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命の水が流れ出す (ヨハネ7:37~44)

メッセージ
2020年2月2日富里キリスト教会
「命の水が流れ出す」
(ヨハネ7:37~44)
1.渇いている人は

さて本日与えられました御言葉は、良く説教でも引用されます有名な御言葉です。「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)このみ言葉は、前の4章のサマリヤの女のお話のところでも引用してまいりました。

ひとりのサマリヤの女が、いかに渇いた心の持ち主であったか、5人も夫を代えて、今も結婚しないで6人目の男性と同棲しているのです。でもやがてこの男とも別れてしまうでしょう。それでも誰でもいいと言いますか、自分のこの心の渇きを少しでも潤して満たしてくれる人ならだれでもよかったのです。つかの間の癒しと満足を求めてさ迷い歩いている女でした。

井戸から水をくんで飲んでも、飲んでもいやされることのない女の心、人に裏切られ、だまされそれでも誰かを求めずにいられない女の心、飲めば飲むほど、心が渇く、空しい人生、満たされることのない深い井戸のような女の心、そういう心の持ち主であった人に、命の水である主イエス様が出会ってくださったのです。そういう渇きを覚えている人を主は探しておられたのではないでしょうか。ですから長旅をしても、わざわざこの村に立ち寄ったのです。「この水を飲む者は誰でもまた渇く、しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)と彼女に言いました。

世間的にみるならば、身持ちの悪い女、ふしだらな女、バツイチならまだしもバツ5ではもう誰も相手にしません。世間の鼻つまみ者です。人生を捨てているような悪女です。人々の目にはそう見えました。しかし、主イエスは彼女の心の渇きがどこから来ているのかを見て取りました。そしてそれは単に肉体的なもの精神的なものではなく、霊的な空しさから来ていることを見抜かれたのです。ですから主はご自分から近づいて行って「水を飲ませてください。」と言われました。

彼女の心の渇き、彼女の霊的な空しい心を見て取ったのです。それがこの「誰でも渇いている人は」と呼びかけた主イエスの言葉ではないでしょうか。渇いている人です。言い換えるならば、渇いている人しか主の生きた水を飲むことが出来ないと言っても過言ではありません。そういう人しか求めて来ないのです。皆さんはいかがですか?渇いておられますか?自分の心のうちに、満たされない何か、空しさ、何か生きる目的と言ったものを必死に求めるそういう心をお持ちですか。

そういう渇いた心を持っている人しか、正直言いまして主のもとに来ることはありませんでした。先週も話しました。わたしは天から来た命のパンである。わたしを食べる者は永遠に生きる、そして終わりの日には復活しますと。そうしたら多くの人々が、イエスのもとを去っていったとあります。ひどい言葉だ、自分の肉をどうやって我々に食べさせるというのか。人々は心の渇きを覚えていたのではなく、胃腸の渇きを、食べ物のことでついて来ていたのでした。霊的な食べ物のことが何も分かっていないのです。お腹がいっぱいになればそれでいい、渇いた喉を潤せばそれでいい、そういうことしか気が付かなかったのです。

ここでイエスが「渇いている人は」と言ったのは、自分の心に渇きを覚えている人、魂の渇きを持っている人、自分の不十分さ、弱さ、欠点、貧しさを感じている人ということです。満たされない思い、生きることに空しさを感じている人、生きる目的が分からない人、失望と絶望の中にある人のことです。一寸先が見えない人、希望をもてない人のことです。そして何か生きる意味、希望を求めている人、そういう人がわたしのところに来なさいと言っているのです。元気な人、丈夫な人、やる気満々な人は来る必要はありません。いかがでしょうか、皆さんは渇いていますか?真理を求めていますか?真剣に生きる意味を求めていますか?そういう人だけ来て飲みなさいと言っています。

2.わたしのところに来て飲みなさい

「わたしのところに来て飲みなさい」すなわち、イエス様のところに行ってその命の水を飲めばいいのです。飲むとはどういうことですか。それはイエス・キリストを信じることです。主イエスがこのことを大勢の群衆の前で公言したのは、ちょうど仮庵の祭りの最終日でした。お祭りのクライマックスの時に、とうとう主は黙っていられなくなって、ご自分のことを証したのです。

この仮庵の祭りは、荒野での旅を記念して、家のベランダや庭で木の枝を使って簡単なテントを造って休みました。この旅の間、イスラエルの民がのどの渇きを訴えたために、モーセが岩に向かって水を出せと言って杖で打ったら、岩から水がほとばしり出た、そのことを記念して行っていたユダヤの三大祭りの一つでした。しかし、人々は、この祭りの意味していることが良く解らないまま、惰性で習慣的にこの祭りを祝っていました。

そしてこの祭りの最終日には、シロアムの池から祭司が金の水差しで水をくんで来て、祭壇に注ぎました。これはイスラエルが、荒野の旅の途中で喉の渇きを潤してもらったことを記念するためでした。これは霊の飲み物です。主イエスはこの真理を示すために、祭りのクライマックスで、この仮庵の祭りは来るべきキリストの予型であることを示し、その民の渇きをいやし、命を与える水がご自分において実現したことを訴えたのでした。今こそイスラエルの民は、自分のもとに来てこの命の水を飲むことが必要であると言いました。それがこの言葉です。

そしてご自分のもとに来てこの命の水を飲むことは、イエス・キリストを信じることであると言いました。そうすれば、自分の魂をいやすのみか、キリストの水の源に連なることによって、自分の腹から生ける水が川となって流れ出ると訴えました。これはイザヤ書55:1の預言の成就でもあったのです。

「渇きを覚えているものは皆、水のところに来るがよい。銀を持たないものも来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなくぶどう酒と乳を得よ。何故、糧にもならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることが出来る。」(イザヤ55:1~2)

乾いている人は誰でも、無料でお金を払うことなく、この命の水を飲むことも食べることが出来るのです。命の水を飲むということはイエス・キリストを信じることです。ではどうしたら信じることが出来るのでしょうか。それはキリストの言葉に聞き従うこと、キリストの御言葉に耳を傾けて聞くことです。「信仰とは聞くことなり、聞くことはキリストの言葉から来る。」(ローマ10:17)

ではどう聞いたらいいでしょうか。皆さん聞いています。問題はどう聞くかに注意することです。ですから「どう聞くかに注意しなさい。」(ルカ8:18)と主は言いました。聞く耳を持っている人はどんどんと神様の祝福が与えられ、聞く耳を持っていない人はいくら聞いても解らない、いや逆の自分が持っていると思うものまでも取り上げられてしまうのです。ですから、どう聞くかがカギです。そして皆さんはどう聞いていますか?

わたしも長い間、聖書が分かりませんでした。ただ何となく教会に行く、友達がいる、教会学校がある、楽しい、礼拝をする。でもなんかまだ信仰が自分にとって借り物のような気がしていました。本当に自分は信じているのだろうか、聖書を知っているだろうか、聖書の言っていることをちゃんと解っているだろうか、ちゃんと説明できるだろうか?そういう不安と言いますか、自信のなさがありました。そこでどうしたかと言いますと、もう一度聖書を徹底的に調べつくしてみること、とことん納得がゆくまで、自分でそうだと確信が行くまで読んでみることにしました。

「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1:1,14)もうここから分からないのです。はじめに言があったとはどういうことだろうかと思いました。そこで聖書の言葉を一字一字、一節一節、納得がゆくまで調べながら読みました。理解するまで、次に進まないようにしようとしました。そうすると一歩も進めないのです。一行目から分からないのです。苦しかったです。それでもあきらめないで、注解書を呼んだり、解説を読んだりしながら自分で何とか納得がゆくまで読み込みました。

そういう中で、少しずつ聖書が分かるようになってきました。それは自分一人で読むのではなく、「友達と一緒に考えながらお互いに質問しながら読む」のです。それから「祈ってから読む」のです。分からない箇所が来たら、わかるまで静まって沈黙を守って、聖霊様の導きを待つのです。すると聖霊様は誰かの口を通して答えて下さったり、ヒントを与えて下さるのです。そしてお互いに聖書の中から宝物を発見するように深く掘り下げて読むのです。

結局信じるということは聖書の御言葉が解かるということです。御言葉が解かると次に御言葉に従って生きるようにあります。適用と実践です。そしてさらに御言葉の深さと真実を生活の中で体験してゆくのです。これが「誰でも渇いている人は、わたしのところに来て飲むがいい。」ということではないでしょうか。求めれば与えられます。捜せば見つかります。皆さん求めていますか?探していますか?門をたたいていますか?そういう人は必ず、命の水にありつきます。

そうでない人は求めもしないし、叩きもしません。何のために教会に来ているのか分かりません。イエス様のところに来ていないのです。友達がいるから、奉仕があるから、楽しいから、それは皆、根のない信仰です。風が吹けば飛んでゆきます。根無し草です。霊の人ではありません、ただの人です。そういう人に教えます。主のもとに行きなさい、そして命の水である聖書の御言葉を必死に真剣に求めなさい、今からでも遅くはありません。

3.生きた水が流れ出る

そしてその人が真に聖書を読んでいるか、信仰によって生きているかははっきり分かります。生ける水である聖書を読んでいる人は、その人の腹の中から生きた水が川のようになって流れ出してくるのです。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自身を信じる人が受けようとしている“霊”について言われたのである。」

命の御言葉を飲んで、その人の内から生きた水が川のように流れ出ると言っています。そしてその腹から流れ出る命の水は何を指しているのかと言いますと、聖霊のことを言っているのでした。イエス・キリストを信じてその命の水を飲む人は、今度はその人の腹の中から聖霊がわき出てくるというのです。もちろん、この聖霊は目に見えないものですが、言葉となって出てくるのです。わたしが語っている言葉は、これは聖霊の話す言葉です。聖霊様がわたしを通してお語り下さっているのです。教会はそれを聞かなければなりません。

「聞く耳を持っている人は、聖霊様が諸教会に語る言葉を聞きなさい。」(黙示録)とヨハネが言っています。聖霊が語っているのです。命の水が聖霊様によって説教として皆さんの耳に届いているのです。イエス・キリストを信じなさい。そしてその方の御言葉をもっともっと真剣に、悔い改めつつ必死に耳を固めけて聞きなさい。教会の楽しいことに心を奪われてはいけません。何よりも御言葉に集中しましょう。礼拝の中で、教会学校で、スモールグループで、個人伝道の中で、あらゆる機会において聖書の御言葉を第一にしましょう。

そして何よりも大切なことは聖霊様を信じることです。どうしてわたしたちの教会がみ言葉が弱く、御言葉を避けているのかと言いますと、その理由は明確です。聖霊を信じていないからです。聖霊という言葉を口にしません。聖霊様を認めていない、人間の感情や意志で動いています。聖霊の働きに委ねていますか?そもそも聖霊が存在することを信じているでしょうか。

昔のクリスチャンは、聖霊様を教会で口にしてはいけないと教わりました。皆さんも古いクリスチャンですか。それは聖霊様を拒んでいることです。皆さんもそういう流れの中で育って来ているようです。聖霊様を求めてください、信じてください、満たされるように願ってください。そして聖霊様の導きのままに生きてください。信じることは聖霊の働き無くしては起こりません。聖霊様は神様です。キリストと同じ神です。そして何よりも聖書の真理を解らせてくださいます。

「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」ということは伝道することです。証をすることです。伝道するクリスチャンになるかならないかによって、その人が真に命の水を飲んでいるか否かが分かります。命の水を飲む人は、その腹から水が流れ出てくるからです。もし流れ出てこない人は、今日ここで悔い改めましょう。み言葉を拒んでいたこと、聖霊を認めていなかったこと、聖書を読んでいなかったこと、この世の楽しみの方に飲み食い、旅行や趣味に気持ちが行ってしまっていたということです。

そして心を主に明け渡しましょう。無条件で主を自分の心の一番醜いところへ、隠しておきたいところへも迎え入れましょう。わたしの罪のために、主が死んでくださったという告白です。それが信じるということです。この後主の晩餐式があります。イエスの血を飲んでください、イエスの肉を食べてください。わたしたちの罪が赦され清められるために。(岡田 久)

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