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命の言 (ヨハネ1:1~18)

メッセージ
2019年12月29日富里キリスト教会
「命の言」
(ヨハネによる福音書1:1~18)
1.御言葉による救い

先日来、三人の兄弟姉妹を現在会員に新しく迎えることが出来ましたことを感謝します。建物やお金だけではなく、もっと素晴らしい霊的な祝福をクリスマスプレゼントとしていただきました。それは悔い改めた魂を三人いただいたということです。イエス様がこう言いました。「よく聞きなさい。罪人が一人でも悔い改めるなら、悔い改めを必要としない99人の正しい人のためにも勝る大きい喜びが天にあるだろう。」(ルカ15:7)と。この三人の兄弟姉妹の入会によって、教会は大きな喜びがありました。しかしそれ以上に、天ではもっと大きな喜びが湧き起っているのではないでしょうか。一人でも悔い改めると大きな喜びがあると言いましたから、三人ですからさらに三倍の喜びが天では湧き起ったのではないでしょうか。

その悔い改めに際して、わたしが驚いたことは、やはり、聖書の御言葉に従って、その通りに行動すること、御言葉通りに行うならば、そこに大きな祝福と喜びが起こるということです。「すべてわたしの愛しているものを、わたしは叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」(黙示録3:19)と聖書はすすめています。だから熱心に悔い改めることです。クリスチャンは、罪赦された罪人であり、絶えず悔い改める人のことをいいます。罪を犯したことがない、罪を持っていないというクリスチャンはいません。そういう人は自分に嘘をついています。まだ信仰がよく解っていない人です。(Ⅰヨハネ1:8~10)

同じように「わたしたちに負債のある者を赦しましたように、わたしたちの負債をもお許しください。」(マタイ6:12)と祈りなさいと、主イエスは言いました。そして、その御言葉のとおりに祈った人は、人を赦さなかった罪の苦しみと束縛から解放され、自分の罪をも赦していただきました。これらはすべて、言葉の出来事です。口で告白して口で祈ることによって、その人が心の重荷から解放され自由にされ、新しく希望に満ちた人生を歩みだすことが出来るのです。不思議なことです。ただ祈っただけなのに、ただ聖書の言葉のとおりに祈っただけなのに、心も軽やかになり、苦しみから解放され、新しい実を次々とつけてゆくのです。

不思議なことですが、これがイエス・キリストを信じる者の現実ではないでしょうか。何か、病気が治ったとか、結果がよかったということではなく、口に出して言葉にして祈ることです。そしてイエスの名によって赦すことを選択することです。その祈りの言葉によって癒され、解放されるのです。イエスの名によって祈る時、そこに生きた神の赦しの力が働いて、平安や喜びが湧いてくるのです。

どうしてそのように口にしたときに、本当に自由にされ解放されるのかといいますと、神様は言だからです。初めに言(=キリスト)があった。この言(=キリスト)の内に命があったとありますように、神は言葉を通して、わたしたちの罪を明らかにし、言葉を通してその罪を赦し清めて下さるのです。単なる会話の言葉ではありません。まさに命の言葉、生きた愛の言葉なのです。その信仰の言葉が与えられているのです。この言葉の中に命があり、光があり、赦しがあるのです。

2.命の光

今朝は「生命の言」という題で語らせていただいていますが、本当に人間のこの話す言葉に、そこまでの力があるのでしょうかと思う時があります。
「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1~5)

聖書には初めに言がったとあります。ですから、この世界の起源と始まりは言なのです。世界の起源、万物を存在たらしめている方、それが言だったのです。そしてこの言は、神と共におられたのです。単独者ではありませんでした。神との共同存在であり、このロゴス(=言)神であったのです。そして万物、すべてのものはこの言によって創造されました。この言以外によって創造されたものはありませんでした。

わたしたちはこの世界は、元素からできていて、その元素が簡単な微生物となり、そこから高等な生物へと進化していったと教えられましたし、今でも多くの人はそう思っています。物質が最初だと考えています。でもこの世界はまず神が最初に存在し、そのお方は言であり、御自身の言をもって物質を創造されました。「光あれ!」と叫んだら、光がありました。

ヘブライ書にも「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出て来たのではないことを悟るのである。」(ヘブライ11:3)とあります。この世界は神の言葉によって創造されたのです。言が先なのです。

しかもこの言葉の中に命があって、この命は人間を照らす光であると書かれています。つまり、この言の中には命があったのです。命というのはただ単に生物学的な意味でも命ではなく、人間を人間たらしめる命です。つまり動物が生きているという命ではなく、勿論それも入りますが、それ以上に神に造られた者として、神の姿を映すものとして生きるという意味での命です。

つまり、単独者ではなく、「共にいる存在」としての命です。神と共に生きる、そして他者と共に生きる者としての愛の命なのです。自分だけでなく、他者を思いやる存在としての命であり、それはこの初めからおられた言であるお方の光を受けた者が持つ命なのです。ですから私たちを照らし、わたしたちに命を与えて下さるこの言というお方は、初めから「ことば」として存在した方なのです。世界の初めは言葉であり、わたしたちの話す会話や情報の伝達といった言葉ではなく、命を与える力を持った言であり、私たちすべての人を照らし出し、光の子供としてくださり、かつ永遠の命を与えて下さるお方なのです。

神様は最初から、命の言葉であり、わたしたち暗闇の中に生きている者に対して光を与えて下さるお方なのです。でも私たちの語る言葉はどうでしょうか。命の言葉になっているでしょうか、光の言葉になっているでしょうか。ともすると私たちの語る言葉は、単なる情報の言葉ではないでしょうか。あるいは時には、相手を攻撃したり、嘘をついたり、だましたりする闇の言葉、肉の言葉になってはいないでしょうか。下品な言葉、汚い言葉、卑猥な言葉を吐くことはないでしょうか。そして人を生かすのではなく、人を傷つける言葉になっていないでしょうか。人を明るくするよりは、人を暗くさせてしまう言葉を話していることはないでしょうか。自分を正当化する言葉、自分を良く見せようとする言葉、誇る言葉、高慢な言葉、人を裁く言葉、それらを肉の言葉といいます。

3.言が肉となった

そういう肉の暗闇の世界に生きているわたしたち、罪の中に閉じ込められているわたしたち、そういう世界にキリストは肉を取って来てくださったのです。1;14に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあります。イエス様が肉を取って来てくださったということは、まぎれもなく私たちと同じ肉体を取って来られたということです。それはご自分の罪のない汚れのない清い肉体をもって、わたしたちの罪を贖うためでした。まさに神の子羊として、ご自分を罪のいけにえに捧げられて、その苦しみと死をもってわたしたちの罪を赦し清めて下さるためでした。

ちょうど今、公園なんかに行きますと、大きな木の周りにわらを巻いている光景が見られます。それは、冬の間、松の木に巣くっている害虫が、このわらのコモの中に寒さを逃れて入ってくるわけです。そして春先になりますと、その巻いていたわらを取り外して、焚火で虫もろとも焼き捨ててしまします。ちょうどイエス様が、この松の木に巻いているコモみたいなものです。この世の罪という害虫を全部ご自身の体に引き寄せ、それを集めて自分自身の体を燃やすことによって、罪もろとも滅ぼしてしまわれたのです。それだけではなく、イエス様は三日目に甦られて、この罪という害虫に勝利されました。

そのためにあえて、ご自分でわらとなってこの罪の世界に来てくださったのです。イエス様がわらというわたしたちと同じ罪に染まった肉体を取って下さらなければ、わたしたちの罪の処分はできなかったのです。イエス様が同じ体を取って来てくださったことによって、わたしたちの中に巣くう罪という虫が完全の滅ぼされてしまったのです。全世界の罪が、御子を襲い御子に集中してみ子を殺してしまったのです。ご自分の罪ではなく、この世の罪を、わたしたちの罪をその身に負って下さったのです。

しかし、その苦しみと死によって、わたしたちの罪が贖われ、キリストを信じる者には罪の赦しが与えられたのです。キリストを信じる神の子の誕生です。(1:12)わたしたちはその命を受けているのです。永遠の命の中に置かれているのです。それが肉を取って来られたことの第一の理由です。「神はその独り子を給うほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」(3:16)とある通りです。

竹から生まれたのでもなく、岩から生まれたのでもなく、肉体を取ってわたしたちと同じように母の体を通してこの世に来てくださったのです。そしてご自分の死をもって罪を処罰し、イエスを信じる者に復活の新しい命を与えて、神と共に生きる者としてくださいました。これが命の言なるイエス・キリストです。そしてわたしたちの間に宿られました。ということはわたしたちの兄弟姉妹の交わりの中に生きておられるということです。教会で語られる説教、わたしたちの祈り、交わりの言葉、牧会の慰め励ましの言葉として、わたしたちと共におられます。

わたしたちも時には、イエス様の霊の力よりも自分、自我という肉の力が勝って、兄弟姉妹を裁いたり、この世の快楽に走ってみたりすることがあります。そしてキリストの体である群れから離れて、迷える羊のようにさ迷う時もあります。でも羊飼いであるイエス様は、わたしたちを探し出して、見つけ、肩に背負って元の群れに連れ戻してくださるお方です。肉の自分では、できない、できない、人を赦せないという心に支配されています。でも、主を選び取る時、主に顔を向ける時、そこに御霊の法則が働くのです。

わたしたちの罪を赦してくださるお方です。十字架の愛の血潮をもって清めて下さるお方です。そこには罰と懲らしめといったものはありません。ただ神様の栄光を表す愛の神、わたしたちのためにどこまでもへりくだって赦そうと待っておられるお方です。神様の恵みと憐みが満ち溢れているお方なのです。このお方のもとには赦しと、愛と、寛容と憐みが満ち満ちているのです。そこへわたしたちは飛び込むだけです。その方を選択するだけです。選ぶだけです。何か検査とか、試験とか罰などはありません。前回も信仰は選択だと言いました。主の顔を思い浮かべることです。逃げる必要はありません。背を向ける必要はありません。向き直ることです。これが本心に立ち帰るということです。そこは恵みと真理が満ち溢れています。これでもかこれでもかと恵みの充満です。主の十字架の元には安らぎがあります。憩いがあります。あるがままの本来の自分自身があります。

わたしたちはただ、顔を主に向けて方向転換するだけでいいのです。本来の自分自身に立ち帰るだけです。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたのです。」(1:17)このキリストの愛には恐れはありません。なぜならば、神様が先にわたしたちを愛して下さって、御子をこの世に肉を取らせてお遣わしになり、その愛を示して下さったからです。この完全な愛は恐れを取り除きます。恐れには懲らしめがつきものですが、神様の愛は、神様から先にわたしたちに与えられたプレゼントだからです。これが恵みです。わたしたちが神を愛したのではなく、神が先にわたしたちを愛して下さって、罪の贖いの供え物として御子をお遣わしになったからです。

ここに愛があります。これが神の愛です。神様は皆様方一人一人を限りなく愛しておられます。ですからわたしたちも、この神の愛の恵みを受けた者として互いに愛し合いましょう。教会はこの神様の恵みと愛が満ち溢れているところなのです。失敗してもいいのです。不十分でもいいのです。何もできなくてもいいのです。お互い神様に愛され、罪赦された者として、主を見上げつつ、互いに弱さを担い合いカバーしつつ、一つとなって行くところではないでしょうか。2019年の数々の苦難とそれに勝る大きな恵みを思い出しつつ、新しい年を迎えてまいりましょう。(岡田 久)

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