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執り成しの祈り (創世記18:16~33)

メッセージ
2018年7月15日富里キリスト教会
「執り成しの祈り」
(創世記18:16~33)

1.神の選びの目的

「その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろすところまで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うように命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。』」(創世記18:16~19)

そして主は、この御計画をあらかじめアブラハムに告げました。そしてその時に、なぜアブラハムが、神の祝福を受け継ぐ者となったのかも告げ知らされました。それは世界中の人は、アブラハムを通して神の祝福にあずかるということです。そして神がアブラハムを選んだのは、ただ彼を選んだのではなく、アブラハムを通して、その子孫が神の御言葉を守り義しいことを行うことによって、世界中の人々が神の祝福に入るためでした。ですから、神はアブラハムにもこれから自分がしようとしていることを告げなければならなかったのです。

世界が神の祝福に入るために、神はアブラハムを立てて、彼の行動、言葉、生き方を通して、人々に神を示し、彼の生き方を人々が見て、人々も同じ神の祝福に入るためだったのです。いわば、この世界がどうなるかということは、アブラハムの生き方、アブラハムの信仰にかかっていると言っても過言ではなかったのです。ですから、神は、自分たちがこれから行おうとしていることを、友であるアブラハムに示さずにはおれなかったのです。わたしたちの信仰生活を通して、この世界を救おうとされているのです。

ですから神によって召されたということ、神の祝福を受け継ぐためにこの世から召し出されたということは、この世界が神の祝福に入るかどうかということが選ばれた私たちにかかっていると言っていいのではないでしょうか。世界のすべての国民がわたしを通して、神の祝福に入ると言い換えることもできるのではないでしょうか。自分たちだけが救われて、あとの人たちはどうなってもかまわない、自分たちの知ったことではないと言えるのでしょうか。

The Lord said to Abraham that he will become a great and powerful nation and all nations on the earth will be blessed through him. So the salvation of the world is hanging on his behavior and prayer of faith.
The Lord said that all nations on the earth will be blessed through Abraham. The purpose of God’s calling is to made us a prayer of intercession.
So let us read Genesis 18:18-19 again changing Abraham with I.
“ I will surely become a great and powerful nation, and all nations on earth will be blessed through me. For the Lord chosen me, so that I will direct my children and my household after me to keep the way of the Lord by doing what is right and just, so that the Lord bring about for me what the Lord has promised me”. The blessings of all nations is hanging on us. This is the purpose what the Lord has called us.

わたしたちが主の教えを守り、正しいことを行うことによって、神がアブラハムに約束したことが成就するのです。18:18~19の御言葉のところの、「アブラハム」という言葉の代わりに「わたし」を入れてみてはいかがでしょうか。「(わたし)は大きな強い国民になり、世界のすべての国民は(わたし)によって祝福に入る。神が(わたし)を選んだのは、(わたし)が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主が(わたし)に約束したことを成就するためである。」となります。世界のすべての国民の祝福は、この私にかかっていると言っても過言ではないでしょうか。これが神がわたしたちを召された目的です。主の教えに従って、正義を行い、神の祝福の約束をわたしを通して実現させるためなのです。

2.主の前に立つアブラハム

「主は言われた。『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びの通りかどうか見て確かめよう。』その人たちは、さらにソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。」(18:20~22)

アブラハムのごちそうの歓待を受けて、少し休息をした後、この三人の主の使いは、これからソドムとゴモラに向かってゆこうとしました。しかし、その時アブラハムはなお主の御前に居ました。そしてこの悪徳の町のために執り成しの祈りを始めました。ご存知の通り、ソドムには、アブラハムのいとこのロトとその家族が住んでいました。自分の身内が住んでいるから助けたいと思っただけではないと思いますが、彼の頭に浮かんだのは、やはり親族ロトの家族の顔ではなかったでしょうか。

英語ではBut Abraham remained standing before the Lord となっています。直訳しますと、「アブラハムは主の前に立ったままであった。」となります。つまり、彼は主の前に立ちはだかったのです。主はこれから調査に行くと言ったわけですから、まだ完全に滅ぼしてしまうと決定したわけではありませんでした。でも彼は主の前に立ちはだかって、その行く手を塞ぎました。おそらく、彼の脳裏には、ソドムの町の荒れ果てた姿、神を神としない荒廃しきった淫乱と罪の町のイメージが思い浮かんだのかもしれません。人のうわさから、ソドムとゴモラがどんな町であったかが想像できました。このまま主をあの街にやっては、もうあの町は助からないと直感したのでしょう。そして主の前に立ったのです。

この神の前に立ちふさがって、神の行動を阻止できるのは、やはり神が選びたてたものでなければできないでしょう。神様がわたしたちを選んでくださったのは、わたしたちが神と人の間に立つものとして選んでくださったのではないでしょうか。神と人間との間の仲介者としての存在です。人間であると同時に、神に属するものとしてのわたしたちです。神と人間の間を取り持つものとしての存在です。他に誰もこのような立場に立てる者はいません。神に選ばれたからこそ、神の前に堂々と立つことが赦されているのです。

アブラハムのような祈りをした人は旧約聖書に、他にも出てきます。モーセも、イスラエルの民が偶像の金の子牛の像を造って、それを礼拝した時に、神にとりなしました。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば・・・。もし、それがかなわなければ、どうかこの私をあなたが書き記された所の中から消し去ってください。」(出エジプト記32:32)と必死にとりなしました。

また祭司アロンも同じように、民を滅びから救おうとして執り成しの祈りをささげました。「アロンは、モーセの命令通りに行い、集結している人々の中へ走って行った。疫病は既に民の間に広がり始めていた。アロンが香をたき、民のために罪を贖う儀式を行い、死んだ者と生きている者との間に立つと、災害は治まった。この災害による死者の数は14700人であった。」(民数記17:12~14)という記事もあります。祭司アロンは、祈りの香をもって、死者と生者の間に立ちました。そして香をたきながら、罪の贖いの儀式を執り行ったのです。
罪を犯した者たちのために、執り成しの祈りをささげたのです。

アロンは祭司として、死者と生者の間に立ちました。わたしたちも今、こうして死者と生者の間に立っています。滅び行く人々と救いにあずかる人々の間に立って執り成しの祈りをささげているのです。人々が神の裁きにあって、滅び去って行くかどうか、救われるのかどうかそれを左右するのが、この執り成しの祈りなのです。わたしたちは神と人間の間に立つ、執り成しの祈り手なのです。アブラハムは、主の行く手の前に立ちはだかりました。その裁きの行く手を塞いだのです。そして必死に祈りました。

When the Lord told the fact to Abraham that they are going to destroy the city of Sodom and Gomorrah. Abraham remained standing before the Lord. To stand before the Lord is to pray. Nobody can stand before the Lord except us. Who will be able to save the people and city under the punishment of the Lord. Nobody can save the corrupt city like Tokyo without us. The salvation of the world and Japanese is hanging on our prayer of intercession. We are the warrior of the prayer standing before the Lord.

主の前に立つということは祈ることです。そしてそれができるのはわたしたち以外にありません。わたしたちも同じようにして、滅びの罰を下そうとしている神の前に立つことが求められているのです。一体他の誰が、神の裁きの手から堕落したこの町を救いうることができるでしょうか。堕落した東京、堕落した日本人を救うことのできるのは、わたしたち以外にないのです。神の行く手に立ちはだかる祈りの戦士なのです。

3.執り成しの祈り

アブラハムはこう言いました。「『まことにあなたは、正しいものと悪いものを一緒に滅ぼされるのですか。あの街に正しい人が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者と悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』主は言われた。『もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。』」(創世記18:23~26)

あのソドムの町に50人の正しい人がいたら、その人も一緒に滅ぼされるのですか。もしそうならば、神様の正義がなくなるのではないでしょうかと尋ねました。神は正しい者も悪い者も一緒に滅ぼすようなことはなさらない、ちゃんと区別してそれにあった処罰をされるに違いないと訴えました。神様は正しい方ですから、そういう不正はなさらないというのです。

すると神様は、その50人の義人のために町全体を赦すと答えました。その後、アブラハムは、もしかしたら50人は無理かもしれない、45人くらいは正しい人がいるのではないだろうかと、条件を下げ始めます。こうして50人から45人、45人から40人、40人から30人、30人から20人、そしてとうとう最後には20人から10人まで下げてお願いしたのです。せめて10人くらい入るだろう、ここまで条件を緩めたら、ソドムの町も何とか助かるのではないだろうかと思いました。そして最後10人で手を打って、祈りを終えて、アブラハムは天幕へ帰って行きました。

せめてあのロトの家族のロト夫婦と二人の娘、そしてその婚約者たち6人は正しい人はいるだろう。他にも数人はいるだろう、全部で10人位はいくらなんでもあの町にだっているかもしれないと思いました。10人の線を提示して、安心して帰って行きました。しかし残念ながら、この後滅びの町ソドムから助け出されたのは、ロト夫婦と二人の娘だけでした。19章に出てきますが、4人しかいませんでした。10人もいなかったのです。

もしアブラハムが、神の前に立って執り成しの祈りをささげなかったならば、ロトの家族も全員、この町と一緒に滅んでいたことでしょう。アブラハムのこの神と取引するような祈りによって、かろうじて甥の家族4人だけが救われたのです。残念ながらソドムの他の住民は、突然天から降ってきた火によって一瞬のうちに滅んでしまいました。しかし、4人は助かりました。わたしはたとえ町全体、全住民は救われないとしても、自分の家族だけは救われるという希望が与えられたのではないでしょうか。ロトの家族の救いの蔭には、このアブラハムの熱心な執り成しの祈りがあったのです。

When the Lord is to destroy the city of Sodom and Gomorrah, Abraham asked the Lord “will you sweep away the righteous with the wicked? What if there are fifty righteous people in the city? Will you really sweep it away and not spare the place for the sake of the fifty righteous people in it?”. The Lord said to Abraham “ If I find fifty righteous people in the city of Sodom, I will spare the whole place for their sake”. But there were not fifty righteous people in it, but Abraham ask the Lord many times up to ten righteous people at last. Nevertheless God accepted the requests of Abraham up to ten righteous people.
Here we should learn the prayer of Abraham. He asked and prayed to the Lord to the limit. He showed us how to pray to God unceasingly and eagerly. According to the intercession prayer of Abraham, the family of Lot was saved from the punishment of the Lord. God surely hear our serious prayer of intercession. Let us pray for our family and friends and neighborhood.

わたしたちがこうして神様に召されたのは、わたしたちの執り成しの祈りによってこの世界が救われるためではなかったでしょうか。全世界はアブラハムを通して祝福に入るとあります。このアブラハムの信仰によって、わたしたちも同じ神の祝福の中に入れられている者です。アブラハムの霊的な子孫であるわたしたちや、すべての信仰者を通して、全世界が神の祝福に入るのです。アブラハムはその祝福の起源になりました。わたしたちはアブラハムの子孫です。そして同じ使命を与えられている者です。それは執り成しの祈りという使命です。

アブラハムが必死になって、神の裁きの道を押しとどめ、交渉をし、思いとどまらせ、祈ったように、この世界の救いはわたしたちの執り成しの祈りにかかっているような気がします。主イエスもあの十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と執り成しておられます。パウロも、「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられるものとなってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:3)と言い切っています。

わたしたちもあのアブラハムのように、神に向き合って、熱心に、取引をするくらいの気持ちで、必死に執り成しの祈りをささげたいものです。家族の救いのため友の救いのため、わたしたちは死者と生者の間に立っている者です。そして今死なんとしている人のために、執り成しの香をたく者へと召されている者です。祭司の働きです。ソドムとゴモラの救いが、アブラハムと同じように、わたしたちの執り成しの祈りにもかかっています。この町の救いのため、北総の地の救いのため、東京の救いのために、日本の救いのために祈りましょう。滅びる者と救われる者との間に立って、神に執り成す祈りの戦士なのです。アブラハムのように、あきらめずに執拗に、必死になって祈りましょう。

わたしたちは、そのために救われたのです。それと同時に、わたしたちが救われた背後には、誰かほかの人の執り成しの祈りがあったのではないでしょうか。誰かが、どこかでわたしたちのために祈っていてくださるのです。このように誰かに祈られている者として、わたしたちも祈るものとなりましょう。最後にパウロの言葉をもって閉じさせていただきます。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のために捧げなさい。」「だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。」(Ⅰテモテ2:1,8)願い(requests)、祈り(prayer)、執り成し(intercession)、感謝(thanksgiving)です。執り成しの祈りの大切さをパウロは訴えています。このような多くの人々の祈りに支えられていることを感謝しながら、わたしたちも執り成しの祈りをする者となってゆきたいと願っています。

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