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壺の粉も瓶の油も尽きることはない (列王記上17:8~16)

メッセージ

2016年8月7日富里キリスト教会

「壺の粉も瓶の油も尽きることはない」
(列王記上17:8~16)

1.無名の預言者エリヤ

「ギレアドの住民である、ティシュべ人エリヤはアハブに言った。『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。』」(17:1)

預言者エリヤの登場は、突然でした。北イスラエルの王アハブに対する警告の言葉で始まっています。エリヤの出身や人となりについては、あまり書いておりません。ギレアドと言うヨルダン川の東側の地方の出身者です。ティシュべという町も、正確には分かりませんが、ギレアド地方を流れる小さな川、ケリト川のほとりにあった町ではないかと言われています。

あまり身分の高い出身でもなく、祭司階級でもなく、砂漠で一人、神に仕えて来た一人の預言者でした。そのエリヤの仕えている神から言葉が与えられ、彼は一人で北王国イスラエルの王、アハブに会いました。そこで、この国に対する神の裁きともいえる干ばつの預言をしたのです。ある意味では命がけの預言でした。それは、この前の章の16:30~33にありますとおり、アハブ王の神に対する大きな罪の故でした。(そこを読む)その警告を込めて、数年の間、イスラエルには雨が降らないと預言したのです。

北のイスラエルは、一応ヤハウェの神を奉ずる神の民イスラエルと呼んではいましたが、王のアハブは主の前に悪を行い、更に妻をシドンの王エトバアルの娘イゼベルを、妻として迎えました。ですから、イスラエルの国でありながら、町々にはバアルの像やアシェラの像が立ち並び、イゼベルが連れて来たバアルやアシェラの祭司たちも移り住んでいました。ですから、町の中はいろんな偶像がはびこる町となっていました。

しかし、主の預言者は、御言葉に従って、王であろうが祭司であろうが、主が遣わすところに出て行って、主の御言葉をその通り語らなければなりません。偶像礼拝にまみれた北イスラエルの国とその王に対して、神の預言者エリヤは御言葉を伝えたのです。それは、偶像礼拝に対する神の罰として、数年の間雨が降らないということでした。このパレスチナ地方では、ふだんから水不足、干ばつで悩んでいましたので、これに数年間も雨が降らないということは、その国にとって死活問題でした。王は自分と自分たちの国に対して悪い預言をする預言者を嫌い、自分の意志によって、政策上、彼らをいつでも抹殺することもできたのです。それで、エリヤは預言をした後に、直ちにヨルダン川の東にあるケリト川に、身を隠すことになりました。

2.カラスに養われる

「主の言葉がエリヤに臨んだ。『ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリト川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。』エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んできた。水はその川から飲んだ。しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。」(17:2~7)

この17章は、エリヤが「烏に養われる話」、「貧しいサレプタの寡婦の話」、「その子を生き返らす話」と三つの物語が述べられています。この三つの物語はどれも、共通のテーマを語っているような気がします。それは神の御言葉に、心から信頼して従う信仰が大事だということです。神の御言葉を語る者には、 主は危険な時にも身を隠す場所を備えて下さるということです。そしてそれは、良い時にも悪い時にも、いやむしろ大変な時にこそ、主の御言葉に従うという信仰が試される時ではないでしょうか。

エリヤは王の迫害を避けて、ケリト川のほとりに逃げて来ました。そして神様は、その川の水が枯れるまで、エリヤに烏を遣わしてパンと肉を届けたのです。しかも朝と夕方の二回、数羽の烏が飛んできて彼を養いました。なぜ烏なのか、日本では不吉な鳥として知られています。死人が出ると烏がその家に飛んでくるとか、あまりいい鳥ではありません。ある注解書では、この地方には、黒いテントや黒装束を着た部族が住んでいて、彼らが一日に二回来てエリヤを養ったのではないかと書いてありました。

問題はわたしたちの方で、「烏は縁起が悪い。汚らわしい。」と言って、神の配慮を無視することがないようにしたいものです。イエス様が、のどが渇いた時に、水を飲ませてくれたのが、ユダヤ人から忌み嫌われていたサマリヤの女だったではないでしょうか。(ヨハネ4:7)誰であれ、神様が行けと命じられた所に行って、そこで神様が備えて下さった人から助けを受けることです。エリヤは、神の御言葉にどこまでも忠実でした。そして御言葉に従う時に、必ず主は備えて下さるという信仰をここで養ったのです。食べ物だけではなく、信仰の養いもいただいたのではないでしょうか。

3.まず神のためにパン菓子を造りなさい

しかし、やがてケリト川の水も無くなりました。それほどまでに、神の下した干ばつという罰は甚大な被害を及ぼしていました。でも神の使いである預言者は、必ず守られます。エリヤはサレプタに行きますと、サレプタの町の入り口の所で、貧しい女性が薪拾いをしていました。そこでエリヤは彼女に声をかけて、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませて下さい。」(17:10)と言いました。彼女が水をもってきて飲ませようとしますと、更にエリヤは「パンも一切れ、手に持って来て下さい。」(17:11)と言いました。すると女性は「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を造るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、後は死ぬのを待つばかりです。」(17:12)と答えました。

日本でもよく、一家心中をする時には、最後に一番いいホテルに宿泊して、精いっぱいおいしい食事をとって、後はもう思い起すことが無いようにして心中するということが起こります。そういう家族に、エリヤは出会ったのです。その時、エリヤはこう言いました。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さなパン菓子を造って、持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために造りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の表に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」(17:13~14)と。

どうしてエリヤは、貧しく食べるものもない寡婦に、こんな厳しい注文をしたのでしょうか。自分の息子と最後の食事をして、死んでしまうと考えていた人に、「まず先に私のためにパン菓子を作って持って来なさい。それからあなたがたのためのパンを焼きなさい。」と言ったのです。あまりにも酷な話のように思います。たとえがいいかどうか分かりませんが、母子家庭の母親に、まず教会の牧師を支えるために献金をして、残ったお金で最後の食事をして一家心中をしなさいと言っているようなものです。エリヤの言ったことはそのようなことではないでしょうか。

普通でしたら、「ああ、そうでしたか。失礼しました。息子さんと最後の食事をしようとしているのですね。そんな家庭の人に対して自分のために菓子パンを先に造ってくれと言った失礼をお許しください。どうぞ自分たちのために造ってください。わたしの分はけっこうですから。」と言って詫びるのが本当ではないでしょうか。あるいは「これ少しですけど、なんかのお役に立てて下さい。」と言ってお金を握らせるのが、本当ではないでしょうか。

しかしそうではなく、エリヤは「恐れるな。」と声をかけ、「まず先に私のために菓子パンを造りなさい。」と言ったのです。エリヤのために造ったら、自分たちの最後の食事もなくなるではありませんか。神の預言者とはそんなにも血も涙もない、自分中心の人でなしなのでしょうか。

この時、このお母さんには三つの選択肢がありました。一つは、エリヤを断って、自分達だけで食べて死んでしまうという道です。二つ目は、自分達が食べて、もうこの世に思い起すことがないと考えてから、まだ粉が残っていたらエリヤにも造ってあげるとい方法です。そして三番目の道は、エリヤに造ってあげて、それから自分たちの分も造って食べてから死ぬという道です。皆さんでしたら、どれを選択するでしょうか。

確かにエリヤの言葉は酷なような気もします。エリヤのために造ってあげなくても、自分たちの分だけ造っても最後の食事になります。また、エリヤに造って上げても自分たちの最後の食事になってしまいます。どっちみち心中してしまおうとしているのです。この家族にとっては、目の前には死以外になかったのです。そういう死を目の前にしていても、いや、死を目の前にしているからこそ、いま問われていることは何かということです。

死のうとしている人が、家族のことを大事にするでしょうか。死んでしまえば、元も子もなくなるのに、なぜ自分のこと、家族のことを第一とするのでしょうか。どっちみちだめなのに、どっちみち死んでしまうのに、なぜまだ自分というものにこだわるのでしょうか。このお母さんは、死ぬと言っているのに、まだ自分というものにこだわっているような気がします。自分、自分を第一にするからこそ、そこには死以外の何物もないのです。

つまり、もし本当に死を覚悟していたら、最後に良いことをして死のうとか、神様に喜ばれる方を選んでみようとは思わないでしょうか。結局、死ぬ、死ぬと言っていながら、このお母さんは死んではいないのです。自分という自我が、しっかりと生きていたのです。本当に死んでいる人ならば、最後に神の言葉を信じて、最後だけはそれに従ってみようか、それにかけてみようかと思わないでしょうか。なぜ今死のうとしている人に、食べ物が必要なのでしょうか。死というものを考えているようで、考えていないのです。

つまり人間は、どっちみち皆死ぬのです。じゃあ今何をしますか。自分の目の前に死というものを考えたら、今どうすればよいか自ずと分かってくるのです。
このサレプタの寡婦も、「最後にじゃあ、せっかくの言葉ですから、あなたのためにパン菓子を造りましょう。」と言いました。預言者にかけてみたのです。「どうせ私たちもいずれは死ぬのですから、せっかくですから何か良いことを一つくらいしましょう。」と。「やもめは行ってエリヤの言葉どおりにした。」(17:15)とあります。主の御言葉に従ったのです。すると、どうでしょう。エリヤの預言の言葉のように、壺の粉は尽きることがなく、瓶の油もなくなりませんでした。使っても、使ってもなくならないのです。それ以来、彼女も家族の者も、そしてエリヤも何日も食べ物に事欠くことはありませんでした。

奇跡が起こり、家族が救われました。まさに「壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」と言った預言の通りになりました。御言葉に従う信仰を、エリヤはこの貧しいサレパテの寡婦の中に見つけることができました。しかし、神の目はなおも、このサレパテの女の上に注がれていました。それが次の息子の突然の病死です。

4.主の言葉が真実なことが、今、分かりました

この主の奇蹟によって救われた聖家族に、再び試練が襲いました。それは彼女の愛する一人息子が死んだのです。あんなに大きな神の奇蹟を体験し、神によって救われ養われたにもかかわらず、一人息子の病死という試練が襲ったのです。すると彼女は、狂ったようにエリヤに食ってかかりました。18節から読んでみましょう。「神の人よ。あなたはわたしとどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起させ、息子を死なせるために来られたのですか。」(17:18)

あんな大きな奇跡のよって救われ、神を信じるものとなった聖家族の母が、自分の息子が病死しましたら、預言者に食ってかかったのです。彼女の心の闇が一気に爆発しました。彼女は神を信じていると言いながら、実は彼女の一人息子を愛していました。夫の残した一粒種です。そしてこの子に自分の生涯をかけていたのです。自分の目に入れても痛くない宝物でした。しかし、残酷にも神は、彼女の宝物であり、希望であり、誇りでもある一人息子を、突然奪ってしまったのです。神を信じたのにこんなはずではなかった、本当に神はいるのだろうかと反発したのです。

ヨブ記の中に、ヨブが子供を失った時に発した有名な言葉があります。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:21)という言葉です。彼女にとって、神は与える神でした。困っている時に助けてくれ、必要なものを満たして下さる神だったのです。奪う神ではなかったのです。しかも自分の一番大切のものを奪ったのです。母親としては、怒り心頭神への呪いの言葉が出てきてもおかしくはありません。

つまり、彼女は神を信じてはいましたが、自分の大切なものを奪い取る神は信じていませんでした。ましてや、神を信じて救われた息子が、何で今ここで、死ななければならないのか、その神の不条理に納得がいかなかったのです。いかがでしょうか。この寡婦に関わらず、わたしたちもせっかく信仰に入ったのに、何でこんな不幸や不条理があるのかと言って、神に反発することはないでしょうか。家族の死、仕事の行き詰まり、病気、いろんな不公平な試練が襲ってくることがあります。何で自分だけが、こんな目に会わなければなないのだろうかと、神への不信、御言葉への信頼と反発が起こって来ることはないでしょうか。

彼女の信じていた神は、自分にとって良いことをしてくださる神だったのです。
彼女にとっては、まだ自分の息子という存在が、頼りであり、それに期待していました。ある意味では息子が神だったのではないでしょうか。それを奪い取ってしまった神は納得がゆかなかったのです。そしていつの間にか、彼女は信仰者でありながら、自分の心に息子という偶像を造り上げてしまっていたのではないでしょうか。

エリヤは彼女から息子を取り上げて、自分のいる二階に上がって、神に祈りました。「主よ、わが神よ。この子の命を元に返して下さい。」(17:21)と。
すると息子は息を吹き返しました。それからエリヤは息子を連れて二階から降りて来て、母親に息子を返しました。その時彼女はこう言いました。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」(17:24)と。

こうしてサレプタの寡婦の心と信仰が回復されました。主の御言葉を心から信じることができました。「今やっと分かった」と言いました。このようにして主は、どこまでもまどろむことなく、眠ることなくわたしたちの心の中を見ておられます。心の中の偶像を見逃されません。人々の心は、どこまでも自分の願望、自分の理想、自分の愛の対象である偶像を持っています。神様は一人一人の心の中を探られます。そして時には、厳しい試練を与えるかもしれません。

でもそれはわたしたちの心の中の偶像が完全に打ち砕かれて、真に神を礼拝するようになるためなのです。主の御言葉への全き服従、これこそが神の喜ばれる礼拝なのではないでしょうか。主は、わたしたちの内なる偶像が完全に打ち砕かれ、真に神の前にひれ伏して、「今ようやくわかりました。あなたこそ真の神です。その御言葉は真実です。」と御前にひれ伏すまで、眠ることも手を休めることもありません。いつも目を覚まして私たちを御覧になっておられます。
そして預言者エリヤも「いつまであなたがたどっちつかずに迷っているのか、もし主が神であるならば、主に従え。バアルが神であるならバアルに従え。」
(18:21)とわたしたちの信仰の決断を求めています。  

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