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命のパン (ヨハネ6:22~40)

メッセージ
2020年1月26日富里キリスト教会
「命のパン」
(ヨハネ6:22~40)

1.群衆の盲目な信仰

さて、先ほど子供達にも話しましたが、人間にとって二つの必要な食べ物があるということです。一つはこの体、肉体を養うための物質的な食糧であるパンやご飯です。この肉体を養うための食べ物を取らないと、人間は飢え死にしてしまいます。そして実はもう一つ、もっと大切な食べ物があります。それが神様の御言葉という霊的な食べ物です。パンやご飯は人間の肉体を養うための物質的な食べ物です。しかし、もう一つの食べ物は人間の霊の部分を養う霊的な食べ物です。それが神様の御言葉です。両方必要です。

主イエスが、荒野で断食をして空腹を覚えた時に、悪魔からの誘惑に会いました。この石をパンに変えて食べてみたらどうだ、お前ならできるはずだ。と空腹を満たすために奇跡を行うよう誘惑しました。そうしましたら、イエス様はこう答えました。「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)と。確かに人を養う者はパンであるかもしれませんが、本当に人間に命を与えることのできる食べ物は、パンではなく神の御言葉なのです。伝道の公生涯に入る時に、誰でも最初に受ける試験です。命のパン、まことのパン、そういう食べ物が存在することを主は人々に教えたかったのです。

ところが人々の関心は、その霊的なパンではなく、自分たちのお腹を満たして満腹にしてくれる肉的なパンを求めてイエスを追ってきたのです。あの五千人を養った奇跡の後、群衆はこんな奇跡を行う人物を王にしようとして集まり、イエスのいる所どこにでも押しかけて来たのでした。

「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。』」(6:26~27)

あの五つのパンと二匹の魚から五千人を養ったという奇跡の出来事は、ご飯やパンやおにぎりが、五千人分増えたという物理的な奇跡ではなく、イエス様がキリストすなわち救い主として、天の父なるお神様から承認されたことのしるしでもあったのです。つまり朽ちることのない霊的な食べ物というのは、どんなにわずかでもイエスを通して多くの人々に行き渡るものであるということです。イエス・キリストを通して、人に配るならばいくらでもその食べ物は尽きることなく増え広がるのです。

そしてみんなが満腹する、満ち足りる食べ物となる、これが命のパンであり、イエスこそ神から遣わされた真の命のパンなのだということが証明されたのです。それがあの五千人を養うという奇跡の出来事なのです。そういう仕事をしなさいと教えられました。自分だけが食べて満足するような肉のパンではなく、人に与えることによってますます増え広がる霊のパンを配る働き、すなわち伝道の働きをしなさいと人々に教えられました。

自分の家族や自分の人生、自分の財産のために、一生懸命働くのではなく、人々のために分け与えれば与えるほどに、ますます増え広がるような食べ物のために働きなさいと言っています。これこそまことの食べ物、命のパンなのです。食べても食べてもなくならないパンです。そして与えれば与えるほど、ますます増え広がるパンです。命のパンは人に与えて、ますます増えてくる不思議なパンです。

2.主を信じることが神の業

すると人々が更にこう尋ねました。「そこで彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか。』というと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになったものを信じること、それが神の業である。』(6:28~29)と。群衆もイエス様のような奇跡的な働きが出来たらと思ったのでしょうか。「神の業を行うためには、何をしたらいいでしょうか。」と尋ねました。この質問は、クリスチャンでもよくすると思います。信仰に入って間もなく、何とか自分も神様のような働きをしたいと思います。悪くはありません、誰でもそう考えます。

でも良い業をしたり、神様のような偉大な業をするのは、自分ではありません。それはやがてわかってきますが、最初の頃はどうしても、何をしたら神の業になるだろうかと考えてしまいます。今でもあるかもしれません。何とかイエス様のような働きがしたい、奇跡的な事をしてみたいと考えます。でもそれに対してイエス様はこう答えました。「神がお遣わしになったものを信じること、それが神の業である。」と。イエス様は、行いではなく、まず信仰が大事だと言いました。主イエス・キリストを信じることが神の業であると。

じゃあ私たちがもっとあなたを信じることが出来るようになるためには、さらにどんなしるしを見せてくださいますかと尋ねました。かれらは、奇跡的なしるしをもっと見せてくれなければ信じられないと言いました。昨日、あんなに5千人を養うほどの大きなしるしを見ていながら、さらにイエスにしるしを求めたのです。彼らが信じるためには、目に見えるしるしがなければなりませんでした。これが信仰ですか?奇跡を見なければ信じないという信仰です。そういう人は次々としるしを求めます。もっと他に奇跡を見せてください、そうすれば信じますと。際限がありません。

昨日は、たった五つのパンと二匹の魚で、五千人を養ったのです。自分達には何もない、人材もない、予算もない、余裕もないと思っているわたしたちですが、その何もない私たち、たったこれしかない私たちを主イエスに捧げるならば、それを主は何倍にも増やして多くの人々を養ってくださるという信仰の出来事を教えています。これが主イエスを信じることによってなされる神様のみ業なのです。これがしるしの意味です。

私達にはできません、わたしたちには何もありません、でも主を信じるならばそこにあの奇跡が起こるのです。たった五つのパンと二匹の魚で五千人の人々が養われるのです。たとえ嵐が襲ってきましても、主を信じ受け入れるならば、嵐は止み直ちに目的地に着くのです。まことのパンであり命のパン出るお方、イエス・キリストを信じるならば不可能なことは何もありません。

これが神の業ではないでしょうか。まずイエス・キリストを信じて祈ることです。子供がいない、育てた経験もない年寄りが、神様を信じて一歩踏み出す時にその奇跡が実現するのです。「神がお遣わしになった主を信じること、それが神の業なのです。」(6:29)自分ができないこと、自分にとって不可能なことをする、そこに神の業が起こるのではないでしょうか。

3.命のパンを信じる

最後に、イエス様こそこの命のパンであるということを、確かめてみたいと思います。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになった人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(6:35~40)

少し長い文章ですが、イエス様こそ命のパンであり、このお方のもとに来る人は決して渇くことがないということです。ところが群衆は、この生ける神であるお方を現に見ているのに信じないというのです。その姿を見ているが故にかえって信じがたいのでしょうか。誰もこの命のパンであるお方のところに来ないのです。確かに奇跡を見て、王様にしようとはしますが、あのサマリヤの女のようにナザレのイエスをメシア、キリストだと信じる人はまれだったのです。

ただここで気になったのは、このお方のもとに来る人は、実は自分から来たのではありません。本当に主のもとに来て、その命のパンを食べる人は、実は、父がお与えになった人なのです。天のお父様が選んで、お父様がイエス様のところに行くようにしてくださった人でなければ来ることはないのです。他の個所でも、「父が引き寄せて下さらなければくることができない」(6::44)と言っています。また「父の赦しがなければ、イエスのもとに行くことが出来ない」(6:65)とも言っています。

つまりわたしたちが今こうして主のもとに来ているのは、父なる神様が引き寄せてくださっているからなのです。自分で来ているわけではないのです。神様が選び、導き、引き寄せて、来ることを許しておられるから来ているのです。神様の業です。自分で来ていると思わない方がいいかもしれません。ですからもっともっと神の前に畏れひれ伏すことです。ところがこの当時、この命のパンを食べること、すなわちイエスを信じること、そのみ言葉から教えられること、そのことによってわたしたちに永遠の命が与えられて、終わりの日には復活にあずかるということを信じる者はいませんでした。

がリラヤの群衆の中にもいませんでした。又ユダヤ人に話しても、彼らも信じませんでした。キリストの肉を食べ、その血を飲まなければ永遠の命はないと言っても、あのユダヤ人でさえ「この人はどうして自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか?」(6:52)と疑いました。更に弟子たちの間ですら、「聖霊によって主の御言葉を聞く者でなければ、永遠の命はない。」(6:63)といいましたら、「これはひどい話だ、誰がこんな話を聞いていられようか。」(6:60)と言ってつぶやきながら去って行ったのです。

イエス・キリストを信じるということは、主の晩餐式でキリストが自分の罪のために死んでくださったこと、罪を贖うために十字架の上で苦しんで下さったこと。イエス・キリストを信じるということは、聖霊の導きによって主の御言葉を信じて受け入れ、それに従うことであり、そのことによってわたしたちもやがて復活の恵みにあずかって、主と共に永遠に生きるということです。これがあの五千人を養った奇跡の意味なのです。

ところが数日もしない内に、あの五千人の人々は次々とイエス様のもとから離れて行きました。そしてついにイエス様は12人の弟子たちにも尋ねました。「このことのために、弟子の多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、『あなたがたも離れていきたいか』と言われた。」(6:66~67)これがイエスの最後の言葉です。あの5千人の大伝道集会の後に残ったのは、12人の弟子たちだけでした。どんなにがっかりしたことでしょう。しかもこの12人の中にも裏切るものが一人入っていました。それが弟子の一人のユダでした。ですから、5千人から最後はたったの11人にまでなってしまったのです。しかもその11人もいつ弟子を辞めようかと思っていたのです。

本当のことを話したら、みんな離れて行きました。神の御言葉を聖霊によって信じること、そしてこのお方の血と肉を食べること、あの晩餐式ですね。自分の罪のために流されたイエスの血潮と裂かれた肉をいただくこと、そこに永遠の命のパンがあるのです。そのことを話したら、弟子の多くも離れて行ったのです。いったい彼らは何を信じていたのでしょうか。奇跡を見たから、食べ物にありつけたから、仲間がいるからでしょうか。この命のパンにあずかる人は、本当に天のお父様が選んでくださった人でなければ来ることが出来ないのです。

そういう中で、イエス様はいよいよご自分が、世の罪にために十字架に架からなければならないこと、人々の罪を贖う神の子羊としての地上での最後の生涯を全うするために、十字架への道をたったお一人で、最後まで歩んで行かれました。世の罪を救う命のパンとして、十字架へと歩みゆかれました。この世の救いのために。今日こうして父なる神様が、わたしたち一人一人を主のもとへと導きだしてくださいました。父が引き寄せて下さったのです。このお方こそわたしたちの救い主であり、わたしたちの罪のためにカルバリの丘へと歩みゆかれるお方なのです。この命のパンである主イエス・キリストの命の言葉を聖霊様の助けをいただいて聴く者となってゆきたい、そして永遠に至る実を結んでゆく者となってゆきたいと願っております。(岡田 久)

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