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完全な者となりなさい (マタイ5・43~48)

メッセージ

2010年4月25日富里教会
「完全な者となりなさい」
(マタイによる福音書5:43~48)

1. 完全な者とは何か

44節の「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」という言葉とか、今日の宣教題の「完全な者になりなさい」という言葉は、クリスチャンの生き方を表わすような有名な言葉です。でも、有名すぎて何と語ってよいか悩んでしまうところがあります。完全な方は、神様以外におられないのではないか。この世に誰も完全な人などいないのではないか、それなのにイエス様はどうして私たちに、「完全な者になりなさい」とおっしゃったのだろうか、と考えてしまいました。

「完全な者」という言葉は、ギリシャ語で「テライオス」という言葉ですが、動詞を「テレイオー」といいます。そして動詞の意味は、「完成した」とか「成し遂げられた」という意味があります。そしてこの「テライオス」の名詞形が「テロス」と言いまして、「目標、目的」という意味です。つまり、「完全な者」と言いますのは、神様の目的のために造られたものであり、その目的を実現した時に、初めて、その人は「完全な者」となるわけです。

人間は何のために神に造られたのでしょうか、そして人間は何のために神に愛されたのでしょうか。そして人間は何のために救われたのでしょうか。つまり、私たちが神様の一方的な愛によって、造られ、愛され、救われ、生かされているのは、実は神様の目的、神様のテロスのために生かされているのです。その神の目的に生きる時に、初めて人は「完全な者」と呼ばれるのではないでしょうか。

いや、神様は初めから、私たちが完全な者になるように造られ、愛され、選んで下さいました。それは神様ご自身が、完全なお方であり、ご自身に似る者として私たちを造り、愛をもって救ってくださったのです。そして、私たちが神の作品として良い業をするために救われました。何も罪を犯さない、完全で潔癖な人間と言う意味ではありません。「完全な者」とは神の目的を知って、そのために自分の生涯を全力を傾けて生きてゆく人のことを言います。

2. 神の完全な愛は、私たちに注がれている

そしてイエス様はこの完全な者となるには、ただ一つ、単純なことですが、「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。」とおっしゃっておられます。実に単純明快です。敵を愛することです。自分を迫害するもののために祈ることです。そして、「天のお父様は完全である。あなたがたも、お父様のように完全になりなさい」と勧めています。

確かに、私たちには「完全」と言う言葉は当てはまらないかも知れませんが、天の父なる神様には当てはまります。神様の愛は完全な愛です。なぜなら、神様は私たちの罪のために、御一人子イエス・キリスト様をこの世に遣わされ、十字架の上で、私たちの罪をことごとく贖いとってくださいました。神の子羊の貴い血は私たちの罪を完全に贖う力のあるものです。

たとえ私たちが罪の中にあり、神に逆らい、神に背を向け、神に対して敵対していたとしても、御父は私たちの罪のためにひとり子を十字架につけて、私たちの罪をことごとく贖い、赦して下さいました。御子はあの十字架の上で「すべてが完了した」(ヨハネ19:30新改訳)と言って息を引き取られました。
これは、テテレスタイという動詞の完了形です。つまり、神様の贖いの業は、あの十字架において完了した、完全に成就したと言うことです。

このイエス様の十字架に示された神様の愛は完全です。天の父なる神様の愛が、あの十字架の上に完全に現されました。神の愛は不完全ではありません。たとえ私たちが逆らっていても、神様の愛は完全です。それはすべての人に向けてなされた愛のメッセージです。この罪の世に対して、全世界に向けて、すべての罪人に対して宣言されたものです。

神様の救いが半分、あとの半分は私たちの良い行いによって救われるといったものではありません。あるいは、救われる人々に対してだけ明らかにされた愛でもありません。すべての人に、全ての罪人に、そしてこの世に向ってなされた神の愛のメッセージなのです。この完全な愛のメッセージに呼びかけられていない人は、誰もいません。神様は完全なお方なのです。この「テテレスタイ」完了したという言葉は完了の動詞ですが、現在形の動詞が「テレイオー」で、これの形容詞が「テレイオス」、「完全な者」という意味です。

つまり、神の贖いの業は、あの十字架において、成し遂げられた、完了したんだというのです。ですから、父なる神様はその愛において、完全なお方なのです。ヨハネ第一の手紙に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ4:10)とあります。神様が、まず最初にその完全な愛を持って私たちを愛して下さいました。完全な愛は私たちに向けられたのです。

そして天の父なる神様の完全な愛によって、罪赦された私たちです。神様の愛は完全です。この神様の完全な愛によって、今の私たちがあるのです。私たちは恵みによって、神の子とされました。私たちが受けたのは、完全なお父様の完全な愛なのです。私たちが受けた愛はこの愛しかないのです。この愛以外に私たちを赦し、生かしめている愛は他にありません。それ以外の愛はありません。何度も申しますが、私たちは今この完全な愛によって生かされているのです。

3. 父の愛は全て人に注がれる

このように、天の父なる神様の愛は、自分が選んだ人だけ、正しい人だけ、善人だけに太陽を昇らせ、恵みの雨を降らしてくださるというのではありません。神様の愛は、太陽や雨のように、悪人にも善人にも、正しい者にも、正しくない者にも分け隔てなく祝福と恵みをくださるのです。

人はすぐに、善人と悪人、正しい人と正しくない人、敵と味方、隣人と他人、自分を愛してくれる人と自分を嫌っている人と分けたがる傾向があります。教会の中でも、何となく気が合う人と気が合わない人、自分の好きなタイプの人と嫌いなタイプの人というように、人を自分の価値基準と好みで選んでしまうことがあります。嫌いなタイプの人には、知らず知らずのうちに回り道をしたり、会わないようにしたりしてしまいます。好きなタイプの人には自然と引き寄せられて行きます。私たちは生活の中で、知らず知らずの内に人を選別し、区分けして生活するようになってしまいます。

もし私たちがそのような生き方をしていたら、それははっきり言って、神の愛に生きているとはいえないのではないでしょうか。そうであれば、それは「隣人を愛し、敵を憎め」と言った、この世的な人間の愛によって生きていると言わざるを得ません。それは不完全な愛です。そのような生き方は、徴税人や異邦人といった、神を知らない人々の生き方と何ら変わるところのない生き方ではないか、と主は言っておられます。自分を愛してくれる人、自分の身内のもの、自分にとって優しい人だけを愛するという無神論者の生き方と変わらないというのです。

教会学校でもお話しましたが、今年の新年礼拝の御言葉をもう一度、思い出していただけないでしょうか。詩篇133の「神の祝福と永遠の命は、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。」でした。神様の完全な愛は、すべての人々の上に、あのヘルモン山の露のように、滴り落ちることを学びました。善人にも悪人にも、敵にも味方にも、好きな人にも嫌いな人にも、神の愛は降り注がれているのです。この富里の地にも神の恵みと祝福の油は、充満して露となって、滴り落ちています。

その満ちあふれるほどの神様の祝福を、歌った詩を作りました。
「ベランダに露があふれ、オーシャンブルーの上に露が滴り、ありの巣の上に露が滴り、芝生の上に露が滴り、杉の木のてっぺんに露が滴り、雑草の上に露が滴り、駐車場の上に露が滴り、アイリスの上に露が滴り、みんなの上に露が滴りあふれ流れる。」どこにでも、誰にでも区別なく、神様の愛は豊かに降り注がれています。

神様の完全な愛は私たちに向けられ、私たちの心の中にすでに内在しておられます。この神様の愛の目的に生かされている者として、私たちも、目に見える兄弟姉妹を心から愛する者となってゆきたいものです。
                                 (岡田 久)

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