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妻と夫 (エフェソ5:21~33)

メッセージ

2013年6月16日富里キリスト教会

「妻と夫」
(エフェソ5:21~33)

1.妻たちよ、主に仕えるように夫に仕えなさい

「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻も全ての面で夫に仕えるべきです。」(5:22~24) 

「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」とあります。主とは主イエス・キリスト様のことです。つまり、イエス様に仕えるように、自分の夫にも仕えなさいということです。クリスチャンでしたら、皆、イエス様にお仕えしたいと願っているはずです。でも、そのイエス様は目に見えません。どこか漠然としています。どうすることが具体的に、また現実的にイエス様に仕えることになるのだろうかと思います。イエス様がはっきりと解れば、誰でもお仕えしたいと思います。

そこで、神様は、目に見えないイエス様に仕えることよりも、具体的に、目に見える仕方で、現実的に一番身近な存在である夫をさして、主に仕えるようにあなたの夫に仕えなさいとおっしゃいました。これがあなたの夫であり、この人に仕えることはとりもなおさず、わたしに仕えることなのだよと教えてくださいました。もしあなたがほんとにクリスチャンならば、主を信じ主に従いたいと願っているならば、あなたの夫に仕えなさい、これが主にある妻としての最高の証しの生活です。(Ⅰペテロ3:1~4・P431)

良妻賢母の鏡として誉れ高い山之内一豊の妻千代が、山之内家に嫁ぐ前に自分の母から次のような知恵を授けられたと言われています。「男というのは、いくつになっても子供みたいなものだから、生涯、子供を育てるようなつもりで夫と付き合って行きなさい。」と。そして、千代は夫一豊に、一世一代の買い物として、十両の名馬を自分のへそくりを出して買ってあげました。その名馬を見た信長が、どこで手に入れたのかと言いましたところ、妻に買ってもらいましたと答えたというのです。それ以来、一豊は妻千代の内助の功でどんどん出世して行ったと言われています。

一豊の妻、千代の偉いところは、自分の賢さを絶対表に出さなかったということです。まるで自分が子供のような、無邪気さと愚かさを装って夫に従いつつ、夫を蔭で支えて育てていったと言うところだそうです。この聖書にあります「仕える」と言う言葉ですが、ギリシャ語では「ヒュポタッソウ」と言う言葉です。「ヒュポ」は「下に」と言う意味で、「タッソウ」は置くと言う意味があります。つまり、自分を下に置くことです。英語ではSubmitと言う言葉です。自分を下に置くこと、これが仕えるということです。

自分の立ち位置を常に、夫の下に置くからこそ、夫がどうすればいいのか、どう行動すればいいのか、どんな発言をすればいいのかが見えて来ているのではないでしょうか。いわば、コーチみたいのものです。賞を受けるのは選手である夫ですが、コーチは選手である夫の蔭になって、選手である夫がどうすれば成績を上げられるか、どうすれば神様の御心に沿った生き方ができるのかを、そばにいてアドバイスしたり教えたりすることではないでしょうか。決して自分が表面に出ることはありませんが、コーチである妻の指導いかんで夫は倒れもし、立つもするのではないかと思います。しかも、決して上に立たないわけです。あくまでも下に立って、千代のように、自分の愚かさや弱さを装いつつ夫に仕えることです。そのような妻の支えによって、夫も神の前に立つことができるようになるのではないかと思います。

2.キリストのように妻を愛しなさい

25節から読んでみましょう。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだものは一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。」(5:25~29)

妻に対しては、主に仕えるように夫に仕えなさいでしたが、夫に対しては、「キリストが、自分の体を十字架につけるほどに教会を愛し、自分の命を教会に与えて下さったように、汝の妻を愛しなさいということです。」夫に対しては、妻に対してよりも、もっとキリストがされたようにあなたの妻を愛しなさいということでした。端的に言いますと、妻を愛しなさいということです。しかも、自分の命を与えるほど愛しなさいと、勧めております。「キリストが愛したように、あなたの妻を愛しなさい」と言う言葉が心にグッときました。

イエス様は、神の子であられましたが、私たちのために身を低くして肉を取りこの世に来て下さいました。へりくだって、私たちの教会に仕えてくださいました。しかも、十字架の上で自分の命を与えるほどに愛して下さったのです。男性の皆さん、妻のために自分の命を与えるほどに愛していますか。これがキリストが愛したように、妻を愛しなさいということです。妻の戒めよりも、夫に対してはもっと高いことが要求されているような気がしてなりません。妻に対してはイエス様のようになりなさいということです。(Ⅰペテロ3:7)

上沼昌雄と言うアメリカで伝道されていた牧師さんが、アメリカでのプロミス・キーパーと言う男性集会に参加したそうです。「妻の話を聞く」ということが男性集会で良く出てくるそうです。また女性の集まりでも、妻の訴えの中にこれが多いと言われております。上沼先生は、この話を聞くということこそ、聖書に書いてある「キリストのように妻を愛すること」ではないだろうかと言う結論に達しました。このキリストがしたようにということは、現実とかけ離れた高尚な霊的な世界のことではなく、私たちの身近な生活の中で実現されてゆくことではないだろうかということです。

イエス・キリストは、皆さんも知っているとおり、神の子でありましたが、肉を取ってこの世に来て下さり、罪人のために自自身の命を捧げてくださいました。そこにキリストの愛が現されたのです。ですから、キリストが愛されたように妻の話を聞くということは、自分の命を捨てるほどの覚悟が求められるのだということです。

「妻を愛する」ということは「自分に死ぬ」ということであり、その信仰の戦いと現実は遠い世界にあるのではなく、まさにここに、皆さんの家庭と言う現実の生活の中にあると言っても過言ではありません。家庭こそ、信仰の戦いの場であり、その真価が問われる場所でもあり、男にとっては最高の死に場所でもあると上沼先生は言っています。そして、この妻の話をじっと聴くことから、夫の職場の問題や、人間関係や社会的な責任というものが生まれてくるのではないでしょうか。この妻と夫の関係に、人生の秘密と言いますか、人生の奥義があるとパウロは言っております。

3.祝福の源

そういう意味で、夫にとって妻の存在は、むしろ、夫を生かし社会的にも夫を支え高めてくれる最大のサポーターと言っていいかも知れません。夫を生かす命の源となる宝物だと言っていいかも知れません。そして、結婚生活というものは、そのことを気付かせてくれる場であると言っても言い過ぎではないと思います。最後に箴言の言葉を一つ引用させていただきたいと思います。

「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。その源はあふれ出て、広場に幾筋もの流れができるだろう。その水をあなただけのものにせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな。あなたの水の源は祝福されよ。若い時からの妻に喜びを抱け。」(箴言5:15~18・P996)

あなたの井戸と言うのは、妻のことです。このあなたに与えられた神様からの祝福の源から水を飲みなさいと勧めています。これが妻の言葉を聞くということです。妻の言葉を聞くということによって、妻の言葉を通して神様があなたに命の水を与えているということを意味しています。そして、妻の言葉に耳を傾けることは、自分を犠牲にして、自分に死に切らなければ聞くことはできないかもしれません。しかし、もし、わたしたちがあのキリストのように、自我を捨てプライドを捨て自分の信念を捨て、じっと妻の御言葉に耳を傾けるならば、そこにこそ神様の祝福が湧き上がり満ちあふれると言うのです。そして、それは、夫婦関係だけではなく、その人の家庭も祝福し、その人の住む社会も職場も命の水によって潤され祝福されるのです。        (岡田 久)

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