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喜ぶ人と喜び泣く人と共に泣きなさい (ローマ12:9~21)

メッセージ

2014年8月6日(日)富里キリスト教会

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」
(ローマの信徒への手紙 12:9~21)

1.愛

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を優れたものと思いなさい。」(12:9~10)

パウロは第一に、「愛に偽りがあってはなりません。」と言っています。ということは、教会の中にクリスチャン同士であっても、愛の行為のように見えていて、実際は偽りの愛の行為をしているのではないだろうかということをパウロは指摘しているのです。つまり作り物の愛、見せかけの愛、うわべだけの愛、そういう愛の履き違いをしているのではないのですかと勧告しています。

「愛が必要、愛が大事だ」と言いながら、形だけの愛の生活をあなたがたは送っていませんかと、問いただしているのです。そしてその場合の愛のまず第一番目の在り方は、「悪を憎み、善から離れない」ということです。つまり愛の基準は、善悪をはっきりと区別して、悪は憎み退け、善はこれを求めてそこから離れないということです。善悪の判断をすること、そして善を選び取ることです。

また、わたしたちは人に何かをしてあげることが愛の行為、愛の実践だと思いがちです。そうではなく、愛の証しは、相手を尊敬して相手を自分よりも優れたものとしてつきあうことです。どんな人に対してもです。こんな人と思えるような人に対しても、尊敬して自分よりも優れているものとするのです。相手を見くだしているか、尊敬しているかは、たいてい態度や言葉で解ります。

わたしはこの9節~21節までのクリスチャンの生き方と生活態度を読んでみました。そうしましたら、とてもじゃないかけど自分にはできないと思うことばかりでした。なかなか悪から離れることができない自分、相手を見れば自分の方が優れていると比較競争してしまう自分、この戒めとは程遠い自分の現実の姿に気づかされました。口では愛を解きながら、そのとおりにしていない自分の現実の姿を見る時、「自分の愛は偽りの愛、うわべだけの愛ではないか。」と言う思いさえ出て来たのです。

わたしは愛に欠けたものではありますが、イエス・キリストの愛は、このような私に対しても向けられているということです。イエス様の愛は、真実です。偽りのない愛です。御自身の体を死に渡すほど与え、差し出して下さった真実の愛です。ご自分の体をもって、その上に傷を負い、痛みを負い、病を負い、命を与えるほどに私たちを愛して下さいました。この愛を受けている者、この愛を与えられている者、この愛によって生かされている者として、わたしたちも真実の愛をもって、相手に向かって行きたいと思う者であります。

2.希望

次に希望について見てみたいと思います。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(12:12)ここでは、12節~14節まで祈りについて書いてあります。フランクルはこう言います。「希望の喪失は生きる力の喪失でもある。心の支えがあれば、どんなつらい状況の中でも耐え抜くことができる。」と。大事なことは、願いが叶うことも大事ですが、この希望をいつも持ち続けることではないでしょうか。

ですから、わたしたちの祈りにもこの希望が必要なのです。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」わたしたちには確かな希望があります。この世ではかなわないかもしれませんが、天国への希望、永遠の命の約束の希望があります。ですからどんな苦難も耐え忍ぶことができるのではないでしょうか。たとえ、その願いが生きている時にかなわなくても、真実な神様は、必ずその祈りに答えてくださるからです。

とはいえ、ときには祈りを忘れたり、祈れなかったり、あまりの苦しさで祈る言葉も出てこない時があります。「希望をもって喜んで祈る」ということよりは「失望して悲しみに押しつぶされて祈る気力もない」と言う時の方が多いかもしれません。また、自分を迫害するもののためには祈れない時もあります。自分を迫害し攻撃を仕掛けてくる相手には、祝福ではなく、呪いの祈りをしてみたくなるような時もあるでしょう。

でもパウロは希望をもって、喜びをもって、あらゆる苦難、迫害、攻撃、嫌がらせ、意地悪にも負けることなく、その相手のために祈ってあげなさい。しかも、祝福の祈りをと言っています。これも、偽りのない真実の愛の源であるイエス様から来ているのではないでしょうか。主は、ご自分を裏切ったユダのためにも祈られました。ご自分に手や足にくぎを打ち込み、わき腹に槍を突き刺した者のためにも祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないからです。」と。愛することと、希望をもって祈ることは同じことです。

また「たゆまずに祈りなさい」と言っています。希望のない祈りかも知れません。喜びのない祈りかも知れません。敵を赦せず呪いを口にしてしまうような祈りかも知れません。それでも、決まった時間に、御言葉を読みながらひたすら祈ろうではありませんか。祈りの中で、主は弱い私たちの祈りを祝福の祈りに、また希望と感謝と喜びの祈りに変えて下さることを信じます。

3.喜び

次の喜ぶことについて見てみたいと思います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢いものとうぬぼれてはなりません。」(12:16)

牧師と言う仕事柄、困った人には手を貸すという気持ちはあります。でも逆に、喜んでいる人の場合には、少し引いて冷静な態度をとったり、時には水をかけるような言葉を吐いてしまう時があります。でも大事なことは、喜んでいる人に対して一緒にその喜びを喜ぶということが大事なのです。16節の「互いに思いを一つにする」ということです。共感する力です。この共感する力が、どんなにか喜ぶ人の喜びを何倍にも増し加え、悲しむ人の悲しみを何倍も少なくするということです。何も助け手を出さなくてもいいのです。「気持ちを一つにする」ということです。これが悲しんでいる人の心をいやす力になるのではないでしょうか。

自尊心の高い人、プライドの高い人はこの共感力が欠けています。ですから、自分を高きにおいて自分こそは頭がいいと思って、そうでない人を軽蔑しさげすみ、交わることを避けるのです。でもイエス様の愛はどうでしたか。ご自分が神の子であるにもかかわらず、へりくだり、身を低くしてわたしたちのところに来て下さいました。ここにキリストの愛があります。ですから、わたしたちももっともっと身を低くして、身分の低い人のところに向かいなさいとパウロは勧めております。

4.善

最後に善について見てみましょう。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる。』と書いてあります。『あなたの敵が飢えたら食べさせ、渇いたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(12:17~21)

ここには善についての勧めが述べられております。特に「自分で復讐せずに、神の怒りに任せなさい。」と言っています。むしろ敵に対しては、食物に困っていたなら食べさせてやり、のどが渇いていたなら水を飲ませなさいと言っています。自分に悪を働く者、敵対する者、自分を憎む者、自分に意地悪をして陥れようとする者に対して、彼らの善を図ってやりなさいと言っています。

これもなかなか口で言うは優しく、行うは難しです。クリスチャンも人間です。牧師も人間です。どうしても、敵対するものに対しては自分の怒りに任せ、自分で復讐し、報復してしまいます。敵が飢えても、知らん顔をします。敵ならば喉がかわいていても、無視します。悪には悪をもって報い、悪に報復しようとします。しかしそれは、実際は悪に負けてしまっているというのです。

悪に対しては、善を持って応えなさい。そうすればその人の頭の上に炭火を積んでいることになるからと言うのです。やがて、その積んだ炭火が多くなればなるほど、いつか崩れ落ちてその人を滅ぼしてしまいます。報復するのは自分ではなく神様の領域だと言うのです。自分で報復しないで、神の怒りに任せなさいと言っています。そして、自分の怒りや報復を抑えて、相手のために善を図ってあげることです。これが善を選ぶことであり、真実の愛、偽りのない愛だとパウロは述べています。

17節に「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で、善を行うように心がけなさい。」と言っています。「必ず善を行いなさい」とは言わずに、「善を行うように心がけなさい。」とおっしゃって下さったパウロ先生の優しい言葉にホッとして励まされた次第です。この通りにはできないかもしれませんが、真実の愛の源であるイエス様を覚えつつ、少しでもそれに近づくように心がけて行きたいと思います。              

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