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実現した主の恵みの年 (ルカ)4:16~30

2019年1月13日富里キリスト教会
「実現した主の恵みの年」
(ルカ4:16~30)
1.聖霊と聖書

今朝はイエス様の一番最初の宣教の場面です。一体どういうことがあったのかを見てみましょう。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人々に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧拍されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』イエスは巻物を巻き、係の者に帰して席に座られた。会堂にいるすべての人々の目がイエスに注がれていた。」(ルカ4:16~20)

この個所を読みますと、「いつものとおり安息日に会堂に入り」とあります。やはり、毎週毎週の礼拝が大事だということです。そしてこの礼拝の中でイエス様ご自身が、聖霊に導かれてイザヤ書を朗読しまし。このルカによる福音書は、聖霊についていつも注意深く書いています。聖霊によって受胎し、聖霊に満たされて預言したマリア、聖霊に満たされた時に口がきけるようになった祭司ザカリヤ、聖霊に導かれて神殿に入って行ったシメオン、そして聖霊が鳩のように下ったイエス様のバプテスマの場面、そしてこの聖霊が降ったので福音宣教を語り始めたイエス様。すべて聖霊様の導きです。まさにこの教会標語にありますとおり、「聖霊に従って生きた人々」の記録が福音書です。

そして昔も今も、礼拝の中の中心を占めていたのは、聖書です。律法の書と預言書の朗読を中心にしてその解説、説教が礼拝の中心を占めていました。イエス様が聖書を読み終えて、「このイザヤ書の預言の言葉は、今日、あなたがたがその言葉を聞いて耳にした瞬間に、成就した」(4:21)と宣言しました。つまり、今日、私がここに立って、聖霊に満たされて、福音を語っています。それを語らせているのはイエス様です。そしてわたしの口を通して語った宣教が、皆さんの耳に達した時、預言の言葉が成就したのです。今、ここに、預言の言葉が成就しているのです。この礼拝の説教の場面がまさに、イエス様の宣教の最初の場面でもあったのです。それが約二千年間続けられているのです。あらゆる国で、あらゆる所で、あらゆる時に全世界の教会の宣教を通して、どんどんと救われる魂が起っています。

ところがその聖書をいくら手に持っていても、聖霊様の働きがなければ、聖書を正しく理解することができなかったのです。人々はイエス様の説教に驚きと、疑いの心を持ってしか聞くことができなかったのです。わたしたちは、本当に聖霊様を信じて、聖霊様の導きに委ねて日々歩いているでしょうか。21節には、「預言の言葉は、あなたがたの耳に達した時に実現した」と言っています。つまり聖霊様の働きによって、神の言葉が、イエス様の口を通して語られる時に、そしてその言葉が、聞く者の耳に届いた時に実現したのです。つまり、聖書の御言葉は、聞く人の耳に入って聞かれることによって実現するのです。ですから、今日、こうして私が聖書の御言葉を聖霊様の力によって語っている時に、この宣教が皆さん方の耳に聞こえて達しているならば、ここに預言の言葉が実現、成就しているのです。

When Jesus went Nazareth, he went into the synagogue, as was his custom. He stood up and read the prophet Izaiah 61:1-2. “The Spirit of the Lord is on me, because he has anointed me to preach good news to the poor.” After reading He said “Today this scripture is fulfilled in your hearing.” (4:21) The Holy Spirit and heavenly father’s Word and Jesus Christ is working together in the preaching of good news. When I am preaching the Gospel, it is the fulfillment of the prophecy. This is the realization of the prophecy. This is the start point of the new year. This is the start point of the new year of Lord’s

favour and grace. The reason of the favour is that anybody who hear the word of God and accept Jesus as a Savior will be saved unconditionally. This new year of the Lord’ favour has been started when Jesus preached at Nazareth. And it is continuing until now. So let us hear the good news in everywhere and any time. This is the happiest and most important time in our faithful life. 

なぜならば、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)とあるからです。神の言葉が実現するのは、わたし達が聞く耳をもって聞くときに実現されるのです。ところが、いくら聞いても聞かない耳があります。それがこのナザレの人々でした。なぜ彼らは、イエスにつまずいたのでしょうか。それは読まれた聖書の言葉が、耳には達していましたが、聞いてはいなかったからです。なぜでしょうか。それは彼らの目が邪魔していたからです。

2.不信仰と殺意

彼らはこう言いました。「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)「この人はこのような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアと言い、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」(マタイ13:54~56) ナザレの町の人たちは、イエスを子供の時から知っていて、その兄弟たちも知っていました。そしてイエスの仕事も知っていました。ですから、「この人は大工の息子ではないか、親父の後を継がないで、家を捨てて群れを造ってあちこちを回っていると聞いていたが、悪いことをしなければいいがなあ。」というような見方しかできなかったのではないでしょうか。

案の定、イエス様が自分の宣教によって、預言者の言葉が今成就したなどと言ったものですから、頭がおかしくなったのではないだろうかと思いました。地元の人であるが故の不信仰です。彼らの目は、イエス様の言葉ではなく、イエス様の家の事や子供の時の事や家族親戚のことに目が行っていたのです。なんでこんな田舎の町から、しかも大工のせがれが、メシアだなんてあるはずがないと考えたのも当然だったのかもしれません。

更に彼らの不信仰はエスカレートしてゆきます。町の人々が、他の町でもしたように、ナザレでも同じような奇跡を見せてくれ、そうしたら信じてみようと。(4:22~23)そういう彼らに、イエスはさらに本当のことを言いました。それは、あの預言者エリヤが、大飢饉が起こった時に、イスラエルの中の未亡人のところには遣わされずに、異邦人のザレプタの寡婦のところに遣わされたではないかと。また預言者エリシャも、イスラエルのらい病人のところに遣わされないで、シリア人の将軍ナアマンのところに遣わされたのではないですか。それはあなたがたイスラエルの人々に聞く耳がなかったからですと、はっきりと言ったのです。

そしてこの二人の異邦人が、信仰をもって預言者の言葉に従った結果、多くの祝福を得、また病気をいやしてもらいました。この話を聞いた会衆は、自分たちのことをあてつけて言っていると思ったのでしょうか。驚きが怒りに変わり、イエス様を殺そうとしたのです。「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外に追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」(4:28~30)

地元の人々の不信仰を、イエス様がはっきりと言ったものですから、驚きが怒りに変わり最後には殺意と燃え上がってしまったのです。どうしてここまで彼らが怒り殺意にまでなったのでしょうか。それは、彼らは御言葉を聞いてはいるが、そのみ言葉を、信仰をもって、聖霊の助けによって受け止めなかったからです。地元でイエスの姿を子供のころから見て知っていました。また家族や親せきを見て知っていましたので、余計信じられなかったのです。まさに預言者は自分の故郷では歓迎されないものでした。

聞いて信じるよりは、むしろ、奇跡やしるしを見て信じる信仰だったのです。お前の家族を知っている、親父は大工をしていた、この町でも奇跡を見せてくれ、そうしたら信じようといいました。まるで、イエス様が十字架に架かった時に、十字架から一人で降りてみたら信じると言っていた人々と同じです。「医者は自分自身を治せ、そうしたら信じてやる」といった考えです。そういうイスラエルの人々の不信仰がイエスを十字架につけたように、ナザレの人々もイエスを殺そうとしたのです。でも、まだ時が来ていませんでしたので、イエスは不思議な力でその場を通り過ぎて難を逃れることができました。

本来ならば自分を守ってくれる人々、応援してくれる人々からさえも完全に嫌われ、見捨てられたのです。預言者は自分の故郷に帰りたくても帰るべきところではないのです。この世はどこも安息の場はありませんでした。天のお父様の懐以外は。わたしたちもやはり、地上で休めるところはありません。天のお父様のところが、最終的に帰るべき故郷ではなかったでしょうか。

When the people of synagogue heard His message, they did not believe in his message and Jesus only to surprise. They said “Isn’t he Joseph’s son?” (4:22) They knew Jesus’s father and mother and brothers and sisters. So it is very difficult for the people of home town to believe Jesus. Do you believe in Jesus as the savior if He is a friend of yours and your relative. They stumbled Jesus. Jesus said that the prophet Elijah was not to sent to Israelite, but to a widow in Zarephath. And he said that the prophet Elisha was sent to the Gentile commander Naaman not to Israelite. When the people in the synagogue heard His message, they got up and took him out and throw him down the cliff. They tried to kill Jesus. Their faith was to see the miracles and signs not to hear the massage through the holy Spirit.

Paul says “the faith comes from hearing the message, and the message is heard through the word of Christ.” (Romans11:17) God want us to believe in Jesus through the holy Spirit and the word of God.

3.今は恵みの年

最後に、イザヤの預言の言葉はこうです。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18)今こそ、あのイザヤの預言の言葉は、イエス・キリストを通して、その宣教の言葉によって実現されたのです。ですから、イエス・キリストの語るみ言葉、この新約聖書の福音の言葉を聞く者には良き知らせ、福音、グットニュースなのです。ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、誰でも区別なく、イエス・キリストの十字架と復活を信じる者は救われるという知らせなのです。

そしてその知らせは、落ち度のない完全な人、過ちを犯したことのない真面目な人、道徳的に立派な行いのある人ではなく、貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人や抑圧されている人に対して向けられたのです。あのザレパテの寡婦のお話では、母子家庭のお母さんが、最後に残ったわずかばかりの小麦粉と油を使って、最後の食事をして死んでしまおうとしていました。そこでエリヤが訪ねてきて自分のためにパンを造って食べさせてほしいと言ったのです。母親は迷いましたが、エリヤの語った「壷の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」との御言葉に従って、自分たちの食事でエリヤにパンを造って食べさせました。そうしましたら、何と家にある壷と瓶に、小麦粉と油が次々に注がれて、いっぱいになったのです。(列王記上17:1~20)

こういう本当に貧しい人々に向けて福音は語られました。また、ニコデモもザアカイもそうです。お金持ちで、立派な地位がありましたが、彼らの心が渇いて貧しかったのです。何か不足している物足りないと心の貧しさを感じていました。そこにイエス様が行ったのです。これが貧しい人々への福音です。

またシリアの司令官ナアマンは、王の側近で地位も財もありましたが、ただ一つライ病にかかっていました。そういう病に捕らわれていたのです。その異邦人の彼のところに、拉致されていった少女の言葉によって、預言者エリシャが知らされました。エリシャは「ヨルダン川に七度身を沈めて洗いなさい」という言葉を、僕を介して言い渡しました。それを聞いたナアマンは、自分を侮辱していると思いましたが、部下に勧められて半信半疑で川の中に入って身を沈めました。そうしたらライ病がいやされたのです。これがみ言葉が耳に達したということです。み言葉を聞いてそれに従ったのです。(列王記下5:1~24)

ナアマンは、自分の力、地位、プライドを捨てて水の中に入ったのです。自分という自己中心の罪に死んで、み言葉に従ったのです。これがバプテスマの本当の意味です。罪を清めることよりも、主の御言葉に従うこと、この証としてのバプテスマなのです。ナアマンは生まれ変わりました。シリアの偶像リモンの神に、職業上どうしても王様と一緒に参拝しなければならない時もありますが、許していただけますかとエリシャにお願いしました。真の癒し主である神を第一とした生き方に変わったのです。み言葉を聞いてこれにへりくだって従う信仰に変えられたのです。これがクリスチャンです。本当にバプテスマを受けた人です。

The message of the salvation of grace preached to the people who were far from the God and who is thinking himself not to worthy to save. The widow of Zarephath submitted the word of the prophet Elijah. She made some bread to give the prophet according his message. She and her son got so many blessings from the God. And
the commander Naaman the Syrian followed the word of the prophet Elisha. He went down the Jordan river and sink himself into the water seven times. Then he got well and was cleansed leprosy. The word of the bible preached to the people who are the poor in spirit and who are mourn and who are hunger and thirst in heart. And those who are perfect and boast himself will reject Jesus and try to kill Him. Which person do you want to be? Paul says “Now is the time of God’ grace , now is the day of salvation.”(2Crintian 6:2) Hearing is much more better than seeing.

イスラエルの民だけではなく、貧しい者、牢に入っている者、引きこもっている人、心が渇いている人、真理を知りたいと願っている人、社会や家族から圧迫されて一人苦しんでいる人、そういう人に向かって福音が語られたのです。イエス・キリストの福音には、そういう人々を病や束縛や抑圧から解放する力があります。それはこのイエス・キリストの良き知らせを聞くだけで良いのです。そしてそのみ言葉に、へりくだって従うことです。そういう耳を主は求めておられるのです。そういう砕けたへりくだった心を主は求めておられるのです。

イエスの福音を受け入れるか、このお方を殺そうとするのか、あなたはどちらを選びますか?今は恵み年です。救いの日です。誰でも主の福音を聞いて、イエス・キリストを救い主として受け入れ、信じるなら救われます。イエス・キリスト以外に救いはありません。イエス・キリストこそ神の救いの実現です。このお方を受け入れるならば、誰でも罪赦され、その束縛から解放されます。そのためにイエス様は来てくださいました。今はまさに恵み時、救いの時です。そういう砕けた耳を、素直な心を主は求めておられるのです。(岡田 久)

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