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子ろばに乗って (ゼカリア書9:1~10)

メッセージ
2019年11月10日富里キリスト教会
「子ろばに乗って」
(ゼカリヤ書9:1~10)

1.主の言葉が地に臨む

「託宣。主の言葉がハドラクの地に臨み、またダマスコにとどまる。人々はイスラエルの全部族と共に主に目を向ける。」(9:1)

神の民イスラエルの救いはどのようにしてやって来るのかと言いますと、神の言葉としてやって来ると預言されています。エルサレムから離れている辺境の地に、神の言葉がとどまるのです。そして北にいる異邦人の方に先に神の言葉が示され、そこで宣べ伝えられてゆくのです。

早いもので、もうすぐクリスマスがやってまいります。クリスマスのイブ礼拝でいつも読み上げる預言の御言葉がございます。それは有名なイザヤ書8章の最後と9章の最初のみ言葉です。「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先に、ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中に歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ書8:22~9:1)

辺境の地、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放の中に置かれた人々のところに、救いの光が立ち上るという預言です。神の救いから遠く離れた地にある失われた人々のところにこそ、新しい救いの光がやって来るのです。そういう見捨てられたような人々のところに、神の命の言葉が届くという預言ではないでしょうか。救いはそういう辺境の地から始まるのです。

9:7に「わたしはペリシテ人の高ぶりを絶つ。わたしはその口から血を、葉の間から忌まわしいものを取り去る。その残りの者は我らの神に属し、ユダの中の一族のようになる」とあります。異邦人の中にも、残りの民として神の民に入ることを許される人々がいるのです。ユダ族の一員に加えられるものも出てくるというのです。このようにして神の言葉は、辺境の異邦の地からやって来るのです。それはイエス様の福音伝道の第一声が、ガリラヤの地で発せられることを預言していたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と言ったあの言葉です。

2.従順とヘリ下りの王

イエス・キリストは人々に救いを与え、命と光を与えるお方としてやって来られました。その方は、命を与え、光を与えるお方としてやって来られました。死んでいた人が生き返る、目が見えなかった人がその方の言葉を聞いて目が見えるようにありました。生きた言葉として、わたしたちの目に見える形でやって来られたのです。

普通、王と言えば軍馬に乗って威風堂々としてやってきます。仙台藩の藩主伊達政宗の銅像を皆さんご存知だと思います。武将や将軍と言われる人は、みな威風堂々と軍馬に乗って、四方ににらみを利かせている像になっています。他にも有名な軍人なども馬に乗っています。馬はその人の勢いと言いますか力を表していますので、王たるものは馬にまたがる像が沢山あります。

しかし、昔からイスラエルの王はロバに乗る習慣がありました。イスラエルにはろばはありましたが、軍馬はありませんでした。ですから軍馬はエジプトやアッシリアから買い求めていたようです。想像してみてください。ろばだけでもどこか頼りない、何かみすぼらしい王様ではありませんか。これがわたしたちの王様ですかと思わせるような体裁です。

ゼカリヤは来るべきイスラエルの王は、ロバに乗ってやって来ると預言しました。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌ろばの子であるろばに乗って。」(9:9)イスラエルのまことの王、いや全世界の王の王であるお方は、軍馬ではなくロバに乗ってやって来るというのです。しかも、よく読んでみますと、「雌ろばの子であるろばに乗って」とありますので、純粋なロバのこどもです。今まで荷物も人も載せたことのない、未経験のロバの子に乗ってエルサレムに、王として入場されるというのです。

このメシアがロバに乗ってエルサレムに入場するという記事は、四福音書のどれにも出ています。ヨハネの記事を見てみましょう。「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。『シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。』」(ヨハネ12:14~15)このようにして、ゼカリヤの預言が成就したのです。

どうしてメシヤなる王様が、あえてろばを乗り物に選んだのでしょうか。またどうして親ろばではなく、子ろばを選んだのでしょうか。その答えが聖書の中にあります。それはゼカリヤ書9:9に「彼は神に従い、高ぶることなく」という御言葉ヒントがあります。つまり、この世の真の王であり支配者である方は、神に対して従順な方だということです。そしてもう一つはへりくだるお方だとおいうことです。この「従順」と「ヘリ下り」こそ、真の王にふさわしい性質なのです。その御自分のご性質を表すために、主はあえてろばを選ばれ、しかも子ろばの方をお選びになったのではないでしょうか。

ろばは家畜として、粗食に耐えてよく働くと言われています。しかし、一方では頑固なところがあって、びくとも動かない時もあると言われています。そして従順という言葉の真の意味は、自分を非難攻撃してくるもののために執り成すものということもできるのではないでしょうか。自分は非難攻撃をされるけれでも、その人のためにどこまでも忍耐と寛容をもって執り成してゆく者です。それが従順ということの真の意味ではないでしょうか。主イエスの十字架もそうです。主は、自分が何をしているのかもわからずに責めたり、非難してくるものために、ひたすら執り成しました。「父よ、彼らを赦したまえ。」と。そして人に従うよりは神に従う道を選ぶこと、それが執り成すことです。

そしてへりくだりというのは、「子ろば」という言葉の中に示されているような気がします。つまり自分には経験がない、今まで人を載せたことも荷物を載せたこともない未経験のものですが、ただ主が必要ですとおっしゃったのであれば、何でも致しますという態度ではないでしょうか。真のヘリ下りというのは、「わたしはできません。そういう力も経験もありません。でも主がやれとおっしゃるならば、主の御命令であるならば、何でもやります。」これがへりくだるということです。つまり、「わたしはできません。無理です。でも主がお命じなさるのであれば私はやります。」これが本当のヘリ下りです。自分がするのではなく主がするのです。

この従順とヘリ下りが、全世界の王なるイエス・キリスト様のご性質なのです。ですから主を信じるものはみな、この主のご性質を受けているものです。どこまでも自分を主張し、我を張る人は従順の実がまだ実っていない人と言わねばなりません。自分を退けて、相手のために執り成しつつ、迫害や言われない非難攻撃に耐えつつ、その人のために最善を図ってあげることです。これが子ろばの性質ではないでしょうか。そして子ろばの性質は、主がお命じ下さるならば、何でもしますと言って従うことです。たとえ未経験でも無能力でも若くても、主の御言葉に従って素直に従うことです。その時に主御自身がわたしたちを用いて下さり、御心をなしてくださいます。

3.戦争ではなく平和を

そのようにして従順とヘリ下りの主がわたしたちの内側をご支配するならば、そこにはもはや軍馬や争いや闘いの関係はなくなります。そこにこそ真の平和が築かれるのです。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」(9:10)

私達がこの救い主なるイエス・キリストを受け入れるなら、そこに従順とヘリ下りの御霊の実が結び、家庭の中で友人関係の中で、職場で地域で、そして国と国の間でも平和が訪れると預言されています。まさにイエス・キリストこそ平和の君です。この方を通して初めてこの世界に平和が訪れるのではないでしょうか。

エフライムとエルサレムは、同じ兄弟であるがゆえに昔から骨肉相争うという関係で争ってきました。エフライムは戦車を誇り、エルサレムは軍馬を誇っていました。しかし、へりくだり従順なるお方によって、エフライムの誇る戦車が撤廃され、またエルサレムからは軍馬が武装解除されて農耕馬に戻されるのです。こうして南北の兄弟国に和平がやって来るのです。更にその平和は、イスラエルだけではなく、地の果て、全世界へと及ぶものです。

今、日韓関係はあまりいい状態ではありません。どちらも相手に謝罪を求めています。相手の要求を撤回することを求めています。日本が先に謝罪したら赦してあげよう、韓国が要求を取り下げたら仲直りしようとして、お互いに自分の立場を一歩も譲りません。また同じように、友達関係の中でも、職場でも家庭でも、相手が謝ったら赦してあげようと、お互いに自分を主張していることはないでしょうか。相手に謝罪を求めています。相手が自分の非を認めて謝ったら考えてあげようと思っています。自分から先に相手を赦そうとしていません。

絶対あの人は赦せないと思っています。同じ兄弟同士であるからこそ赦せないのです。親しい間柄であればあるほど、逆に反発し合うのです。それがエフライムとエルサレム同士でした。でも私たちの主であるお方は、どういう方ですか?従順なる方です。へりくだった方です。わたしたちのために先に赦してくださった方です。「わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)先に和解して下さったのです。先に赦してくださったお方です。先に槍を捨てられたのです。先に軍馬を手放した方です。先に赦されたのはイエス様ご自身です。

もはや正しいわたしは死んだも同然です。もはや自分はありません。もしかしたらあなたは自分を王様にしていませんか?本当の王様はあなたではなくイエス様です。わたしたちはそのイエス様をお載せして歩く子ろばなのです。主がまっすぐ行きなさいと言えば、そうするし、右に曲がりなさいと言えばそうします。人生のハンドルを握っているのは、わたしではなくイエス様であるべきです。イエス様がもし、あの兄弟を愛しなさい、あの人を赦しなさいとおっしゃったとしたら、あなたはどうしますか?

まだその人を責めているでしょうか。主人であるイエス様がすでに私たちの罪を赦してくださっているのです。わたしたちはイエス様より上でしょうか。イエス様の主人でしょうか。どっちが主ですか?イエス様の背中に乗って、イエス様を手綱を使って、自分の思いどおりに動かそうとしていることはないでしょうか。わたしたちは主をお乗せする子ろばなのです。赦しと救いは、主を信じ、主をお乗せして忠実に運んで行く私たちを通してなされるのです。救いと赦しは、わたしたちから始まります。辺境の地に住む者から始まるのです。田舎の教会から始まるのです。暗闇の中を歩いている者から、孤独と追放と恐怖の中に置かれた者から始まります。彼らの上にこそ、神の託宣、神の御言葉が語られたのです。

今こそ、暗闇の中から、苦難と死の淵から、追放の中から立ち上がりましょう。み言葉を受けて、御言葉の命に従順に従う者として、そして御言葉にへりくだって従う者として立ち上がりましょう。今こそ王としての自分を降ろして、真の王様を乗せましょう。その軛は重くはありません。軽くなります。その方の愛と赦しゆえに、その方の御心に従って自分から進んで赦します、赦さなかった私を赦してくださいと祈って見ようではありませんか。わたしは、そこにこそ真の平和が実現されてくると信じています。(岡田 久)

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