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宣教の愚かさ (Ⅰコリント1:18~25)

メッセージ

2012年2月3日富里キリスト教会
「宣教の愚かさ」
(コリントの信徒への第一の手紙 1:18~25)

1.一致の勧め

前回も申しましたが、コリント教会はいろんな問題を抱えた教会でありました。その第一の問題が、教会の中の分派と言いますか、不一致がありました。パウロが一番、最初にコリントに行って伝道した時に入信した信徒、それから、アポロが次にやって来て伝道した時に救われた人、それから、エルサレムなどから来てペテロ(ケファ)からバプテスマを受けた信徒など、三つのグループがあったようです(1:11~12)。自分にバプテスマを施し、指導して下さった牧師先生を誇りに思うあまり、その人を偶像化して、○○先生からバプテスマを受けましたと誇っておりました。まるで、その先生がイエス様と同じくらいの権威を持つほど尊敬されていました。

そういう教会のあり方に対して、パウロは警告を発しております。それは、その人物が尊敬されて、肝心のイエス・キリストの十字架の福音が宣べ伝えられていないからではないのだろうかと。1:17でパウロはこう言っています。「なぜなら、キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架が空しいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。」と。

信仰や福音が、知識や学問にとって代わって、人間崇拝と言う偶像礼拝が起こらないように、パウロはバプテスマを授けるということよりも、福音そのものを宣べ伝えることに専念しました。おそらく多くのバプテスマを授けたのは、パウロと同行した他の伝道者だったのではないかと思います。教会にとって最も大切なことは、信仰による一致です。そして、この一致がある限り、教会は力強く伝道して行くことができます。

2.十字架の言葉

1:18から読んでみます。「十字架の言葉は、滅んで行く者にとっては愚かなものですが、私たち救われるものには神の力です。それはこう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のない者にする。』知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」世は自分の知恵で神を知ることはでいませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教と言う愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」
                          (1:18~21)

パウロは福音の中味を、もっと具体的に述べています。それは十字架の言葉だということです。これは十字架に示された神の愛の言葉です。私たちから見ると、私たちの罪のために、イエス・キリストは十字架にかかって下さり、私たちの罪を贖って下さった。ここに神の救いの源があるということです。それは、人間の知識や、学力や努力では手に入れることのできないものです。こんな罪に汚れた、取るに足らない私をも神様は、御子の十字架の贖いを通して選び救って下さったということです。

知恵や学問をもってしては、この十字架の言葉を自分のものにすることはできません。むしろ、自分の理性や知識を放棄して、ただ単純に信じますと言うところに見えてくるものではないでしょうか。学問的に探究し、哲学的に論究しても解らないものです。言えることは人間の理性や知識の限界を知って、ただ、神の前にへりくだり静まり、十字架の主を見上げる時に初めて解ることではないかと思います。神は、天地万物を造り、こんな弱い小さな私さえ造り、愛し救って下さるお方だということです。知恵に頼っていたギリシャ人には、なかなか理解できない者でした。愚かなものに見えたのです。

また、ユダヤ人にとりましても、神がなぜ十字架にかかって死ななければならないのかということがつまずきになりました。神が存在しているなら、大きな権能と威光をもって、この世に現れ、不信仰な人間に裁きを降すべきではないのか。神の独り子が、わたしの罪のために十字架にかかられたということは、とうてい受け入れがたいことでした。十字架の言葉は、彼らユダヤ人にとっても愚かなことのように見えたのです。またわれわれ日本人にとりましても、神が何故あのような姿で、十字架の上で死ななければならないのか、おそらく皆目見当がつかないと思います。商売繁盛、家内安全の神として、人間の願いをかなえてくれる神ですから。

3.宣教の愚かさ

このようにして、神様はご自身を、人間の宗教的な熱心さや人間の学問的な研鑽によって知るようにはなさいませんでした。神を知るための唯一の道は、十字架の言葉の宣教という手段以外にはありません。21節のところに、「世は自分の知恵で神を知ることはできませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」とあります。

ここに「宣教という愚かな手段によって救おうとされた」とあります。宣教は愚かな手段だというのです。今日のこの私の宣教も、パウロに言わせれば愚かな方法だというのです。なぜ宣教が愚かな手段なのでしょうか。確かに、考えれば、神様は早く救う人は救って、救わない人は救わないで滅ぼされることを手っ取り早くやってもいいのではないかと考えることがあります。毎週宣教して、今日信じる人はいませんかと尋ねて、今日もダメだったかとガッカリするよりは、早く白黒をつけた方がいいのではないかと考えたりする方もおられるでしょう。

神様は、相当忍耐強く、寛容のある方ではないかと思います。しかも神様は、罪深いこの世を救うために、どうしたかと言いますと、自分の一人息子を私たちの罪の代わりとして差し出したのです。自分の子供を、どこの誰かも解らない人のために、代わりに差し出す親がいるでしょうか。

人間の親子関係では考えられないことです。でも、天のお父様は、よその子のために自分の一人息子を差し出して下さったのです。世の中にこんな親がいるでしょうか。気が狂っている、愚かな親だというでしょう。そうなんです。神様は私たちのために、愚かな親になって下さったのです。罪を犯したよその子を救うために、自分の一人息子を差し出されたのです。そしてわが子の死を通して、よその子の罪をすべて赦して下さったのです。これが、神の大きな愛です。罪人である人間を赦し、愛するために行って下さった愛の業なのです。これが、十字架の言葉であり宣教の中味なのです。

最後に、そういう十字架の言葉によって救われた者は、この十字架の言葉の宣教の愚かさに生きる者でなければなりません。この十字架の言葉を愚かだと思ってはなりません。確かに、私たちが伝道したり、証しをしたりする時に、「自分はクリスチャンです。イエス・キリストの十字架によって救われました。」ということに、多少の恥ずかしさはあるかもしれません。

この宣教という愚かな手段を用いる時には、どうしても自分自身も愚かな者にみられることがあるのではないかと思います。でも、残念ながら、福音はそういう自分の愚かさ、弱さ、欠点を通してこそ初めて相手に伝わるのではないかと思います。クリスチャンにあこがれて、理想を求めて信仰に入った人は、おそらく、自分の理想と違うということで、後でやめてしまうでしょう。十字架の言葉は私たちの愚かさを通して働くということです。

いつも自分がお高く留まって、「来たかったら来てもいいわよ。」と言ったら誰も来ません。「ぜひ来てね。待ってるわよ。」と頭を下げて低姿勢になって頼む時に初めて、「じゃあ、○○さんの顔を立てて一回行ってやるか。」とお友達も思って下さるのではないでしょうか。これが宣教という愚かな手段ではないかと思います。皆さん、もっと愚かになりましょう。もっと自分の弱さを誇りましょう。欠点を誇りましょう。不十分な自分を現しましょう。そこに神の力、神の知恵が働きます。教会の一致が与えられます。     (岡田 久)

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