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妻にそそのかされた男 (列王記上21:8~19、25~29)

メッセージ

2016年8月28日富里キリスト教会

「妻にそそのかされた男」
(列王記上21:8~19、25~29)

1.自分の欲望に引かれる

アハブ王は、このナボトさんのぶどう園の近くに別荘を持っていたようです。そしていつも休養で休んでいる時に、隣の土地のみごとなぶどう園が目についたのでしょう。そのぶどう園を買い上げて、自分の野菜畑にしたと思ったのです。変な話ですが、立派なぶどう園を壊して、どうしてわざわざ野菜畑にしようと思ったのでしょう。せっかくみごとなぶどう園があるのに、もったいない話です。野菜畑にする理由がよく解りません。

王は早速に買収交渉にかかりました。譲ってくれたら、代替地を準備してもっと良いぶどう園を代わりにあげよう、それが不服ならば、それ相当の金額で買い上げてもいいと言って、交渉しました。王がそんなに他に良いぶどう畑を持っているなら、それで満足していればいいのではないでしょうか。ナボドのぶどう畑を手に入れる必要はないはずです。しかし、隣の芝生がよく見えるということわざにありますように、人間横に目をやってしまうと、それがよく見えるのです。

アハブ王は、この自分の欲望を押さえることができませんでした。ナボトは聖書の教える掟に従って、先祖伝来の土地を売らなかったのです。なぜならば土地は神様のものであり、勝手に売買をすることは禁じられていました。(レビ記25:23~28)王様も一応神を信じていましたから、ナボトの拒否の理由も解らないわけではありませんでした。それで、仕方なく引き下がりましたが、手に入らないとますます欲しくなってきます。

欲しい、でも手に入らないということで、王はまるで子供のようにふてくされてしまいました。「アハブは、イズレエルの人ナボトが、『先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない』といったその言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった。』」(21:4)とあります。

2.そそのかされて誘惑に陥る

異教の妻イゼベルは、王家に育った人でしたので、王の意にならないことはないと考えていました。王の上に、もっと偉大な権威をもった神がいるということを知らなかったようです。そして王に悪知恵を吹き込みました。王の地位と権威を利用して、悪事へと唆したのです。「妻イゼベルは王に言った。『今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出して下さい。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。』」(21:7)と。どうして一国の王が、自分の国の土地を手に入れることができないのですか。どこの国の王も、みな自分の欲しいものを手に入れています。しかもあなたは代替地を提供し、またお金を払って買ってもいいと言っているのではないですか。それでも売らないとは、王の権威をバカにしていると思ったのでしょう。「この国を支配しているのは神ではなく、あなたです。このわたしが何とかして手に入れてあげましょう。王のメンツにもかけて」といったのです。

3.手に入らないので人を殺す

そこで、悪妻イゼベルが取った行動とは何かと言いますと、義人ナボトを殺して土地を手に入れることでした。しかも合法的な手続きをして、裁判で公の目の前で、ナボトを殺したのでした。アハブは、多少信仰があったのでしょうか、手に入らないことを悔しがっていましたが、そこまでは良心がとがめました。逆にイゼベルは、積極的に罪を犯しても手に入れる、これは王の権威だと言わんばかりです。どうしたのかと言いますと、偽の証人を二人立てて、ナボトが神を呪ったと偽証させたのです。当時は二人以上の証人があれば、その証言が認められて死刑にすることができました。

その偽りの裁判、冤罪の裁判が記されています。「彼らは断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、『ナボトは神と王とを呪った』と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した。」(21:12~13)

ナボトは何もしていないのに、嘘の裁判で、有罪判決を受け、死刑にされてしまいました。人を殺してまで、自分の物にしようとした人間の罪の恐ろしさがここに述べられています。自分の手に入らないとなると、人を殺してでも手に入れようとします。今日でもこのようにして、経済効果とか土地の有効活用という名目で、権力が土地の収奪を行っております。土地は神からの贈り物ですから、他人の土地を欲しがってはいけません。境界線を犯してはならないのです。今日、この土地とそこに埋蔵されている資源を求めて、国同士の土地の奪い合いが起こっています。隣の家との境界線争いから、国境の線引きに至るまで、この土地をめぐる争いは果てしなく続いています。

そして手に入らないと、相手を殺すということまでせっぱ詰まって来ています。
ちょうどこのアハブとイゼベルの悪行を述べながら、ふと新約聖書を見てみました。するとちょうど、彼らの罪の姿を述べた箇所が目に止まりました。ヤコブ1:14(P421)です。「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」とあります。更にヤコブは「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。」(4:2)と言っています。

まさにこのアハブ王と悪妻イゼベルの行為は、昔の話ではなく、今日でもしかも教会の中にあっても起こりうることだとヤコブは警告しています。小さな欲が、殺人にまで発展することもあります。それらはみな悪魔から出たものであり、このような誘惑に陥らないように、わたしたちも十分に気をつける必要があることをヤコブは警告しています。

4.神は見ておられる

エリヤはアハブに出会ってこう告げました。「主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分の物にしようとするのか。」「主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる。」(21:19)と。主はアハブのナボト殺しの殺人罪、そして財産を奪った強盗罪、嘘の裁判をした虚偽罪、隣人の持ち物を手に入れようとしたむさぼりの罪と、はっきりとその罪を王の前に糾弾しました。これが預言者の働きです。

神の言葉をその通りに伝えるという働きです。そして神はアハブ王の非業の最期を告げました。犬があなたの血をなめると。またイゼベルに対しても犬に食われるという無残な最期を告げました。そしてこれはのちになって、その通りに成就します。アハブは、戦いに行って、たまたま敵の兵士が放った流れ矢に当り、サマリヤの町で死にました。王の乗った戦車には血が残っていて、その血を池で洗い流す時に、犬が王の血をなめたのです。(列王上22:38)またイゼベルは後で、窓から投げ落とされて死にました。かつては王妃だったということで、埋葬のために死体を拾いに行きますと、その死体はすでに犬に食われてバラバラになっていました。(列王記下9:33~35)こうして後になって、エリヤの預言は成就します。

たとえ、王から命を狙われ、敵だと言われても、預言者は神の命を受けて神の言葉を語る使命をおびています。耳障りだと言われ、敵だと言われても、是は是、非は非をはっきりと伝えるのが預言者です。教会もそういう使命を帯びているような気がします。わたしたちが一番恐れるのは、この世の王でもこの世の権力でもありません。天におられる唯一の主を畏れ、この方にだけに信仰をもって仕えて行きたいものです。「あなたがたが得られないのは、願い求めないからであって、求めても得られないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからだ。」(ヤコブ4:3)とヤコブは言っています。ですから、欲しかったら神に求めなさい、そして上にあるものを求めなさい。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」(ヤコブ1:17)

5.アハブ、悲しみ嘆き主の前にへりくだる

このエリヤの言葉を聞いたアハブは、驚いたことに、荒布をまとって断食をしてへりくだったのです。自分の身に起こる神の裁きを、受け留めて彼は嘆き悲しみました。「アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、荒布を身にまとって断食した。彼は荒布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた。そこで主の言葉がテシュべ人エリヤに臨んだ。『アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか、彼がわたしの前にへりくだったので、わたしは彼が生きている間は災いを下さない。その子の時代になってから、彼の家に災いを下す。』」(21:27~29)

あの残虐極まりない、欲の塊のような男が、断食をしたのです。そして荒布を着て、打ちひしがれて歩きました。つまり、自分の上に下される神の裁きを嘆き悲しんだのです。あの信仰深いナボトを、冤罪を持って裁判にかけ、表面的には法的に何も悪いことをしていないようにして、自分の欲望を遂げた男です。いつも信じているような、信じていないような、どっちつかずの信仰を持って、時には悔い改めたり、時には妻にそそのかされてあくどいことでも平気で行う男です。神を神と認めていない、神をも畏れない王です。

その男が荒布をまとって断食をして、嘆きを表すために打ちひしがれた様子で歩きはじめたのです。今さら、そんなポーズみたいなへりくだる姿勢を見せても、もう手遅れではないでしょうか。誰でも、「もう遅い、今更そんな恰好をして見せても手遅れだよ」と思いませんか。あのナボトの悲惨な最期を見たら、王のしたことは、たとえ妻が悪魔であっても赦されるようなことではないはずです。

ところが神様は、このアハブの態度を見て、喜んでいると言いましょうか、エリヤに自慢しているのです。「アハブがわたしの前にへりくだったのを見たか。」
あんな悪王でも、わたしが裁きを宣言したらへりくだったのだ、わたしは嬉しい、エリヤよ、お前も喜べと言っているような気がしてならないのです。神様、あなたは一体どっちの味方ですか。アハブですか、ナボトですか?神様、あなたがそんなに喜んだら、あの無残な最期を遂げたナボトはどうするのですか。ナボトが浮かばれないではないですか?と言いたくなってきます。

皆さんはどうでしょうか。神様はこのアハブがへりくだる姿を見て、彼が生きている間は、彼の子孫を滅ぼすことはしないと決めました。アハブが死んでから、王の血縁者は、すべていろんな形で命を絶たれて亡んでしまいますが、王が生きている間は滅ぼさないというのです。アハブのへりくだりによって、神様は裁きに手心を加えたのです。人間が主の前にへり下ること、また悔い改めること、これほど神様にとってうれしいことはないということではないでしょうか。

ヤコブはこう言っています。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。関しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めて下さいます。」(ヤコブ4:8~10)と。神様は、わたしたちの常識や予想をはるかに超えて、わたしたちを愛しておられます。わたしたちの感情としては、あんな男を赦すことができません。

しかし神様の思いは、あんなあくどいことをした男でも、嘆き悲しんでへりくだったら、喜ばれるお方なのです。それを自慢さえするのです。それほどに主は、わたしたち罪人を愛しておられるということです。「神には私たちの内に住まわせた霊を、妬むほど愛しておられ、もっと豊かな恵みを下さる。」(ヤコブ4:5)と言っておられます。私たちは罪人です。あのアハブとなんら変わらない欲とわがままを持っています。悪魔にそそのかれやすい、弱い心を持っています。それでも主はわたしたちを妬むほどに、心から愛しておられるのです。

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