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子羊の血 (出エジプト記12:1~13)

メッセージ

2014年3月8日富里キリスト教会

「子羊の血」
(出エジプト記12:1~13)

はじめに

主の御名を賛美いたします。
今日は永山麗姉に、自己紹介を兼ねて現在会員に復帰された思いを証していただく予定でした。ところが、昨日お電話が入りまして、大学生の息子さんが電車で家の鍵や財布の入ったカバンをなくされたということで、昨日は成田に来ていたのですが、急遽、小金井の自宅に帰ったとのことでした。そういうことでせっかく準備していた証ができなくなり、申し訳ございませんでしたとのことでした。

この一年半くらい御主人がまた成田空港に勤務になられ、礼拝にも毎週ではなくとも、時々来てまたピアノを弾いて下さるのかなというところでした。そしてさらにまたびっくりすることに、この4月から、御主人が急に沖縄に異動することになったとのことです。永山姉妹も気持ちが落ち着かないとのことでしたので、どうぞ皆様また引き続きお祈りください。

本当にこの3月は、受難節に入っておりますので、いつどんなことが起こるか分かりません。来月のイースターまで、主の十字架を見上げて祈って行きたいと思います。3月は、イエス・キリストの十字架の場面を取り上げてメッセージをして行きたいと思っております。今朝はそういうことで、旧約聖書にもイエス・キリストの十字架の罪の贖いの場面や物語がありますので、たくさんある中から、出エジプト記のエジプト脱出に際しての過越しの個所を取り上げさせていただきました。

1.エジプト脱出(エクソダス)

さて、先月、「エクソダス・神と王」という映画を見ることができました。エクソダスとは英語で「出エジプト記」という意味ですが、昔見たチャールストン・ヘストン主演の映画「十戒」にも勝るとも劣らない迫力のある場面が一杯ありました。エジプトの国に飢饉を逃れて移住したイスラエルの民が、400年間奴隷として働かされ、そのうめき声が神の耳に届き、神様がモーセという一人の指導者をイスラエルの民を救い出すために遣わします。

しかし、王様は貴重な労働力である奴隷をそう簡単には手放しませんでした。そこで主は、エジプト全土に十の災いを下しますが、それでも王は承知しませんでした。イナゴやカエルの大襲来、雹、ブヨやアブ、疫病や腫物などの災いを送りますが、王ファラオはますますかたくなになり、どこまでもイスラエルの民を解放しようとはしませんでした。それだけ人間の心はかたくなだということです。どんな災害がやって来ても、なかなか神を認めようとしません。そこで、主は最後の最後に、エジプト全土の初子を、人間であれ家畜であれ撃つことを告げられました。

しかし、イスラエルの民に対しては、家の入り口の鴨居と柱に子羊の血を塗ることを命じられました。そうすることによって、滅ぼすものがその鴨居と柱に塗られた子羊の血を見て、その家に災いを下すことなく過ぎ越されると言われたのです。人々はモーセの言うとおりに、家ごとに一匹の雄の子羊を屠り、その血を夫々の家々の柱と鴨居に塗りました。そこを読んでみましょう。

「さあ、家族ごとに羊を取り、過越しの犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。

あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式はどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越しの犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。」(出エジプト記12:21~27)とあります。

そしてその夜、主は王の息子から家臣の息子、牢に繋がれている捕虜の長男と家畜の初子に至るまで、ことごとく撃って滅ぼされました。エジプト全土には、子を奪われた人々の泣き叫ぶ声が響き渡りました。しかし、入り口に子羊の血が塗ってある家は、撃つ者が家の中に入ることなく、その災いが通り過ぎたのです。このことから、この出来事を記念して、イスラエルの民は「過越しの祭り」として、年に一回、子羊を屠って過ぎ越しの食事をする祭りを持つようになりました。その子羊を焼いて、種無しパンと一緒に残さずに食べ、その後も酵母菌の入っていない種無しパンを一週間食べる「種入れぬパンの祭り」も同時に守るようにと主は命じられました。

それは今日、神の子羊であるイエス・キリストの贖いの血と裂かれた肉体を意味するパンを食べるという主の晩餐式まで引き継がれてきております。それだけ、この出エジプト記の脱出の出来事が、神の救いの出来事を象徴している重要な個所だということです。そういう意味で、出エジプト記は旧約聖書の福音書と言われております。

映画の中では、イスラエルの民が、子羊を屠ってその血をヒソプに付けて、家の柱と鴨居に急いで塗っている場面が出ておりました。そして、その日の内に子羊を焼いて家族全員で残すことなく食べて、全員脱出しました。成人男子で約60万もの人々が出て行ったのです。また同時に種無しパンも器と一緒に抱えて持ち出して行く場面がありました。

2.鴨居の血はキリストの十字架の血

この時、神様はモーセに対して、この子羊を屠る時にはこうしなさいとかなり細かく指示をしています。例えば、「家族ごとに一匹用意しなさい」とか、「あらかじめ前もってよい子羊を取っておきなさい」とか、「子羊は、傷の無い一歳の雄の子羊でなければならない」とか、「子羊の血は、家の入り口の二本の柱と鴨居に塗りなさい」とか、「焼いて食べる時には、頭、内蔵、手足をバラバラにしないでそのままにして焼く」とか、「全部残さないで食べる」とか、「残った場合には焼却する」とか「食べる時には、苦い野菜と種無しパンと一緒に食べなさい」とか、「肉は生で食べても煮てもだめで、必ず火で焼かなければならい」と実に、細部に至るまできめ細かく調理の仕方、食べ方、処分の仕方までが決められていたのです。

どうしてかと言いますと、実はこの1歳の雄の子羊は、やがて全人類の罪の贖いのために神に供えられるべきイエス・キリストのことを予型していたからです。予型とはあらかじめ、将来起こるべき出来事を示すことです。「傷の無い1歳の雄の子羊」というのは、純粋な罪も汚れもない完全ないけにえとして捧げられる、神の独り子イエス・キリストを意味していました。神の子羊であるイエス・キリストですから、骨を折ったりしないで全部食べなければなりませんでした。食べ残しも全部、償却しなければなりませんでした。

その子羊の血を、ヒソプでもって家の柱と鴨居に塗るということは、その家族全員の罪の贖いの意味がありました。私たちの罪の身代わりになる者は、私たちの罪をその聖い体にすべて受けとめて下さらなければなりません。誰かが、わたしの罪のために身代わりになって罪の罰を受けて下さらなければなりません。わたしの命を贖うために誰かが、わたしの代わりになって、その罪を担って下さり、その罰を代わりに受けて下さらなければならないのです。それが血を流すということです。

この過越しの祭りについて、後ほど、儀式の意味と規定について述べている箇所レビ記にあります。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」(レビ記17:11)とあります。ですから、誰かがわたし達の命を贖い出し、買い戻すためには、別な人の命を代わりに差し出さなければなりません。それが神の子羊であるイエス・キリストの血だったのです。この子羊の血の中には、命があり、この命と引き換えにわたし達は買い戻されるのです。これを贖いと言います。ですから、誰かがわたし達の罪の身代金として代わりに命を献げ、「血を流すことなしには罪の赦しはあり得なかったのです。」(ヘブライ9:22)

イスラエルの民が、その罪と奴隷と死の世界から贖い出されたのは、罪のない完全な神の供え物である神の子羊、イエス・キリストの十字架の血潮なしには、救い出されなかったのです。ですから、主はモーセに、この子羊を献げる場合のやり方をきめ細かく指示されたのであります。それは、やがて来たるべき神の子羊であるイエス・キリスストの十字架の救いを予告していたからでした。

特に、この家の入り口の鴨居と二本の柱に血を塗るということは、三本の柱になります。それをちょうど繋ぎあわせると、あの縦が長くて横が短い十字架の形になるのではないでしょうか。そしてヒソプという植物に血を浸して塗るということは、主イエスが十字架に架けられた時に、ローマの兵士が、ヒソプの先に海綿を縛りつけ、それに酸いぶどう酒を含ませてイエスの口もとに差し出した場面を思い出しませんでしょうか。イエスは、このぶどう酒を最後に飲んで息を引き取られました。その時に主イエスは最後に「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:29~30)と言われました。つまり罪の贖いの業がこれで、成就したのです。

つまり全人類の罪の贖い業が成し遂げられたのです。主なる神は、この御子イエス・キリストの十字架の血を御覧になり、御子の贖いの苦しみの故に罪を赦す決断をされたのです。神の怒りと神の裁きを御自分の御独り子なるイエス・キリストの上に降されたのです。それがあの十字架上のイエス・キリストの流された血潮だったのです。このイエス・キリストの十字架の血潮だけが、わたし達の罪を赦し、わたし達を神の裁きから守って下さる唯一のしるしなのです。

ペテロもこう言っています。「あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない子羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(Ⅰペテロ1:18~19)またパウロも「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」(エフェソ1:7)と。主イエス御自身も「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6:53~54)と。

3.主はその血を御覧になる

エジプトの国に最後の裁きを行った主なる神は、家の入り口に子羊の血がついている家だけを避けて通り過ぎ越されました。主はこう言っておられます。「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」(12:13)と。

神様は、心かたくなな人々の上に臨む時に、その災いを下される時に、その家の入り口に羊の血が塗ってあるかどうかを見られるのです。ちょっと血が付いているのではなく、柱と鴨居の全部に血が塗ってあるかどうかを御覧になられるのです。たとえ、イスラエルの民でありましても、モーセの言うことを聞かないで入り口に血を塗らない家があれば、滅ぼす者はその家に入って行くでしょう。たとえエジプト人でありましても、モーセの言うことを聞いて、自分の家の入り口に子羊の血を塗る人があれば、そのエジプト人は助かったのではないでしょうか。

神様は、その家の人が何人かどうかを見るのではないのです。この家の入り口に血があるかどうかを御覧になられるのです。たとえその人が何人でありましても、大事なことは、血が塗ってあるかどうかです。旧約聖書の他の個所にも、同じような場面がありました。それは、ヤコブが父イサクの目が悪いことを良いことにして、兄のエソウに変装して長子の祝福を奪い取ろうとします。その時ヤコブは、自分の腕に羊の毛を巻いて、目の不自由な父に近づき、毛深い兄のように見せて父をだまして祝福を奪ってしまいました。(創世記27章)たとえずるがしこいものでも、神様は、その人を覆っている毛皮を御覧になるのです。毛皮は、動物の血を流して造られています。その毛皮がイエス・キリストであり、神の前に立ってわたしたちの代わりに執り成し弁護して下さるお方なのです。

またもう一つの例があります。それはヨシュアが、エリコの町を攻撃する時に、自分をかくまってくれた遊女ラハブの家を、イスラエルの総攻撃から守ろうとします。その時に目印として、ラハブの家の窓の真っ赤なひもを結びつけておくようにと命じました。それを目印にしてラハブの家の者には、イスラエルの全軍は手をかけないと約束しました。そしてその赤いひものある家から出て、滅ぼされてしまうことのないようにせよとラハブに言いました。(ヨシュア記2:18~20)

ヤコブの腕に巻いた子ヤギの毛皮も、遊女ラハブの家の窓に吊るされた赤いひもも、神の災いを過ぎ越させ、神の救いの恵みを与えるしるしとなりました。それは、あの家の柱と鴨居に塗られた子羊の血と同じ恵みのしるしなのです。その血を見て神は、その人に災いを与えることを止められ、代わりに主の祝福を与えてくださるのです。たとえ、イスラエルの民が罪深くても、ヤコブが兄エソウをだまし、父イサクをだまして神の祝福を奪い取った者でも、また遊女といういかがわしいことを生業とする女でありまして、神様はその人の罪を覆って下さる贖いの血の赤を御覧になられるのです。

ですから、神が人々を撃たれる時に、この血が塗られた家から出てはいけないとモーセは命じました。また、ヨシュアは、遊女ラハブに絶対に家の中から出ないようにと、もし家から出た場合には神の手に撃たれても仕方がないと言い含めました。贖いの子羊と種無しパンは、わたしたちのキリスト教会の中心的な儀式です。イエス・キリストの十字架の贖いを意味しております。父なる神様は、このご自分の御独り子イエス・キリスト様の流された血潮を御覧になってわたしたちを罪の裁きから赦してくださるのです。たとえその家にいる者が遊女であろうが、ずるがしこい人間であろうが、主なる神様は、その血を御覧になって災いを過ぎ去らせ、中にいる者を無罪放免として下さるのです。

ですから大事なことは、わたしたちの罪を贖い聖めて下さるイエス・キリストの十字架の血潮を受けることではないでしょうか。わが罪のために血を流された神の子羊イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れることが神の裁きを逃れる唯一の道なのです。キリストの血は、わたし達の罪を赦す力があります。キリストの血は、わたし達の罪を聖める力があります。キリストの血はわたしたちの罪を洗い流す力があります。そして、キリストの血はわたしたちを新しく造り変える力があります。キリストの血はわたしたちに復活の永遠の命を与えてくれます。

主はわたしたちの罪のために十字架に架かって下さいました。そしてわたしたちの罪の贖いの業を成し遂げられました。誰でもこのお方を心に受け入れ信じる者は、罪赦され永遠の命を受けることができます。心の入り口に、イエス様に来ていただき、その血潮を塗ってもらおうではありませんか。入口の柱は、その家の表面玄関です。そして、この世に向かって、わたしは子羊なるキリストの血によって救われましたということを世間に証する者であることを意味しています。赤い十字架の旗印を鮮明にすることです。その赤い血潮を見て、神様は災いを過ぎ越されるのです。

この子羊の赤い血潮の色が消えかかっている人は、もっとはっきりと自分の家の表面玄関に、そして自分の心の表面玄関に赤い色をはっきりと塗りましょう。神の使いに良く見えるように、そして人々の目にも解るように、はっきりと表して下さい。また、まだ自分の心の入り口に、子羊キリストの贖いの血を塗ってもらっていない人は、今日、子羊の血を塗っていただいて下さい。たとえ罪を持っていても、悪い人間でありまして、神様はえこひいきされません。誰でも自分の罪を認め、主の十字架の贖いと赦しを必要としておられる方には、御自分の血を振り注いでくださいます。是非、この主イエスの赤い贖いの血を受けて下さい。そして、この子羊の血を旗印として歩む者となることを願っております。                        

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