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善と悪のジレンマ (ローマ7:7~25)

メッセージ
2021/9/5
富里キリスト教会礼拝説教
「善と悪のジレンマ」
(ローマ書7:7〜25)

①律法の役割―罪の自覚
前回のメッセージでは私たちはもはや律法に生きるものから霊に生きる者へと変えられたのだ。そういったことを語りました。律法を守らなければ神の怒りが降る、そういう恐れ、強迫観念に囚われた自分はすでに死に、キリストの新しい命へと私たちは霊的に生まれ変わり、律法から解放されたのです。守らなければ呪われる、そういった呪縛から解かれ自由な者とされたのです。
しかし、ここで一つの疑問が出てきます。それが冒頭の「ではどういういうことになるのか。律法は罪であろうか。」ということです。律法が私たちを縛って呪っていたのなら、神が私たちに与えた律法とは悪いものだったのか。そういった意見が当時もたくさんでたようですが、パウロはここで力強く「決してそうではない。」と断じています。そもそもこの問いに対して最初からパウロは明確な答えをもっていました。これは福音を勘違いして律法を否定する人たちに対して強く主張するための言い回しだったのでしょう。それほど律法を否定するということは危険なことだったのです。
教会が生まれた初期の時代、あらゆる異端が主張したことの一つにこういった律法、旧約聖書の否定というものがありました。新約だけ重んじて旧約は読まない。こうなると本当にとんでもないことになってしまうのです。あくまで聖書は新旧約揃って初めて完成された神の救いの啓示なのです。旧約聖書という土台の上に新約聖書があるのです。ですから旧約聖書のメインである律法というものは決して間違ったものではないのです。
何度もいいますが律法とは善いものであり、聖なる神のことばです。それは12節でパウロも明言しています。みことばとは私たちのともしびであり、本来私たちを守り、幸せにするために神さまが与えてくださったものです。
律法に全く問題はありません。むしろ素晴らしいものです。しかし、人間の方に問題があるのです。この聖なる律法を前に人は罪があるゆえにこの戒めを守ることができないからです。それゆえに人は呪われた者となってしまいました。じゃあ、やっぱり律法ってよくないじゃん。そう思うかもしれません。しかし、そこにこそパウロは律法の本来の役割があると語っていきます。それはその律法を守れないという現実を見て初めて、自分が罪人であるということに気づくということ。その罪の自覚を与えることこそが律法の役割なのだとパウロは言うのです。
律法を守れない現実を知った時こそ人は初めて自分が罪人であることに気付くのです。律法が悪いんじゃない、律法を守れない私、さらにいえば私の中にある罪が悪いんだ。このように自分の中にある罪に気づかせる律法としてパウロは「むさぼるな」というものを例えとしてチョイスしました。これは十戒の中にある最後の戒め、隣人のもっている物を一切欲しがってはならないという戒めのことを指しています。この戒めをパウロがチョイスしたことには大きな意味があると思います。
それは、この貪るなという戒め、これだけが唯一私たちの心に関わってくることだからです。貪りとは人のものを欲しがるという欲望です。満足しないということです。普通、盗むならまだしも欲しがるぐらいなら、人はそこまで罪とは思わないかもしれません。しかし、聖書はここに罪の根本があるといいます。この貪りという欲望は、偶像礼拝と同じとまで言われているのです。それはこの貪りの根本には自分が好きなように生きたいという自己中心があるからです。
この貪りという言葉は聖書の始まりのところから出てきます。実はエデンの園の中央にある木から食べてはならないという神と人間との約束を蛇が悪用して誘惑した時に、

「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。」

と書かれていますが、この「唆していた」という言葉はまさに第十戒で禁じている貪る、欲するという言葉と同じ言葉なのです。アダムとエバはすでにエデンの園で必要なものは全て神さまから与えられていました。それでも、彼らは満足しないのです。もっともっと欲しい。神と同等の賢さが欲しい。その欲望がその果実をどこまでも魅力的にみせたのです。
そしてその欲望はどんどん大きくなり、隣人にも目を向け、人を妬み、羨むように私たちを唆していくのです。しかし、この律法を知らなければ私たちは自分が罪に囚われていることにも気づきません。人のもの欲しがるぐらい普通でしょ。律法を知らなければそのように思う方も多いのではないでしょうか。
しかし、この貪りは人間の根源的欲求であり、罪の根本なのです。羨むぐらいいいだろ、と無視することもできます。しかし、そのような生き方をしていると本当にキリがないのです。いつまでたっても満足しないのです。それは本当に苦しいことです。神様はこの苦しむ人間のみえない心の課題の解決を望まれているのです。

②二人の自分
そして神様はその見えない心の課題の解決、つまり罪の解決を主イエス・キリストの十字架の贖いをもってなしてくださったのです。私たちはこの罪の解決がキリストの十字架によって、すでになされたのだと信じています。この御子なる主イエス・キリストが罪に囚われていた私を解放してくださった。私自身を幸せに導くために本来あった神の律法を全然守れない、この罪深い私のためにイエス・キリストは十字架にかかられた。この言葉に言い尽くせない十字架の愛を受け取り、このお方こそが私の主であると信じて仰いだ時、私たちは古い自分に死に、キリストの命によって新しく生まれ、聖霊が心のうちに住む霊的な存在となるのです。イエスさまご自身もヨハネ福音書3:5−6でこのように言われました。

「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。』」

肉とは古い自分、つまり欲望によって罪に生きる自分です。体のお肉ではありません。霊とはキリストの命によって神の愛に生きる新しい自分のことを表します。かつての自分は肉しかなかったので罪の誘惑に対して歯が立ちませんでした。しかし、今や私たちは聖霊の力によって少しずつ罪から離れ、欲望を愛するのではなく神を愛するようになっていっているのです。
しかし、じゃあクリスチャンは罪を犯さないのか。残念ながらそうではありません。まだ古い自分が完全には死に切らずに油断するとむくむくっと起き上がってくるのです。そこにクリスチャンとしての戦い、葛藤があります。救われてなおいまだに罪に囚われている自分がいることに気づかされることが、私自身本当に多くあります。
しかし、裏を返せばかつては罪とすら気づいていませんでした。今は、何が罪なのかを知り、その課題の重さを知り、私たちは懸命にそこから離れようとします。クリスチャンとは決して罪を犯さないような完全な人ではありませんが、罪に対してとっても敏感な者ではあるのです。そしてさらには、今までは全くその肉の欲望と戦いようがありませんでした。しかし、今、私たちには聖霊が与えられています。むしろクリスチャンになったからこそ霊と肉との戦いがあるのだといえます。
その戦いには二人の自分の姿があります。よく漫画などで誘惑に迫られたとき天使の自分と悪魔の自分が現れて葛藤するといったシーンをみますがそういったイメージがわかりやすいかもしれません。罪がまだ残り、自己中心に生きたい欲望を愛する自分、そして十字架をもって愛してくれたイエスさまを愛したい喜ばせたい、その愛情表現として律法を守りたいといった神を愛する自分、この二人の自分が私の心の中で戦っているのです。そして時には勝ち、時には負けてしまうのです。
イエスさまは「全てを尽くして神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい。」ここに律法の全てが詰まっていると言われました。イエスさまは十字架の上でまさにこの律法を完全に成就されました。私もこの十字架のイエスのように全てをささげて、神を愛し人を愛して生きていきたい。クリスチャンはみな、そう願います。しかしそうしようとすればするほどできない自分に突き当たることが何度もあります。

ローマ7:15
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」

このパウロの言葉を私は自分の人生の中で何度呟いたことでしょうか。

③それでも勝利者
愛したいのに愛せない。この現実の自分の姿に絶望したくなります。親子、夫婦、そのような家族間など近しい存在ですら、いや近しい存在だからこそか、愛そうとすればするほど自分の愛がいかにちっぽけなものなのかということを痛感します。そんな自分をみたとき私たちは本当に惨めな者だと感じるかもしれません。このような惨めな者を一体誰が救ってくれるのだろうかと、パウロは問い、私たちも問うことでしょう。
しかし、他方で私たちはパウロと同様にその問いに対する答えも知っているのです。イエス・キリストこそがこの惨めな者を救ってくれたのだと。そして私たちはパウロとともに、未だ罪に囚われた自分に嘆きの声をあげつつも、その私をすでに救い出し、罪を赦してくださった主イエスに感謝の賛美の声もあげるのです。私たちは罪に呻きつつも、勝利の勝どきを上げて走る者なのです。
主イエスの十字架によって罪赦されてなお、いまだに罪に囚われている惨めな私。しかし、そんな惨めな私を重々承知で、神はただ一方的に憐れみ、愛して救い出してくださりました。自分の罪に嘆く私やあなたに対して涙を拭い、「だから、わたしはあなたの元にきて十字架にかかったのだよ。律法を守れない自分に絶望するのでなく、全ての責任を受け取って十字架にかかったこの私に信頼しなさい。すでにわたしは世に勝った。その私を信じるあなたも、どれだけ欠けがあろうとも勝利者なのだよ。」そのようにイエスさまは言われているのではないでしょうか。
まことの勝利者とは戦いに勝った者というよりも、どれだけつまづいてもすでにゴールは約束されているのだと信じて、あきらめずに走り続ける者のことを言うのではないでしょうか。ゴスペルシンガーでありながら牧師でもある小坂忠先生の曲に「勝利者」というものがあります。この曲は実は厳密に言えば勝者ではなく敗者のために作られた歌です。
ロサンゼルスオリンピックの女子マラソンでスイスのアンデルセンという選手がいました。しかし、彼女は走る中で脱水症状を起こし、ふらふらになってしまい、まともに走れなくなりました。スタートから2時間40分以上経ち、メダルも入賞も全く関係なくなりました。しかし彼女は決して棄権をせずに、フラフラでありながらも、順位も関係なくなろうとも完走することをあきらめずに走りぬいたのです。この彼女の姿に会場の観客は感動し、一位がゴールした時よりも大きな歓声と拍手があったそうです。まるでアンデルセンこそが勝利者であるように小坂忠先生には見えたそうです。勝つためだけに走るんじゃない。傷つき、つまづきながらも諦めずに、前に向かい続ける。これこそが人生の勝利者の姿なのだと。この出来事から大いに励まされて作られた曲が「勝利者」なのです。
私たちの思い描く勝利者の姿もこのアンデルセンの姿に重なるのではないでしょうか。どれだけつまづいても、そのたびにイエスさまを見上げ、すでに赦されているのだ、天のゴールは約束されているのだと信じ、走り続ける。そしてその先にあるゴールテープを切った時イエスさまは手を広げ、抱きしめ、きっと勝利者として拍手してくださることでしょう。勝利者である私たちは罪に傷つき、悩みながら、それでも私たち主イエスキリストの十字架を見上げながら、前を向いて走り続けようではありませんか。

武井誠司

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