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地の塩、世の光

メッセージ

2009年8月16日富里教会
         「地の塩、世の光
           (マタイ5:13〜16)
1. はじめに
主の御名を讃美します。
先週、たまたまTVで「ビルマの竪琴」という映画をやっておりました。ビルマ戦線で戦った一人の日本兵が、ビルマの戦地に累々と横たわる日本兵の屍を見て、自分は生き残って日本に帰るわけには行かないと思いました。そして、一僧侶となって現地に残り、戦友同胞の供養をすることを決心します。「一緒に帰ろう」と叫ぶ戦友と、竪琴をひいて、別れを惜む僧侶の姿が印象的でした。その映画の中で、一番印象に残っているのが、ある墓地の中で、お墓を囲んで、カトリックのシスター達が賛美歌を歌っているシーンでした。人間の愚かさ、空しさが戦争を通して浮き彫りになればなるほど、この澄んだ讃美の声が、まるで天使のように厳かに聞こえてくるのです。神なんかいない、生きるか殺すかの戦場であればあるほど、宗教的のもの、神様への畏敬の思いが浮かび上がって来るような気がしました。
そして、あの讃美の声は今も続いているのではないでしょうか。ビルマで硫黄島で、沖縄で広島で、あの時歌われた讃美歌が、今日の時代にも響いて来ているような気がしてなりません。ですから、私たちの讃美の声も、あのビルマの墓の前で歌ったと同じような気持ちで、今日も歌われたのではないでしょうか。イエス様は私たちに対して、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」とおっしゃいました。本当に、この罪と戦争の世界の只中で、造り主なる神様を覚え、讃美歌を歌うことのできる幸いを感謝します。

2.地の塩
もう一度、読んでみましょう。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(5:13)
今朝は、この塩の「汚れを清める働き」と、「味付けをする」という二つの働きについて話してみたいと思います。
? 清める働き
まず最初に清める働きですが、イエス様が、「あなたがたは地の塩である」といったから、早速、自分は地の塩として、世の中の汚れや悪を清めなければならないと、考える必要はありません。マルコによる福音書の9:49〜50に、同じような箇所があります。「人は皆、火で塩味をつけられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなた方は何によって塩に味をつけるのか。自分自身のうちに塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」自分自身のうちに塩を持ちなさい、と言っています。

例えば、ステーキを焼く場合、まず肉を柔らかにして、それから塩と胡椒で味付けをします。塩は味付けにも用いますが、まず、その肉が腐らないようにする働きもします。そして、自分自身はすぐに腐ってしまう弱いものだということを忘れないことです。イエス・キリストの罪を清めるあの十字架の塩がなければ、私達はすぐに腐ってしまいかねません。ですから、常に自分の罪の腐敗を告白することが大事です。そして私たちが罪を告白し、主を証しする時にお互いの殻が砕かれ、角が取れて、あるがままの自分を出してゆけるのではないでしょうか。
よく白菜をつけるときに、いったん塩ずけにします。すると今までたるの中に入らなかった白菜が、塩を振ることによって、水分が抜け、すっかり柔らかくなって重なりあい、全部たるの中につけることができます。これも塩の働きです。塩は私たちの体裁とかプライドというよろいを、取り外してくれます。肩肘を張らなくても、あるがままの自分でいられる世界です。これが私たちの交わりです。
? 味付け
もう一つ塩の働きで大切なことは、味をつけることです。先ほども言いましたように、ステーキに塩は欠かせません。少量の塩で、おいしいステーキの味を引き出すことができます。これも塩の働きです。この塩味を効かせて、相手のいい所を引き出す方がおられますね。そういう方は、まずじっくりと相手の話を聞きます。相手の立場に立って、話を十分に理解して聞きます。もうそれで、訴える人は心が癒されます。そして、相手が一番聞いて欲しい質問を的確にしてあげます。決して話を遮ったり、意見を言ったり、注意したりせず、十分に受け止めた後で、相手の口から積極的な言葉、前向きな言葉、反省の言葉を引き出し、希望を与えてくれます。これが塩で味付けられた人の言葉です。自分の内にまず、塩をしっかりと持って、相手に振り回されず、しっかりと相手を理解し、相手の持ち味を引き出してあげます。

コロサイ書に「いつも、塩で味付けられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう」(コロサイ4:6)とあります。ですからまず、やさしい言葉づかい、ていねいな言葉づかいをすることです。そうすれば、言い方が自然と備わってきます。やさしい言葉づかいによって、教会の中では、我が我がではなく、相手の話をじっくりと聞き、相手を理解し、相手を立て、相手をほめ、相手が喜ぶことができるようになります。これが塩で味付けられた、へりくだりと謙遜の教会の姿です。

もし私たちがこの塩味を失ったら、何にもならない、役に立たないものとして、捨てられてしまうとイエス様はおっしゃいました。それは自分が、自分がという思いが前面に出てくる教会です。自分が大きくなるとどうなりますか。そうです。「臭い」という字がそうですね。自分が大きくなると、塩気がなくなって、腐敗が始まっている証拠です。そのためにも私達はいつも、私たちの腐敗を清めて下さるイエス・キリストの十字架を感謝したいものです。

2. 世の光
次にイエス様はこうおっしゃいました。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(5:14〜16)
地の塩が私たちの罪、汚れを清めるイエス・キリストの十字架ならば、「世の光」は、私たちが、聖霊の力によってキリストの光を全世界に輝かす、あかしと伝道する教会のことです。
? ともし火は燭台の上に
新生讃美歌33番に「愛の光り輝き、暗闇を照らし出す、我が主イエス世の光、自由を与える力、命の御言葉、輝け主の栄光地の上に、心を燃やしたまえ」という歌があります。私たちが「世の光」である前に、実はイエス様ご自身が「世の光」だということです。私達はこのイエス様の光を反映して初めて輝くことができるのです。いわば、イエス様が太陽ならば、私達は月のようなものです。イエス様の光を受け、それを反射して輝くものなのです。この主の光を反映すること、これが主を告白すると言うことです。ですから私達は、いつも主に顔を向け、主を礼拝することです。この時、はじめて光り輝くのです。

また、灯りを升の下に置くことはできないとあります。升といいますのは、量を計るものですが、これは実は自分の尺度、自分自身の価値判断と言うことです。つまり、キリストの光を照らしているようではあるが、この光の上に自分の尺度がのっているわけです。ですから、信仰の名を借りた自己宣伝と言いますか、自分の考えを押し付けているということです。よく、クリスチャンでも信仰、信仰といいながら、自分の考え方を押し付けて、相手を支配し、コントロールしようとする方がいます。自分の光を輝かせ、自分を自慢したい、誇りたいという方です。これがともし火の上に自分の升を置くということです。ともし火は、ちゃんと燭台の上において、部屋の中を照らさなければなりません。

たとえ、違反しても失敗しても、いつでもどこでも「私は牧師です。」「私はクリスチャンです。」と自分を明らかにしたいものです。自分に何か良いものを着せて、よく見せる必要もありません。罪人の自分、不十分な自分、過ちと失敗を犯してしまう自分、そういう弱い自分を、そのまま告白する時に、そこに神様の不思議な力が働くのではないでしょうか。交通違反が許されるということは、めったにないと思いますが、そういう弱い私たちを神様は用いられるのです。欠点だらけの者でも「あなたは世の光だ」、とおっしゃってくださっているのです。
? 聖霊のともし火
最後に、このともし火は聖霊によるものだということです。私は、イエス様が世の光と言った時に、おそらくこのようなランプをイメージしていたのではないかと思います。(これは実際にイスラエルで買ったものです。)このランプのともし火が灯るためには、このランプの中にオリーブ油が入らなければなりません。そして芯を通して、ともします。光の源はこのオリーブ油なのです。油は聖霊を意味しています。私達は、輝き続けるためには常に聖霊の満たしが必要です。聖霊の油が切れると、ともし火をともすことはできません。

ある方が、私に「先生、私が聖霊に満たされるために祈っていただけませんか?」とおっしゃいました。私は喜んで、その方のために祈りました。聖霊に満たされて、信仰の確信が与えられ、大胆にキリストの光を輝かすことができますようにと。これは、誰でも希望者に祈って差し上げます。ただし、本人が心からの悔い改めの気持ちを持って、聖霊に満たされることを願わなければなりません。聖霊の満たしがなければ、その人のともし火は自分の知識や努力や意志による光です。まず自分の心の壺に、聖霊の油注ぎを求めることです。それは、祈りと御言葉を通して与えられます。

私達は、もうすでにイエス様の十字架の血潮によって罪赦され、聖霊様によって、毎日、毎日、油注がれています。欠けも弱さも持ったものですが、そういう私たちを、主は「地の塩、世の光だ」とおっしゃって下さいました。戦争の時も平和な時も、常に喜びと感謝をもって主を礼拝し、心からの讃美を捧げて行こうではありませんか。そういう私たちの行いを見て、世の人々が、共に主を崇めるような歩みをして行きたいと願っています。            (岡田 久)

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