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帰って来た主の栄光 (エゼキエル43:1~9)

メッセージ
2016年10月30日富里キリスト教会

「帰って来た主の栄光」
(エゼキエル43:1~9)

1.幻のない民は滅びる

そして今日の箇所も、エゼキエルが見た幻の一つです。それは、神の栄光が東の方から近づいて来て、エルサレムの神殿の東門から入り、神殿の中が神の栄光に満ちあふれたという場面でした。そしてその光輝く栄光の中から、主なる神がエゼキエルに語る声がありました。7節「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしは、ここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。」(エゼキエル43:7)と言いました。

エルサレム陥落がBC587年、すぐ最初の捕囚が始まって、バビロニア帝国からペルシャ帝国へと支配者が代わり、捕囚の第一陣が解放されたのがBC538年です。ちょうど49年間の苦しい捕囚の時を経て、開放されたのでした。第一陣が帰還を果たしてから、数回に分けて帰されました。そして神殿が完成したのが、BC515年ですから、このエゼキエルが見た神殿が実現完成するまで、捕囚後72年間かかりました。ですから中にはエゼキエルのように、故国に帰らないでバビロンで亡くなった人もいましたし、ペルシャに定住した人々もいました。

この間、エゼキエルは、49年の捕囚の時が満ちるまで、主の幻によって、新しい都エルサレムとその神殿への希望を語り続けました。そして彼は捕囚の民を励まし、彼らが希望をもって生きること、必ず主がこの幻を通して示して下さったように、エルサレムの神殿を復興させて下さり、昔のように皆で一緒に礼拝をする時が来ることを語り続けました。励ましと慰めと希望の預言者でした。預言者エゼキエルは「お前たちの墓を開いて、墓から引き上げて必ずイスラエルの地に連れて行く。」(37:12~13)と言って人々を励ましました。この預言者の語る御言葉の希望、そして神の約束の言葉があったお蔭で、イスラエルの民は他国に拉致されて行っても、そこで信仰を持って生き続けることができたのです。

今週の暗唱聖句ですが、箴言にこう言う言葉があります。「幻がなければ民は堕落する。教えを守る者は幸いである。」(箴言29:18)幻のない民は堕落する。消滅すると言うのです。幻は大事です。特に今日のように、世の中が不安定になって来て、地球環境が大きく変動して、どんな災害が起こるか分からないような時代には、このような幻が人々を救うと言われています。

ヨエル書の3章にも同じような幻の大切さを述べています。「その後、わたしは全ての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地にしるしを示す。それは血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムに逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」(ヨエル3:1~5・P1425)

老人が夢を見て、若者が幻を見ると言っています。今の時代は昔と違って、預言者だけではなく、老人や若者が幻を見ると言うのです。年齢、経験に関係なく、聖霊様が注がれると、誰でも夢を見るのです。そしてエゼキエルのように誰でも幻を見てそれを語るのです。そういう時代が今来ていると、ペテロはペンテコステの時に語りました。そして、気落ちしていたキリストの弟子たちを励ましました。ペテロもエゼキエルのように、人々を励まして預言をしました。新しい救いの成就と、キリストの福音を語り、やがて来る神の国を説いたのです。

2.主はとこしえに我らと共におられる

神の御栄光はどういう形で表されるのかと言いますと、43:7節に記されています。「人の子よ、ここはわたしの王座のあるべき場所、わたしの足の裏を置くべき場所である。わたしはここで、イスラエルの子らの間にとこしえに住む。」(43:7)と言う形で神の栄光を現して下さるのです。

つまり、主が我々と共にいて下さると言うことが主の栄光の表れなのです。主はエゼキエルにはっきりと言いました。ここ、この神殿こそ主の王座があり、そこに主は足を置くと宣言されました。足の裏を置くと言うことは、ここに土台を据えると言うことです。もはやどこにも出て行かないと言うことです。この神殿こそ主のすまいであり、あなた方と永遠にここに住むと言うことです。そして、ここで主はあなたがたの願いや祈りに耳を傾けて下さるのです。しかも、とこしえにと言っていますから、永遠に住まわれると言うことです。主の住まわれる場所、主のおられるところに主の栄光が満ち溢れるのです。

そして今までイスラエルの民が、神の目に隠れて行ってきた忌まわしい行いを捨て去るとこを命じられました。神殿の秘密の部屋で、偶像を拝んだり、動物を拝んだりしていたことを悔い改めるように命じたのです。そして神殿の中で、最も聖なる場所は祭壇であることを示しました。そこでは罪の贖いのための動物の犠牲が捧げられました。

これはどういう事かと申しますと、神の栄光が神殿に帰って来たことはいいことですが、神殿の一番大切な働きは、神様と会見することです。神殿に参ることによって人々は神と出会い語らうのです。しかし、その神殿の中でも最も聖なる場所はどこかと言いますと、祭壇です。この祭壇の設計図が43:13以下に述べられていますが、そこでは、罪を贖いために贖罪の生贄として雄牛や雄山羊の血が注ぎかけられました。つまり神殿とは、わたしたち人間が神の前に自分の罪を告白して悔い改めて主に立ち帰る所だとうのです。このような場に、主はとこしえにあなた方と共に住む言ったのです。

つまり主のおられる神殿では、いろんな供え物を祭壇に捧げることよりも、自分の罪の贖いのために動物の血を捧げなければなりませんでした。それがこの神殿の目的であり最も大切な儀式だったのです。自分の罪の悔い改めです。その悔い改めの場が、神殿だと言うのです。そのようにして主はイスラエルの民と永遠に共にいてくださると言うのです。

エゼキエル書の有名な言葉をもう一度見てみましょう。「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。悪人であっても、もし犯した過ちから離れて私の掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。・・・お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちが死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ。」(エゼキエル18:20~21、31~32、P.1322)これが新しいイスラエルの民です。霊のイスラエルです。主の前に自分の心を開いて、罪を悔い改める人々の群れです。キリストの教会です。

3.神の栄光の教会

そしてそのような目に見えない神殿での礼拝を実現させて下さったのが、イエスキリスト様です。ヘブライ書にもこう記しています。「けれどもキリストは、すでに実現している恵みの大祭司としておいでのなったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、ご自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブライ9:11~12、P.411)

今はわたしたちにとっては、イエス・キリスト様が十字架と復活を通して新しい神殿となってくださいました。目には見えませんが永遠に贖いの業をなして下さったのです。旧約の時代には、罪を償うために、その度に、動物の血を祭壇の角と祭壇の四隅に注ぎかけなければなりませんでした。大祭司がそうしてくれなければ、罪の贖いがありませんでした。神の前に出ることができなかったのです。でも今は、神の大祭司であるイエス・キリストによって、神の子羊キリストの流された血潮と裂かれた肉によって、わたしたちは信仰によって神様の前に大胆に近づくことができます。そしていつでもどこでも、主の御名によって罪の赦しを宣言していただき、かつどんな願いごと言うことができます。

皆さん、もうだめだ、先が見えない、我々は滅びるばかりだと気落ちしている人はいませんか。働き人が少ない、礼拝が少ない、献金が足りないといろんな困難や課題はあります。でも主はこう言われました。「人の子よ、ここに私の足の裏を置く。わたしはイスラエルの子ら(富里教会の兄弟姉妹)の間にとこしえに住む。」とおっしゃって下さっているのです。わたしたちと永遠にいて下さるお方です。決して見放すことも見捨てることもありません。ですから、恐れることなく心配することなく、子供のように主を信頼して祈って参りましょう。

エゼキエルが捕囚の地で、民を励まし語り続けました。まだ見ていないエルサレムの神殿とその中の祭壇まで、まるで設計図を持っているかのように事細かく語り、気落ちしている人たちを励まし続けました。わたしたちもこの主の幻を見上げて進んで参りましょう。北総地域への福音伝道、そして30名礼拝、30名が実現しましたら50名礼拝をかかげて行きましょう。主の栄光が東の方から、この富里キリスト教会に到来しつつあるその光と音を聞きながら語り伝えて行きましょう。

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