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天国の鍵 (マタイ16・13~20)

メッセージ

2010年5月23日富里キリスト教会
「天国の鍵」
(マタイによる福音書16:13~20)

1. イエス・キリスト生ける神の子

昔、クリスチャンが迫害を受けている時に、お互いがクリスチャンであることを暗号を使って示しあいました。自分がクリスチャンだということを言う代わりに、地面に魚の絵を書いてサインを出しました。実は魚のことをギリシャ語では、「イクセウス」といいます。イは「イエス」、クは「クリスト」、セは「セウス=神」、ウは「フィオス=子」、スは「ソーテール=救い主」という意味です。すなわち「イエス・キリスト、神の子、救い主」という言葉の頭文字を取ると、魚という言葉になったのです。ですから、この「イエス・キリストは神の子で、我らの救い主です。」というのが、信仰告白で、この告白を魚という言葉に隠して暗号に使った訳です。

イエス様も、弟子たちが自分をどのように考えているのかを確めようとされました。そして、弟子たちに「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」と尋ねられました。すると、ペテロが「あなたはメシヤ、生ける神の子です。」と答えました。すると、イエス様は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ16:15~17)と言いました。

イエスを、「神の子、メシヤ=救い主」と告白すること、これがクリスチャンの条件です。私たちも、信仰告白の時には、耳をそばだててこの言葉がその人の口から出てくるかどうか真剣に聞きます。イエス・キリストは偉大な人物だとか預言者だと言うのではなく、神の子であり、救い主だと告白することです。そして、これは本人が告白しているのではなく、神様がその人の心に働いて、主を告白させておられるのです。

ですから、私たちが救われたのも、自分で信じたからではなく、神様が聖霊様を通してわたしたちの内に働いて告白させてくださったということなのです。(1コリント12:3)自分が信じたのではなく、神様が信じさせてくださったのです。自分が神様を愛したのではなく、先に神様が私たちを愛して下さったのです。自分が神を選んだのではなく、神様が先に私たちを選んで下さったのです。(ヨハネ15:16、1ヨハネ4:10、エフェソ1:4)それがこの信仰告白です。私たちはそのようにして全員、主を告白して救われ、神の子とされ、天国への切符をいただいて、この教会のメンバーに加えられました。

2. 岩の上に立つ教会

そして、イエス様はこのペテロの告白に対して、18節にさらにこう言いました。「わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を立てる。陰府の力もこれに対抗できない。」ペテロがイエス様を、神の子救い主と告白したことに対して、主は「あなたはペテロだ」と言いました。ペテロの本名は「ヨナの子(=バル)、シモン」でした。ここで、主はシモンをペテロという名で呼ばれたのです。ペテロという名の意味は、「小石」という意味です。そして、この後に出てまいります「岩」という言葉が、ペトラと言います。ですから、教会というのは、「イエスを神の子」と告白したものが、この世から呼び集められて構成されたものです。この生きた小石が、寄り集まって、教会という生きた人間の建物を造るのです。そしてこの教会の真の土台石である大岩(ペトラ)は、イエス・キリスト御自身なのです。ですから、18節の言葉は、「あなたは小石(ペテロ)、私は自分自身である岩(ペトラ)の上に、主を告白する一人一人の小石を積み上げて教会を造る」ということになります。

横浜にいた時、鎌倉の八幡様に行く機会がありました。いつも誰かお客様が来ますと、鎌倉が近かったものですから観光でよく案内をしました。本殿には入りませんが、本殿の下にある境内を散策する時がありました。そうしましたら、そこに、日本の国歌である「君が代」の中にも出てまいります「細石(さざれ石)」というものがありましてビックリしました。説明のお札にはこう書いていました。「これは、小さな石が溶岩の熱さで溶けて、まるで1枚の大きな岩のようになったもので細石といいます」と。ですから、表面には一つ一つの石が見えるのです。でも、溶けていますから、1枚板のようにしっかりとつながっているのです。私はこれを見て、アッこれがイエス様が言った教会の姿なのかと思いました。

ローマ・カトリック教会は、自分たちこそこのペテロの信仰告白の正統な継承者だとして、ペテロから数えて、何代目にあたるのが、今日のローマ法王だと主張しております。ペテロの告白に権威を置いて、代々、教会の指導者を選んできました。でも、大切なのは、ペテロという人物ではなく、そのような告白を与えて下さった神様に権威を置くのが本当ではないかと思います。これはペテロの個人の告白ではなく、教会全体の告白であり、ペテロは最初の告白者なのです。決して、ペテロ個人が教会の創設者だと考えてはなりません。私の告白とペテロの告白とは何ら変るところはありません。ペテロの告白と櫻井さんの告白は同じ神様がさせているのです。教会の真の基礎石である岩は、イエス・キリストです。そして私たちはその岩の上に積み上げられた小石の生きた集合体なのです。それぞれの働きは異なりますが、一つの体のように一体となったもの、これが教会の姿です。

3.天国の鍵

そして、さらに主はこう言いました。「陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上でも解くことは、天上でも解かれる。」(16:19)と。

イエス様は、私たちに「天国の鍵を授ける」とおっしゃいました。この天国の鍵は、教会に与えられているものなのです。それはペテロだけに与えられたものですか。そしてペテロの後継者であるローマ法王にだけ与えられているものでしょうか。そうではありません。イエス・キリストを救い主と信じる、どの教派にでもどの教会にも与えられているものです。私たちの富里キリスト教会にも与えられています。

さて天国の鍵を持っていて、天国を管理する使命を仰せつかっている私たちは、この鍵をどのように使ったら良いでしょうか。例えば、私は教会の鍵を預かっています。これは、私たち夫婦だけが教会に出入りするために使うものでしょうか。教会に入ったらすぐに鍵をかけて、ドアを閉めてしまい、誰かが来ても知らん顔をしていますか。そうではないはずです。鍵は、訪れた人を建物の中に招き入れるためのものです。

さてそれでは、この天国の鍵は教会のどこにあるのでしょうか、誰が持っているのでしょうか。牧師でしょうか、役員さんでしょうか、そうではありません。鍵は全てのクリスチャンに与えられているのです。私も持っています、皆さんも持っているのです。誰でも、主を信じ告白する人は、天国への門を開け閉めできるのです。(ポケットの鍵を出して)これが教会の扉の鍵です。このように皆さんお一人お一人がこの天国へ通じる門の鍵を持っておられるのです。そして、これを用いて、多くの人を天国へと案内できるのです。皆さん、この鍵を使っていますか。どこかにしまいこんではいないでしょうか。

ペンテコステの日には、エルサレムに集まっていた弟子たちの上に聖霊様が激しく降りました。そして使徒たちは、自分が今まで一度も話したことの無い外国の言葉で、キリストの十字架と復活の出来事、すなわち福音を大胆に語りだしました。そして、ペテロは大勢の人々の前で、福音、すなわちイエス・キリストの十字架と復活を大胆に語り始めました。そして、その日、罪を悔改めて信仰に入った人が3000人もあったのです。この日は、3000人がペテロの持っている天国の鍵によって、天の御国に入ったのです。

教会はイエス・キリストを土台とし、イエス・キリストを頭とし、主を告白して積み上げられた一つ一つの生きた小石から成っています。そしてキリストの愛によって一つの岩のように、固く結び合わされ、キリストの愛が満ち満ちているところです。そして天国の鍵を授けられました。この天国の鍵であるイエス・キリストの福音を、私も皆さんも一人一人が持っているということです。ですから、この鍵をどこかにしまい込んだりせずに、聖霊様の助けをいただきながら、あのペテロのように大胆に用いて行こうではありませんか。
                                          (岡田 久)

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