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希望、喜び、忍耐 (ローマ12:9~21)

メッセージ
2017年6月11日富里キリスト教会
「希望、喜び、忍耐」
(ローマ12:9~21)

1.愛の源泉(自分自身に対して)

「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈り続けなさい。」(12:11~12)救われているからこそ、自堕落な生活をしてはいけない、怠け者のようなだらしない生活をしてはいけないと言っています。なぜ人はだらしない生活をするのでしょうか。生きているのか死んでいるのか解らないような、自堕落な生活をしてはいけないと言っています。よくテレビに、ゴミ屋敷の住民が出て来ます。彼らが言うことは、親が死んでからこうなったとか、過去のことに縛られて、そこから一歩も抜け出ようとしません。家だけではなく、心がゴミ状態になっています。そして、このままいったらどうなるのかという結果を知っていながら、いつまでも自分の人生を人のせいにして、片付けようとしません。

教会もそうなります。皆さんが、何かこうなったのは誰かのせいだと、人のせいにしている限り、教会も前進しません。誰かのせいにしていますと、いつまでもきれいになりません。11節からの御言葉を反対の言葉に変えて言ってみたいと思います。「怠けて怠惰になり、聖霊の火が消えて、皆神に仕えず人間に仕えている。失望しては悲しみ、苦難を目の前にして逃げ出し、祈りも止んでしまった。」これが他人のせいにして、何もしなくなった教会の姿です。皆さんは今どっちですか。「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕え、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈って」いるでしょうか。それとも「怠けて怠惰になり、聖霊の火が消えて、神ではなく人間に仕え、苦難を見ては尻込みし、祈ることさえやめてしまって」いないでしょうか。

もしゴミ屋敷状態であるならば、どうしたらいいですか。そうです。もう一度、あの生活の優先順位を考えてみることです。あなたの生活はみ言葉を生活の土台としていますか。毎日聖書を読んでいますか。デボーション=静聴の時間を持っていますか?もし誰かのせいにして、人生が前に進んで行かない人は、もう一度基本に立ち返ることです。いつでも再出発できます。御言葉と神への礼拝に立ち帰ることです。生活の基礎をしっかりと据えて、生活を立て直すことです。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、どんな時でも、たゆまず祈りなさい。」と勧めています。

今学んでいますこのローマ書の中に「わたしたちはこの希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰がなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:24~25)この見ていないものを待ち望む希望によって、わたしたちは救われているとあります。信仰と希望は同じような気がします。信仰も希望も見ていないことを信じ、見ていないことを待ち望んでいるからです。見ていないことだからこそ、こうして私たちは信仰をもって見て、やがて来たるべき時を忍耐して待ち望んでいるのです。この弱い肉の体が完全に贖われて、栄光の体に変えられる時を希望をもって、待ち望んでいるのではないでしょうか。そして「この希望は決して失望に終わることはない」(ローマ5:5)と言っています。ですから忍耐できるのです。御言葉に励まされて。

2.隣人に対する愛

わたしたちはいつでも、そのようにみ言葉と祈りを通して神様から真実の愛をいただくことができます。二番目に隣人への愛ですが、13節から読んでみます。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害するもののために祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(12:13~16)

ここでパウロは偽りのない愛について語っています。なぜかと言いますと、残念ながら、わたしたちの愛には時として偽りという要素が入ってしまうからです。本当の愛だと思っている人の中に、偽りの見せかけの愛を示している人はいませんでしょうか。教会の交わりだからこそ、時には兄弟姉妹と競争をしたり、比較したり、誰かを妬んだり羨んだりすることはないでしょうか。パウロはあえてここで、「愛には偽りがあってはなりません。」と言っています。そして本当の愛とは何かを教えています。それは「悪を憎み、善から離れず、兄弟愛を持って互いに愛し合い、尊敬を持って互いに相手を優れた者と思いなさい。」(12:9)と言っています。偽りのない、真の愛とは、相手を尊敬することです。相手を自分より優れた者であると思うことです。そして、どこまでもその人の傍らに立って、共に共感することではないでしょうか。

しかし、実際は教会ほど、人を差別したり、憎んだり、軽視したりしてしまうという悲しい現実もあります。教会にお金持ちが来れば、ちやほやしてそばに行きますが、貧しい人が来るとそっぽを向いて知らん顔をします。わたしたちはどうでしょうか。人を分け隔てすることはないでしょうか。人を差別していないでしょうか。パウロは、もし教会に身分の低い人が入って来たら、そういう人と良く交わりなさいと教えています。お金持ちの交わりよりも、貧しい人々との交わりの方に真実の愛があるような気がします。

そして自分が何かをしてあげるということではなく、15節にありますように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。そして思いを一つにしなさい。」とあります。これこそ教会の交わりの力ではないでしょうか。わたしたちは特別な資格を持ったカウンセラーもいません。ケースワーカーもいません。お互いに兄弟姉妹です。でもイエス様がおりますし、聖霊様による交わりと一致があります。仲間が困ったことがあっても、正直言って何も手助けすることができない時もあります。でも共に悩み、共に悲しみ、共に喜ぶことはできます。これがわたしたちの力なのです。何もしてやることができなくても、一緒に悲しみ、一緒に喜んでくれる仲間がいると言うことです。

私達はそのような交わりをスモールグループで体験してきました。法律的なあるいは経済的な手助けはできないかもしれませんが、共に悩み、共に悲しみ、共に喜ぶ仲間がいると言うことです。これは教会の主にある交わりです。特に私たちの中には、外国の方々も多いです。いろんな生活上の悩みがあります。夫婦の問題、子供の問題、生活や経済の問題があります。何もできませんが、できることは「共に喜び、共に泣くこと」ではないでしょうか。本国の家族のように、親身になって相談に乗り、お世話をして下さっています。日本人の親戚よりも親身になって心配してくれます。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。・・・喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(12:13、15~16)この御言葉を心にとどめておきたいと思います。

3.敵に対する愛

最後に、自分の敵に対しては一体どうすればいいのだろうかと言うことについてみてみたいともいます。ここで真実の愛が明らかになるようです。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい。」(12:19~21)

さて私たちの愛がいちばん問われるのは、やはり私たちが敵だと思っている人に、どのように対応するかにかかっているといっていいのではないでしょうか。仲の良い友達とかごく普通の友人でしたら、仲良くできるかもしれません。でもそのような人が、もし自分を裏切ったり、仲間外れにしたり、意地悪をしたり、罠にかけたりした場合に、わたしたちはどのように対応することができるでしょうか。そういうわたしたちにパウロは、「愛には偽りがあってはなりません。」と問いかけています。

もし友人である敵が、自分に対して悪を増幅させてきたらどうしたらいいでしょうか。今日この悪の連鎖が世界中を覆っています。目には目を、歯には歯をの世界で、報復と復讐の連鎖が止まりません。世界は憎しみと恐怖にのみ込まれつつあります。国と国、民族と民族、そして個人と個人の間においても、憎しみと攻撃の連鎖がとどまることを知りません。相手の悪しき態度によって、自分もその連鎖に巻き込まれてしまいます。悪に対しては悪をもって報復してしまうことがあります。

パウロは「悪を憎みなさい、しかし善から離れてはいけない」と言っています。また「悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい。」とも言っています。しかし、わたしたちの現実としては、相手の悪にいざなわれて、自ら悪の連鎖に引きずり込まれてしまうことが多いような気がします。こうして私たちも悪に負けてしまうことがあるのではないでしょうか。

そしてその偽りのない愛とは何かと言いますと、悪を憎み、善から離れないことです。「復讐するな、神の怒りに任せよ」と言っています。これは、申命記32:35の「わたしが報復し、報いをする」という御言葉を引用しています。また「敵が飢えたら食べさせよ」の御言葉は、箴言25:21~引用しています。箴言の「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。」という御言葉から取ったものです。このような主イエスの愛の教えが、旧約聖書にすでに存在していたのです。

偽りのない愛というものは、相手の悪に対して悪をもって報いるのではなく、どこまでも善をもって報いることです。敵が飢えたら、その人に食べさせ、敵が渇いたら、その人に水をあげることによって、かえってその人の頭に炭火を積むことになると言います。そして自分で復讐せずに、神様に任せるのです。あの子供のように、素直になることです。そしていつも、イエス様がどんなにかわたしを愛しておられるのかと言うことを頭に思い描くのです。そうすれば人から裏切られたり、仲間はずれにされたり、見捨てられたりしてもガッカリすることはないのではないでしょうか。

イエス様こそ、人々の悪に対して悪をもって報いることなく、善をもって報いられたただ一人のお方です。偽りのない真実の愛を、わたしたちに示して下さいました。このイエス様の無限の愛の故に、わたしたちも悪に負けることなく、善をもって真実の愛を示すことができるようになりたいと願っています。私たちはそのような偽りのない真実の愛を持って仕えるようにと、この世から召し出された者ではないでしょうか。今日は召天者記念礼拝ですが、先に天に召された兄弟姉妹は、その真実の愛を持って、信仰と希望の生涯を全うして主の御もとに帰って行った方々です。わたしたちもこの兄弟姉妹の信仰の生涯を見て、真実の愛を持って主に仕えてまいりたいと願っています。   

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