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天の門 (創世記28:10~22)

メッセージ

2014年8月31日富里キリスト教会

「天の門」
(創世記28:10~22)

1.石の枕

「ヤコブはべエル・シェバを立ってハランヘ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天に達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(創世記28:10~12)

ヤコブのハランへの旅は、名目は花嫁探しの旅ではありましたが、実際は兄の復讐を逃れて家出をするというようなものでした。誰も伴の者もなく、たった一人で北に向かって約800キロの旅をしなければなりませんでした。だいたい東京から青森まで歩いて行く道のりです。とある場所に来たとき、日も暮れたので、そこで夜を過ごすことにしました。

そしてそこにあった一つの石を取って枕にしました。おそらくこの石の上に何か敷物を強いて枕にしたと思いますが、辞典で「石の枕」を調べてみました。そうしましたら、死者の枕もとに置く石とありました。その石に戒名を書いて、埋葬が終わったら、その土の上に置く石とありました。ですから、石の枕というのは何か死を思わせるような意味があるような気がします。

ちょうどこのヤコブの石の枕をテーマにした讃美歌が603番です。この讃美歌は、よく葬儀の時にも歌われるのですが、息を引き取った人のそばで、今その人の霊は天のはしごを通って、天使と一緒に天に上って行くという情景を思い起させます。また、映画「タイタニック」でも、船が沈んで行く中で、数名の演奏家がこの曲を奏でている間に船が沈んで行く場面が思い出されます。いわば死と天国が一緒になっているような場面が、このヤコブのはしごの夢の場面です。

クリスチャンは皆そのような死と孤独と恐れの体験をさせられます。いつまでも、家の中にとどまっていては信仰が弱ってしまいます。故郷を離れ、親族、家族を離れ、両親のもとを離れて、何もない荒野に旅に出てこそ初めて神様の大きな恵みと祝福に出会わされて行くのではないでしょうか。

2.天の門

ヤコブはその夜ある夢を見ました。「すると彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしはあなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がって行くであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまでは決して見捨てない。』ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』そして恐れおののいて言った。『ここはなんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』」(28:12~17)

自分は親から見捨てられた。神からさえも見捨てられたと思ったその場所に、何と天から地上に向かって階段が伸びているではありませんか。そして、その階段の上を神の使いである天使たちが上ったり下ったりしていたのです。しかもその階段のそばに主が立っておられて、ヤコブに語りかけました。ヤコブは初めて神様に出会ったのです。アブラハムの神、イサクの神がやっとヤコブにも出会って下さり、ヤコブの神となって下さったのです。

しかも出会って下さった主は、ヤコブに七つの祝福をくださいました。①今横になっている土地を与える。②あなたの子孫は広がって行く。③地上の人々はあなたによって祝福に入る。④私はあなたと共にいる。⑤どこへ行ってもあなたを守る。⑥必ずこの土地に連れ帰る。⑦この約束を果たすまで決してあなたを見捨てない。この七つの祝福の約束です。

もう自分は見捨てられた、帰れない。どうしてよいか分からないという絶望と挫折と孤独と失敗の只中にあって、その場所が希望の場所になるのです。その挫折の場所が、飛躍の場所となるのです。その孤独の場所が、神が共にいて下さる場所となるのです。その失敗の場所が、繁栄の場所となり、その死の場所が命輝く場所となるのです。それはまさにあのイエス・キリストの十字架の死の場所が全世界の人々の救いの希望の場所となったように、神様はわたしたちをその死と絶望と挫折と失敗と闇の只中で、まさにその場所で命を与え希望を与え祝福を与えてくださるのです。それが、このヤコブが見た神の家であり、天の門ではないでしょうか。

このようにわたしたちがどこへ行っても、天から神の階段が下っています。そして、いつもそこを天使が上り下りしています。わたしたちが自分の力や自分の知恵に失望して、全てを捨てて主に心を明け渡した時、そこが神の家、天の門となるのです。神の家と天の門は同じことのような気がします。なぜならば、わたしたちが祈る時、それは天から聖霊様が御使いと共に下って来られ、わたしたちの内に働いて祈りの言葉を天に届けてくれるからです。天使の上り下りというのは、聖霊様が私たちの祈りの言葉を神に取り次ぎ、そしてまた神様の言葉が聖霊様を通して私たちのところに来て下さることです。これがヤコブの階段です。

すなわち主の御名によって祈るということです。祈りによってそこに天の門が開かれ、そこから御使いが降りて来て下さるということです。これが、祈りがきかれるということの本当の姿ではないでしょうか。神の家というのはわたしたちの体で、私たちが祈る時に、天使がその祈りを神様のもとに届けて下さるということです。それが天国への入り口であり門なのです。そういう意味で、皆さん一人一人が神の家なのです。天の門なのです。それは祈りという働きを通してなされる神様の大きな恵みの賜物ではないでしょうか。

3.十分の一の献げ物

彼は20節でこう言っています。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせて下さり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として建てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの十分の一をささげます。」(28:20~22)と。彼は信仰の初心者として、まだ神様と取り引きをしています。

この後、ヤコブは、おじさんのラバンのいるハラン到着して、花婿修行をするわけですが、お嫁さんをもらうために14年間ただ働きをさせられます。それでも彼は、神様の知恵と力をいただいて、必死に重労働に耐え、忍耐と知恵を身に着け、ようやく二人の妻を連れて故郷に戻ることになります。そしてその里帰りの旅の途中で、もう一度神と祈りの格闘をすることになります。最後の最後まで、自分という自我が神様によって砕かれるまで、彼は神様の取り扱いを受けました。それは神との相撲、即ち神との一対一の祈りの格闘という形で闘われたのです。

このお話は来月になりますが、ついに彼の中心部分である太ももの関節が外されて、自我という自分中心の罪が砕かれます。実にヤコブほど、神様から愛され、その分神様から一番厳しい訓練を受けた人間はなかったのではないでしょうか。わたしはこのヤコブが旧約聖書のなかで一番好きです。

確かにヤコブはどこまでも我の強い、そしてずるがしこい人間でしたが、それでも人一倍神様を求め、神の目に見えない祝福を求め、どこまでも神と一対一で向き合った信仰者として注目すべき人物ではなかったかと思います。たとえ神と取り引きしてもいいです。どこまでも神に食らいついて、しっかりと握りしめた神を手を離さないで、とことん信仰を究めるような生き方をしたいと思うのはわたしだけではないのではないでしょうか。彼は十分の一を献げますと約束しました。神様と取り引きをしました。それも彼の信仰です。

最後に、ヤコブに与えられた神様の七つの祝福を自分たちに与えられたものとして、ご一緒に読んで終わりにします。①この土地を富里教会に与える。②富里教会の子孫は多くなり東西南北に広がって行く。③地上の人々は富里教会によって祝福に入る。④主は富里教会と共にいる。⑤主は富里教会を守る。⑥主は富里教会を必ずこの地に連れ帰る。⑦主は約束を果たすまで、富里教会を決して見捨てない。この約束を信じて、わたしたちも十分の一献金を献げて行きましょう。そして自分の体も、自分自身も、一切を主に献げてまいりましょう。ここは神の家、天の門だからです。              

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