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平安の子 (ルカ10:1~12)

メッセージ

2015年9月20日富里キリスト教会

「平安の子」
(ルカ10:1~12)

1.御言葉に生きるバプテストの信仰

わしたちの教会はバプテスト教会です。万人祭司の伝統を受け継ぐ教会だと自負しております。何度も言いますが、真の万人祭司制という意味は、信徒が説教や礼典が自由にできるというのではなく、バプテスト教会の信徒は全員、伝道者だということです。また全員祈祷者であり、とりなしの祈りをするものだということです。また、全員教師、全員がリーダーだということです。少なくとも信徒一人一人が、伝道の使命を自覚的に持っているのがバプテスト教会です。

ですから万人祭司制というのは、牧師だけではなく信徒も当然、聖書の解釈者だということです。聖書を自分で学んで、イエス様の命じたように生活しようというのがクリスチャンではないでしょうか。先週もお話しました。誰かから聞いて信じるのではなく、じかにイエス様の言葉である聖書から聞いて信じる者の群れです。

伝道に出かける前の弟子としての覚悟を見てみましょう。これは皆さんにも言っていることです。「そして別の人に、『わたしに従いなさい。』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。』また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた。」
(ルカ9:59~62)

誰でもキリストの弟子として従って行く時には、一度くらいは実家に帰って家族と最後の別れをしてからついて行こうと思います。あるいは、ちょうどその時にお父さんが亡くなったら、まず親の葬儀を一通り済ませてから従って行こうと思うのは普通ではないでしょうか。でもイエス様は、それを許しませんでした。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」とひどいことを言ったのです。「霊的に死んでいる人間が、霊的にも肉体的にも死んだ死者を葬ることだから、あなたには何の関係もないのです。あなたはそんなことで決心を鈍らせないで、自分の命の道を行きなさい。」と言ったのです。

また、「家族に最後の別れを言いたい」と言った弟子には、「いったん鋤に手をかけてこれから信徒伝道者になろうとしているのに、自分の家族に後ろ髪をひかれて送別会をするようでは、天国に入る資格がない。」と言ったのです。人間は弱いですから、父親の葬儀に出たら、きっと家族がその人を引き止めるに違いありません。「残された母親や兄弟を誰が面倒見るのか。お前がいなければ、家族は飢え死にしてしまう。」と言われたら、恐らくこの弟子はその志を思い留めるでしょう。そうすれば、いかに弟子になる決心をしていても、心が挫けて主に従うことを止めてしまうかもしれません。いや、十中八九、そうなることを主は知っていましたので、「後ろを振り向かないで、直ちに従って来なさい」と警告されたのではないでしょうか。

ですからパウロはこう言っています。「今からは妻のあるものはない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人ようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:29~31)と言ったのです。キリストの弟子となるということは、この世のことに関わりすぎてはいけない、主のことだけ、神の国の宣伝、伝道のことだけを考えなさいと言っています。

2.行きなさい、わたしが遣わす

そしてその後、イエス様は72名の弟子を任命して、二人ずつ組にして遣わされました。「その後、主は他に72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶をするな。」(ルカ10:1~4)

主イエスは他に72名の弟子達を選ばれました。「他に」ということは、12弟子の他にということです。ですから日頃から主と一緒に生活をしていた中心的な12名の弟子達以外に、72名の献身的な弟子がいたということです。この数字は、創世記10章の世界の全民族の数とも言われています。また、モーセが民を率いて脱出した時の70の部族の長老の数だとも言われています。要するに、直弟子の12名以外にも、72名もの弟子たちがいたということです。

あるいは、本人はまだそんな弟子としての自覚がなくとも、イエス様は無理矢理弟子として遣わしたかもしれません。ただ集まって来て、ついて行きますとだけは言わせなかったようです。御自分のそばに来たものは、そのまま遊ばせておくのではなく、全員弟子として伝道に遣わされました。そして、御自分が行くつもりの町や村に、先に二人ずつ組にして遣わしました。

その際に、派遣する弟子の数は二人ずつの組にしました。やはり、二人ずつの方がお互いに助け合って伝道の働きができます。今わたし達もSGではリーダーを複数置いています。やはり、一人だけですと、どうしても忙しすぎたり、負担が多かったりして大変です。やはり、二人いますと、お互いに助け合い、相談し合ってグループ活動を進めて行くことができます。大事なことは、新しい魂が救われることよりも、キリストの弟子であり、伝道のために働いてくれるリーダー、すなわち働き人が起こされるように祈るということです。

また、たとえ狼の群れに子羊を送り込むような危険な仕事のようにも見えますが、安心してすべてを主に委ねて出て行きなさいと言っているのです。「財布も袋も履物も持って行くな。途中で挨拶をしてもいけない。」というのです。これは目的を目指して脇目を振らないで目的地に行きなさいということです。途中で挨拶をすると、道草を食ったりして予定が変更したりしますので、伝道一本で行きなさいということです。そうすればちゃんと、生活も衣食住も備えられるから、生活のことや経済のことで心配する必要はないというのです。

3.この家に平安があるように

それでは一体どのような伝道をするのかと言いますと、5節以下を見てみましょう。「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出されるものを食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」(10:5~10)

二人の弟子が、どこかの町に行って、ある家に入って伝道しようとします。その伝道の方法とは、「この家に平和があるように」という言葉で始まるというのです。そしてもしその家に、この平和に値する人がいれば、その家に平和がとどまるというのです。共同訳聖書では、「平和」となっていますが、これは「シャローム」という言葉ですので、「平和」よりは「平安」と訳した方がいいと思います。平和ですと、戦争や争いとの対語で考えてしまいますので、そういう社会的な意味よりもむしろ心の平安という意味で、「平安があるように」と訳した方がいいのではないでしょうか。他の聖書はたいてい「平安」と訳されています。

英語では、「When you enter a house, first say Peace to this house」となっています。まず家に入ったら最初に、この家に「平安があるように」という祈りを捧げなさいというのです。そして、そこの家に平安に値する人がいれば、その平安はその家にと留まるし、いなければその祈った平安はなたがたに戻ってくるというのです。ですから決して神様の恵みと平安は無駄にはならないというのです。祈ったことは必ずふさわしい人、すなわち平安を受けるに値する人を探してそこにとどまるか、あるいは戻ってくるのですから。

ですから、その家に平安の人がいるかどうかは、わたしたちの目には分かりません。でも自分たちを泊めて食事を出してくれるならば、その家のために祈ってあげなさいというのです。そして自分たちを迎え入れたならば、出されるものは遠慮せず、毒見をしたり、好き嫌いを言わないで何でも食べなさいというのです。そして、その町の病で苦しんでいる人がいるならば、その町の病人をいやしてあげなさいと言っています。それだけイエス様が私たちに権威を与えて遣わして下さっているのです。

また福音に耳を傾けない人の上には、神の平安がとどまらないし、弟子達を遣わされた神をも拒むことになると警告しています。イエス様が私たちに権威を与えて遣わして下さるのです。ですから福音を聞いても悔い改めず、遣わされた者を拒む者は、神をも拒む者であり、そこには最後の時の裁きの宣告がなされると言っても過言ではありません。そういう非常に重い使命を私たちは担っているのです。決して聞いてくれないとか、拒否されたと言っても怒らないで、静かに平安を祈ってあげることが大事ではないでしょうか。

大事なことは、受け入れてくれる家が一軒でもあったなら、そこに足をとどめて次の町に行くまで、そこの家にとどまって福音を語り続けなさいということです。渡り歩いてはいけない、どこかの家に拠点を定めて次に行く時まで、そこで平安を祈り伝道をしなさいということです。家々を渡り歩かないで、神様が備えて下さった、平安の子のいる家にとどまって伝道しなさいということではないでしょうか。

4.主の御名の勝利

最後に、72人が遣わされて行って、どんなことが起こったかを見て終わりたいと思います。17節から読んでみます。「72人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』イエスは言われた。『わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたの害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』(10:17~20)

イエス様は、弟子達を遣わしてから天を見ておられました。すると、サタンが稲妻のように天から悲鳴を上げて落ちて行くのが見えたというのです。皆さんも最近の稲妻の閃光を知っていると思いますが、地面に落ちるのを雷と言い、地面に落ちないで空中を白い閃光が走って行くのが稲妻だそうです。あの稲妻のように、サタンが天から落とされるのをイエス様は遠くからご覧になっておられたのです。わたしたちが福音を携えて出かけて行き、御言葉によって人々の中からサタンを追い出す時には、サタンが稲妻のように天から落ちて来るというのです。

そして、蛇やさそりといったサタンの使いのような敵がいっぱいいますが、伝道者はそれらから守られるというのです。それほどに、イエス・キリストの御名には権威があるというのです。イエス・キリストいう名前、この御名の他にわたしたちを救いうる名は他にありません。イエスの名が、罪の悔い改めを起こさせ、悪魔に支配されている世の人々から悪霊を追い出し、キリストのもとへと引き戻すのです。イエス・キリストの御名は。わたしたちの罪を贖い、赦し、人々をキリストのもとへと立ち帰らせて下さいます。十字架の言葉にはそのような大いなる力があります。「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。」との主の言葉に押し出されて、御言葉を携え、御霊に満たされて、一週間の宣教の働きに出かけて行きましょう。  

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