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家族の救い

メッセージ

2009年11月1日富里教会
    「家族の救い
         (コリントの信徒への手紙? 7:8〜16)

1.はじめに
転入会の学びをしながら、ご主人にもイエス様を信じて、家族で一緒に転入会をしませんかと、何度かお勧めをしたことがあります。すると、そばで奥様が「あなたもそろそろ観念しなさい。」と、合いの手を入れてくれるのですが、かえってそれがプレッシャーになってしまったのではないかと心配しております。でも、今回ご主人もお二人の証を聞きたいということで、1週間延期して証ができましたことを感謝しております。

パウロの時代も今の時代も、いろんな家族の形、また夫婦の形があったようで、今朝は、クリスチャンの結婚観や夫婦のあり方について考えてみたいと思います。コリント信徒への第一の手紙7章は結婚について書かれてありますが、8節から16節までは、「まだ結婚していない人への勧め」、10節から11節までが「既婚者に対する勧め」、そして12節から16節までが「片方が未信者である夫婦の場合」が述べられています。

2.未婚者とやもめへの勧め
最初に、まだ結婚していない人と未亡人になった方へのお勧めについてみてみたいと思います。聖書にはこう書いてあります。7:7から読んでみます。「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。」(?コリント7:7〜9)

パウロは、独身者の人は自分のように結婚しないで、一人でいるのが良いと言っています。パウロは、結婚したくても相手がいなかったとか、婚期が過ぎたということではないと思います。彼はエリートで家柄も良いところで育ちました。その気になればいくらでも相手はいたはずです。でも彼は、あえて独身の道を選びました。結婚という社会通念からも自由だったのです。

彼が独身を貫いた理由は、初代教会の時代ですから、迫害がありました。また、イエス様が間もなく再臨するという緊迫した時代であったわけです。そういう危機が迫っている時代だから、所帯を持って家族に苦労をかけるよりは、独身でいて、生涯主のために専念したいという自由な選択からでした。この短い生涯、妻や家族と共に楽しく暮らすことよりも、いつも主に心を使って、主を喜ばせることに専念したい、そういう思いから独りで伝道する道を選びました。一方、使徒ペテロは結婚していて、奥さんと一緒に伝道して歩いていたみたいです。ですから、使徒達もそれぞれであり、ある人は独身で、ある人は結婚して主のために働いていました。独身もその人に与えられた神様からの賜物です。また、妻も神様から与えられた祝福の賜物です。どちらでも良いのです。人それぞれですので、いろんな生き方があって良いのだと言っています。(7:7)クリスチャンはこうあらねばならないという規則はありません。自由なのです。

ですからまだ結婚していない人もあせる必要はありませんし、周りから、まだですかまだですかと言われても気にする必要もありません。周囲の人もあせって、早く所帯を持たせなければと考える必要はありません。大切なことは、結婚していても、結婚していなくても、喜んで平和のうちに主に仕える生涯を送ることです。これが、キリストの福音の自由にあずかった者の生き方です。
もしどうしても、結婚をしたいのであれば、そのことを神様に素直に、そして具体的に希望する相手を祈り求めれば良いです。神様は今までそういう祈りを聞いて下さいました。

3.既婚者への勧め
次ぎに「既婚者への勧め」についてみてみたいと思います。「更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、私ではなく、主です。すでに別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。また、夫は妻を離縁してはいけない。」(7:10〜11)とあります。

クリスチャン同士の夫婦の場合には、離婚することは禁じられていますが、ここでは「妻は夫と別れてはいけない」とあります。特に妻に対して先に命じられております。これは、おそらく当時も、奥さんだけがクリスチャンで、ご主人が無宗教、あるいは別な宗教を持ってケースが多かったのではないでしょうか。そこで、夫の側からキリスト教に対する無理解や反対があったのではないかと思います。したがいまして、奥さんの中には、熱心のあまり、自分の信仰生活に専念するためにも、こんな無理解な夫なんかと一緒にいられない、と言って、離婚に走る者もあったのではないでしょうか。

私たちもともすると、教会活動に熱心になるあまり、信仰を理解をしない夫と別れて、自分だけ清い信仰の道を全うするんだと、一途になってしまうことはないでしょうか。この7:10の「妻は夫と別れてはいけない」というパウロの言葉は、無知から来る安易な離婚に走ることのないように、警告しているのではないかと思います。

もし、すでに離婚してしまっている人の場合には、再婚しないでいるか、できれば復縁をするようにと勧めています。そして、もし夫が死別の場合には、クリスチャンの相手と再婚することを勧めています。(7:39)この8章の中で、実にパウロはいろんなケースについて、きめ細かい勧めをしております。基本的には結婚しないでいることを勧めていますが、結婚しても罪にはならないし、それは本人の自由であると言っています。実に私達クリスチャンは自由なのです。

大切なことは、今、主のために何ができるか、今与えられた、今残された生涯、自分にとって一番大切なことは何かということを、見据えて生きることなのです。ですから、人は救われた時のままで、現状のままで、主に仕えることを勧めております(7:17)。ですから、不信仰な夫と離婚して、伝道に専念するとか、逆に不信仰な妻を離縁するということは、間違った判断だとパウロは説いています。救われた時のままで主に仕えてゆくことを勧めています。(7:24)

4.一方が信者でない場合の勧め

実に聖書には、いろんな夫婦のケースについて述べられております。それだけ、細かい微妙な問題があったと思いますし、今日の私たちの教会にとっても傾聴すべきところがあります。特に、日本の教会においても、最も多いケースとして、未信者の配偶者と結婚している場合にはどうなるのか、ということが次ぎに記されてあります。12節から読んでみましょう。

「その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻の故に聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供達は汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。」(7:12〜14)

ここでは、信者でない夫も、信者である妻のゆえに聖なる者とされていると書かれてあります。その理由は、子供も聖なる者とされているからだと言っています。この場合は、ご主人は教会に来ないけれども、子供だけが来て教会学校に出ているというケースかもしれません。したがって、子供もそうであるから、夫も聖なる者とされているはずだというのです。この「信者でない夫は信者である妻のゆえに、聖なる者とされている」ということは一体どういうことでしょうか。これは未信者の夫は信仰告白しなくても、もう大丈夫、救われているということではありません。そうではなく、未信者の夫は、信者である妻やその子供を、家長として支え、養育していること、そのことを通して、いわば間接的に神の御用に奉仕しているということです。ですから自分は信仰の決断をしなくても良いということではなく、すでに妻を支え家族を養うことによって、神様の祝福に預かっている故に、聖なる者なのだということです。

そしてその祝福にあずかっている所の根拠は、クリスチャンである妻の信仰によるものであるということを覚えたいものです。また反対の場合には、夫の信仰によって、未信者の妻も聖なる者とされているということです。たとえまだ信仰を持つに至らない御主人であっても、夫が妻と一緒に生計を共にすることを望んでいるならば、離縁をしてはいけない、すでに夫も聖なる者とされているからだというのです。一人の妻の信仰によって、夫も子供も聖なる者とされているということはなんとすばらしいことでしょうか。この祝福の事実をまず確認し、主に感謝したいと思います。

「自分が夫を救わなければ、夫を何とかしなければならない」とか、「そうでなければ教会の皆さんに証が立たない」と考える必要はありません。私たちは自由なものです。伝道においても自由なのです。救うのは神様ですから。「妻よ、あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(16)とパウロは言っています。救うのは主御自身なのです。妻が救うのではありません。夫の救い、妻の救い、家族の救いは神様のみ業です。私たちは、この未信者の家族の者もすでに聖なる者とされている恵みの事実を心に刻み、救いをなして下さる主に信頼して委ねてゆく者でありたいと思います。

そしてやがて、未信者のご主人も、自分はこの妻によって聖なる者とされているんだ、妻の信仰は私のためだったのだ、と知る時が来るのではないでしょうか。ペテロはこう言っています。「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。」(?ペテロ3:1)家族の中でのたった一人の信仰が、その夫にも子供にもすばらしい祝福の源となっていることを覚えたいと思います。夫を救うのは妻のあなたではない、でも、あなたの信仰によってすでに夫も聖なる者とされて救いに招かれている、ということは大きな驚きであり、また大きな恵みでもあります。

最後に、もしこの妻を通して与えられる神様の恵みに預かりながらも、もし夫の方で自分から離れて行くならば、そこまであなたがたは、結婚に束縛されてはいないとパウロは言っています。(7:15〜16)。これもなんと恵みに満ちた言葉でしょうか。キリストにある自由な人生、どんなケースにも細かい神様の愛の配慮を感ぜずにはおられません。この福音の自由の中で、まず私達、主を信じている者が、その信仰をしっかりと持って、それぞれの置かれた家庭の中で、その状況の中で、それぞれの立場の中で霊に燃え、熱心に主に仕え、福音伝道の働きをして行きたいものです。すでに、神様は私たちを通して家族の者を聖なる者として下さっております。そのことを感謝しつつ、来週の秋の特別伝道集会に向けて、救いを成し遂げて下さいます神様に、感謝と賛美をもって祈ってまいりましょう。
                                                     (岡田 久)

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