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常に喜びなさい (フィリピ4:1~9)

メッセージ

2016年1月3日新年礼拝富里キリスト教会

「常に喜びなさい」
(フィリピ4:1~9)

1.喜びの手紙

さてこのフィリピの手紙は、別名「喜びの手紙」と言われています。それはこの手紙の中に、「喜びなさい。」「喜ばせてほしい。」「わたしの喜びです。」と言う言葉が何度も出て来るからです。そしてこの4:1にも「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」といっています。しかし実はこの手紙は、パウロが捕えられていたローマの牢獄から書かれたもので、決してパウロにとっては喜べるような状況ではなかったのです。

いつ殉教の最後が来るのかもわからない不安の中でも、パウロは「喜んでいなさい。」と励ましています。ある人はこの喜びの手紙」を、別名「白鳥の歌」の手紙だとも書いておりました。それは、白鳥は間もなく自分が死を迎える時に、一番美しい声で鳴くからだそうです。パウロの長く苦しかった伝道の生涯の中で、フィリピの教会ほど、彼を支え援助してくれた教会は他になかったからです。ですから、パウロは最後の思いをこの手紙に込めて書いたのではないでしょうか。私もこの手紙を聖書日課で読んで、改めて手紙のメッセージのすばらしさを感動を持って読みました。

フィリピの教会は、パウロの第二回目の伝道旅行の時、一番最初に紫布の商人でルディアという夫人が彼の説教を聞いて入信しました。(使徒言行録16:12~)従いましてフィリピ教会はこのルデイアの家族から始まりました。そしてこの町で、女奴隷を使って占いをしていた悪い主人から訴えられて、牢屋に入らなければならなくなりました。それはパウロがこの女奴隷から占いの霊を追い出したからです。

そして牢屋に入れられたパウロとシラスが、真夜中に祈りながら讃美をしていますと、突然地震が起こって牢の戸が開きました。牢屋番は、囚人が皆逃げてしまったと思って責任を取って自害しようとしました。しかし、パウロたちは逃げずに残っていたためこの牢屋番の命を救うことになりました。牢屋番はこの事件をきっかけにパウロを通して主の救いを信じる者となり、家族全員がバプテスマを受けました。こういうパウロの命がけの伝道を通して救われた人々を中心にしてできたのがフィリピの教会でした。

いろんな苦労をしながら、パウロ自身の伝道によって建てた教会ですので、このフィリピの教会は最後までパウロの伝道を支援し続けました。ですからパウロはこの4:1でこう言っています。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」(4:1)と。パウロはフィリピの信徒を四つの言葉で賞賛しています。それは「愛している」「慕っている」「わたしの喜びである」「わたしの冠である」と。

一人一人を愛していること、しかもただ愛するだけではなく、パウロは彼らの信仰のゆえに彼らを慕っているのです。信徒の方が伝道者を慕うのは分かりますが、伝道者のパウロの方が信徒を慕っているのです。そして自分の喜びとなっており、また冠でもあると言うのです。冠と言うのは、主の再臨の時に自分の誇りとなってくれると言うことではないでしょうか。パウロは伝道者として彼らを指導教育するだけではなく、愛をもって愛し、彼らを喜び、心から慕っているのです。そして自分の伝道の苦労の証明をしてくれるもは、フィリピの兄弟姉妹であり、自分の冠でもあると言っています。

ですからしっかりと福音に立って、最後まで信仰の道を走り通して欲しいと涙ながらに訴えているのです。なぜなら、教会の中にキリストの十字架に敵対して歩んでいる人々がいて、フィリピの信徒をパウロの福音から引き離そうとしていたからです。そして教会に分裂と対立の火種を持ち込んできていたからです。(フィリピ3:18)

2.信徒の対立と真実の協力者

ですから今まで、パウロと一緒に福音のために戦ってきたフィリピの教会員の中にも、いろんな教えに惑わされたりして意見の相違が出てきたのです。しかもパウロと一緒に親身になって働いてきた信徒の間にも、少なからぬ対立が起こっていました。ここで、パウロはあえてその渦中の二人の姉妹の名前をあげています。それはエポディア姉とシンテイケ姉でした。パウロは次のように書いています。

「わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人に婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。」(4:2~3)二人の婦人とありますから、この二人は女性信徒でした。しかもクレメンスと一緒に福音のために戦ってくれた女性です。おそらくフィリピ教会の創立期からのリーダー的な立場にあった方ではないでしょうか。しかしこの二人が、最初の頃は一緒に協力して奉仕していましたが、だんだんと成長するにつれて互いに対立するようになってしまったのです。

でもパウロはここで、そのような教会の欠点と言いますか、マイナス面を隠そうとはしませんでした。二人をこっそりと呼んで、別室で和解をさせようとして、教会の中には何事もなかったかのように平静を装うようなことはしませんでした。それよりも、このような教会のマイナス面をはっきりと露わにしたのです。しかもその不名誉な事件の当事者の名前まで書き残しました。二人にとっては、「パウロ先生、何もわたしたちの不名誉な名前を後世まで永遠に書き残さなくてもいいのでは・・・」と思ったかもしれません。

そして反対にパウロは、この二人の調停役をする真実の協力者の名前を伏せています。むしろそういう良い働きをした人の名前を書き残して、当事者の名前はA姉とB姉とした方が良かったのではないでしょうか。どうして真実の協力者の名前を上げなかったのでしょうか。わたしはこう思います。それは、後々の教会の中でも、同じようなことが起こると考えたかもしれません。今日のわたしたちの教会でも、同じように相対立する馬の合わない二人の姉妹というケースは起こることです。

そういう場合に、相対立する二人の姉妹を助けて支援し、そして二人を和解させる働きを、今日のわたしたちの誰かに託したからではなかったでしょうか。
どこの教会でも、またいつの時代においても起こりうる二人の女性の対立に直面して、驚いたり、軽蔑したり、つまずいたりして教会を去って行くのではなく、むしろ二人を助けつつ仲直りをさせてあげる人、そういう人こそ、本当の意味でパウロの真実の協力者なのです。

3.喜びこそ信仰者の証し

どうして信徒同士が、こうして同じ心になれなかったのでしょうか。またどうして、今まで一緒に働いてきた者同志が、ここまで来てお互いに一致できなかったのでしょうか。おそらくそれは私たちの心のなかにある恐れや不安、心配と言う心の暗い部分、そういう不信仰な心から来るのではないかと思います。

わたし達も「2016年の新しい年も喜んで前進しよう」と言っても、どこかに覚めた思いがないでしょうか。社会も教会も高齢化の問題、会堂の老朽化の問題などに目を向けると、心が沈んでくることはないでしょうか。そういう私たちの心の心配から、焦りと不安に駆られてお互いを非難するようになることはないでしょうか。自分の信仰に黄色信号がともったようなものです。長い信仰生活の中ではよくあります。最後まで信仰のともし火を掲げて完走すると言うことは、簡単なようで難しいものがあります。パウロは牢屋の中にいて捕らわれの身になっているにもかかわらず、「信仰を持って喜びなさい。将来のことに心配しないで、常に喜びなさい。わたしも捕らわれのではありますが、喜んでいます。」と励ましているのです。

どうしてそんなに喜ぶのでしょうか。それは「主がすぐ近くにおられるからだ。」と言っています。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。」(4:5~7)

喜ぶか、思い煩うか、ここが信仰の分かれ目だと言っても過言ではありません。主が近くにおられるということは、イエス様が聖霊様を通して私たちの心の中におられるという意味で近いと言うことです。またもう一つは、主の再臨が間もなくやって来るということの故に、近くおられるということです。すべてのことは、わたしたちの心の中におられ、そしてすぐにやって来られて全てのことを裁かれるお方がすぐそばにいるが故に、何事も思い煩う必要はないと言うのです。

思い煩いの原因は、自分で何でもしなければならないと言う自分と言うところにあるのではないでしょうか。自分だけがしていると思うと、どんな些細なことでも思い煩いが起こって来ます。「自分だけで伝道しているのではないだろうか。誰も手伝ってくれない。」と思うと不平や不満、非難が出て来ます。でもパウロ先生は「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」と言っています。そうなんです。たとえ自分だけと思って、にっちもさっちもいかなくなっても、どんなことでも遠慮せずに、神様にその通り打ち明ければいいのです。そうすれば神様の平安が、わたしたちの心と考えを守ってくださるというのです。

問題の解決は見ていないかもしれません。問題や悩み事の種はそのままかもしれませんが、それらが取り去られると言うのではなく、たとえ問題が未解決のままでも、人知を超えた神の平安、神の平和がわたしたちの心と考えを守ってくださると言うのです。この心の平安こそ、何にも代えがたい神様からのプレゼントではないでしょうか。その時に、問題も解決へと導かれてゆくような気がしてなりません。そうでなくても、主から賜る平安こそ、わたしたちの大きな生きる力となって来るのではないでしょうか。

4.祈りと実行こそ喜びの原動力

そのためにもまず、祈ることです。どんなことでも神様の前に包み隠さずにです。そうすれば神様が必ず答えて下さるし、それは何よりもわたしたちの心を神の平安でもって守ってくださると言うことです。そして実行することです。クリスチャンは、「有祈実行」です。つまり、「祈りをもって実践する」ということです。実践しないで「ああでもない、こうでもない。」と言っているうちは、神の平和は与えられません。いつまでも心が折れたままです。徹底的に祈って、心に平安が与えられたら後は実行あるのみです。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなた方と共におられます。」(4:9)とあります。

お互いに意見を戦わせるだけではなく、パウロから学んだことを実際に行ってこそ、一致と協力ができるのです。わたしたちは聖書のパウロから学んだこと、また聖書のパウロから受けたこと、見たこと、聞いたこと以外には何もすることはできません。祈りつつ、共に体を使って実行しましょう。そうすれば神の平安が、わたしたちをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。そして常に主を喜び、感謝と賛美をもってこの新しい年も歩んで行くことができるのではないかと信じております。最後に喜びの御言葉を二つ読んで終わりたいと思います。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8:10)「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)   

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