の来るところではない!出て行け!」と。

しかしイエス様はまた別のところで、こうも言っています。「『いや、独麦を集める時、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい。」と。刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイ13:29~30)つまり、イエス様が裏切り者のユダを弟子の中から抜いてしまうと、他の良い麦まで一緒に抜いてしまう危険性があるのです。ですから最後まで抜かないようにして、そのままにしておいて最後の審判の時に刈って火の中に入れて焼くようにしました。

おそらくイエス様がユダを追い出したら、他の弟子の誰かがユダに同情して一緒に出て行ってしまうかもしれません。そういう危険を冒さないようにしました。群れの中にはどうしても、裏切るものが一人はいるようです。わたしも何度も苦い経験をしました。明らかに異端的な信仰を持ったご夫妻がいました。しかし、信徒の目にはそうは映りません、愛のあるやさしいすばらしい夫婦に見えました。ある時、意を決して金輪際、教会の門をくぐらせないと宣告しました。そうしましたら、何と、その夫婦に同調する人が五人も六人も出たのです。そして、その人たちを引き連れて出て行ったのですが、結局はチリジリバラバラになってしまいました。

大事なことは、教会があるいは牧師がそういう人にどのように対応するかが求められています。そしてイエス様はその手本を示したと言ってもいいのではないでしょうか。イエス様の手本は、ユダの足もほかの弟子たちと同じように、ご自分の手ぬぐいでごしごしと洗われたということです。つまりイエス様は、ご自分を裏切るような弟子に対しても、ひざまずいてへりくだって、自分自身のきれいな手拭いで洗って下さったのです。まさに最後の最後まで、弟子の一人一人を愛し抜かれた主の決意がそこに出ております。他の聖書では、「彼らを最後まで愛し抜かれた。」(口語訳)「弟子たちを最後まで徹底的に愛しとおされました。」(リビング)「その愛を残るところなく示された。」(新改訳)となっています。

イエス様は、たとえ裏切ろうとする者がいても、その人を最後の最後まで命がけで徹底的に愛されたのです。罪を犯してしまうわたしたちでも、主を裏切ってしまうような弱いわたしたちでも、どこまでも愛し通されました。そしてユダのような人に対する裁きは、この主の愛を自分で断っているということです。そこにすでにその人の裁きがあります。ユダは自分が愛されているのを知ってか知らずか、最後まで主の愛の眼差しに背を向けて、暗闇の中へと消えて行きました。主を裏切るために、銀貨30枚で売り渡すためにです。それでも主の愛は、とどまることなく、出て行く彼の背中に呼びかけていたのではないでしょうか。この主の愛を拒むことが、すでに裁きになっているのです。

2.わたしがあなたの足を洗わないなら

「それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭いでふき始められた。シモン・ペテロのところに来ると、ペテロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。』と言った。イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。』と言われた。ペテロが、『わたしの足など、決して洗わないでください。』と言うと、イエスは、『もし私があなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。』と答えられた。そこでシモン・ペテロが言った。『主よ、足だけでなく、手も頭も。』イエスは言われた。『すでに体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。』イエスはご自分を裏切ろうとしているものが誰であるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである。」(13:5~11)

上着を脱いで、手ぬぐいを取って弟子たちの足を洗い始め、腰に巻いた手拭いで足を拭き始められた主の姿を見て、ペテロはこう言いました。「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか?」と。しかし主はけげんそうな顔をしているペテロに対して、「今は分からないが、後で解かるようになる。」と言いました。ペテロはいたく恐縮して、ついに「主よ、私の足など決して洗わないでください。」と言って拒みました。

それはそうです。弟子が師の足を洗うのならともかく、師匠が弟子の足を洗うのですから。恐縮するのは当たり前です。ペテロはやめさせようとしました。そうしましたら、イエス様が、「もし私があなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と言いました。それを聞いたペテロはイエス様とかかわりがなくなると言われたものですから、「じゃあ、足だけでもなく、手も頭も。」と言いました。すると主は「すでに体を洗った者は、全身が清いのだから、足だけ洗えばよい。当たがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」と言いました。

つまりイエス様は、全身を洗った者、すなわちバプテスマを受けて信仰に入った者は、すでに罪が赦されて清められているというのです。ただし、わたしたちは生きている限り、肉がありますから、たとえクリスチャンでも罪を犯すことがあります。わたしたちは、すでに罪は赦され救われています。天国へ入ることは約束されました。永遠の命をいただきました。神の子とされています。しかし、時には喧嘩をしたり、嘘をついたり、人を憎んだり、赦せなかったりすることはないでしょうか。

「ア~ア、クリスチャンなのにまたやってしまった」ということはありませんか。もうそんな自分が嫌になってしまった。これでもクリスチャンだろうかと自分に嫌気がさすことがないでしょうか。生きている限り、全身は清くても、足は地面を踏んでいます。足の裏は真っ黒です。ダーティなホコリがついてまわります。その汚れをいつも家に入る時に、洗ってきれいにしてから入るのではないでしょうか。

つまりイエス様は、わたしたちがバプテスマを受けて信仰に入った後も、わたしたちの日々の生活の汚れを洗い流し、ぬぐっていてくださるのです。この点においてクリスチャンは、生涯主と共にいるということなのです。この点において、わたしたちはイエス様と繋がっているのです。イエス様がいつも私たちの犯す罪をあがない清めていて下さるということです。この一点においてわたしたちとキリストの地上での関わりが存在するのです。

ですから、バプテスマは一回限りですが、主の晩餐式はわたしたちが天国に帰るときまで継続して続けられます。そして日々の罪の汚れを悔い改めて、主に告白し赦してもらう時です。晩餐式は生きている限り、継続して行います。イエス様が今もわたしたちの罪を贖い、赦し、清めていて下さるということです。この一点においてわたしたちはクリスチャンなのです。この足を洗っていただいているということを自覚しない人は、本当にイエス様と関係があるかどうかもう一度、深く反省していただきたいものです。

もったいない話ですが、イエス様はわたしたちの足を洗おうとしておられるのです。「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわり、それからたらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭いでふき始められたのです。」なんと力強い主の愛の姿でしょうか。サーッと水で流して、パッパッと手軽に洗ったのではありません。腰を下ろして、自分の手ぬぐいを使って、ごしごしと丁寧に汚れが完全に落ちるまで力を込めて、洗ってくださったのです。

3.互いに足を洗い合いなさい

私もちょっと恥ずかしいですが、何度も何度もイエス様に足を洗っていただきました。今日の聖書教育の解説のところに、すばらしい言葉が載っていましたのでご紹介したいと思います。「他者の汚れを洗い、自分の手ぬぐいでふき取る歩みはなんと難しく、豊かな歩みでしょうか。また、自分の汚れを隠さずに差し出し、他者に洗ってもらう歩みは、何と恥ずかしく、何と豊かな歩みでしょうか。」

相手の汚れを洗うということは、相手を赦すとうことです。自分を傷つけたその人の言葉や行為を、自分の痛みや悲しみをもって赦してあげるということです。人にお願いして赦すのではなく、自分自身でするのです。それが自分の手ぬぐいを使うことです。他人の手ぬぐいを使って洗ってあげても意味がありません。自分でするのです。なかなかできるようでできません。なかには40年間も赦すことができずに、重い石を担いだままで苦しい人生を送っている方もいます。

又反対に、自分の汚れや罪を隠したままで、他者に自分の汚れを差し出さない歩みは、なんと辛く苦しい歩みでしょうか。いつも戦々恐々として、人に対して攻撃的になっています。自分の罪や汚れや失敗、欠点を口にするということはなかなかできるものではありません。だれも自分は、そんな汚れた足を持っていると思っていませんから。それがこの弟子の一人、ユダでした。彼はどこまでも自分の汚れを主の前に差し出すことができませんでした。そして暗闇の中へと自ら、立ち去って行きました。彼の最後は皆さんも知っているとおりです。

ぺテロもまたイエス様を裏切りました。イエスを知らないと三度も断言しました。完全に裏切ったのです。しかし、後でペテロは、外へ飛び出して行って涙を流しました。自分のふがいなさ、自分の弱さ、自分の罪に絶望し、罪を告白しました。その時に、彼は、主は自分の罪を赦し、愛してくださっているという主の眼差しをはっきりと知ったのです。自分の汚れを隠さずに差し出して、他者に洗ってもらう歩みです。それはある意味では、恥ずかしく情けなく弱々しい歩みかもしれません。かっこ悪い生き方かもしれません。でも、そこには主の豊かな憐れみと愛の満ち溢れる人生となって行きます。

そういう人は他者の汚れも、自分の手ぬぐいでふき取ることのできる歩みができるのではないでしょうか。自分を傷つけた人の罪を、自分自身の痛みと忍耐をもって赦し、愛することです。自分も汚れをかぶるわけです。自分も苦しみ、悩みます。自分のきれいな手拭いが、その人の罪の故に汚されてしまうかもしれません。そういうリスクがあります。あえてその人の汚れを自分のきれいな手拭いでふき取るのですから、いやなことです。相手の汚れや失敗を自分が受けることですから。それは、なかなかできない難しい歩みであるかもしれません。

でも主はこう言いました。「我らに罪を犯したものを、我らが赦す如く、我らの罪を赦したまえ」と。「わたしを傷つけ、辱めた人の罪を赦しますので、イエス様、どうかわたしの罪をも赦してください」という祈りです。祈りの言葉に出すことです。つらい思いを、悔しい思いを、悲しい思いを祈りの言葉として口に出すことです。時にはそれは呻きになるかもしれません。それが自分自身の持っている真っ白な手拭いではないでしょうか。その手ぬぐいには自分の足の汚れがついています。イエス様が拭き取って下さったものです。それで相手の足の汚れをぬぐうことが、自分の手ぬぐいで拭うことです。

他人の手ぬぐいを使ってはいけません。皆さん一人一人が、その手ぬぐいをイエス様からいただいているのです。これで互いに足を拭きあいなさいと。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(13:14~15)イエス様の弟子として、イエスに従う者として、自分も主のように相手の足を洗うことができたならば、豊かに実を結ぶ人生となって行くのではないでしょうか。わたしたち一人一人は、互いに足を洗い合うようにと主に召された者ではないでしょうか。                           (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional