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命と光の言 (ヨハネ1:1~5)

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2015年12月6日富里キリスト教会

「命と光の言」
(ヨハネ1:1~5)

1.初めの言(キリスト

まず最初に、「初めから存在しておられた先在のキリスト」についてです。1:1を読んでみます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」とあります。何度も申しますが、この「言(ことば)」はイエス・キリストのことを指しています。当時の哲学用語を用いてヨハネが、異邦人にも解りやすいようにと「メシア」というユダヤ教の言葉を用いずに、異邦人特にギリシャ人にも伝わるようにという意味で、「メシア」ではなく「言(=ロゴス)」という哲学用語を用いてキリスト誕生の出来事を語ったのでした。このロゴス〈言〉という言葉は、哲学的には理性とか原理というような意味があります。

ですからこの1:1~3までの御言葉を言い変えてみますと、「初めにキリストはあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。このキリストは、初めに(父なる)神と共にあった。万物はキリストによって成った。成ったものでキリストによらずに成ったものは何一つなかった。」となります。

【初めからおられた方】
旧約聖書の創世記1:1に「初めに神は天と地を創造された」という荘厳な神の第一声とでもいうべき御言葉で語られております。神が天と地を創造されたのですから、神は天地万物が存在する前からおられたのです。いわば先在の先在みたいなお方です。すべての存在しているものの起源でもあり、創造者でもあるお方です。ですからヨハネ1:3でも「万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。」となるわけです。

この世界は、すべて神の言葉によって造られたのです。何か物質があってそれから言葉によるコミュニケーションができたというのではないのです。この言は、コミュケーションの言葉ではなく、無から有を存在させる創造の言葉なのです。この初めからあった言、万物を創造させる言を私たちは信じたのです。この言であるキリストを信じるのが信仰です。いわばこの聖書の言葉を、神の言葉としてその通りだと信じるのが信仰です。

ですからヘブライ11:3にこう言われています。「信仰によって、わたし達は、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分かるのである。」別な言い方をしますと、この見えている世界というものは、実は目に見えない言によって創造されたのであることをクリスチャンは知っているのであるということになります。先に言があったからです。言があってそれから物質ができたのです。

ですからすべてのものを存在せしめ、生かし、生命を与えて生きるようにして下さるのが、この言なのです。ですからこの「言の中に命があった」となるのです。命を与える言なのです。なぜなら、その言は初めから存在しており、すべてのものを真に生きるものへと呼び出して下さったからです。万物の起源は、この言の中にあるのです。

わたしも皆さんも、生きている根拠はこの初めであり、無から有を呼び出して下さった言であるキリストの中にあるのです。ここに私たちが生きていることの根拠があるのです。ですからこの言葉を聞かない限り、わたし達は真に生きているとは言えないのです。生物学的には生きていますが、それはただ単に生きているだけであって、いずれ死んで朽ちてしまうものでしかありません。

【共におられる方】
そしてこの初めからおられ、万物を創造された方は、共におられるお方なのです。1節に「言は神と共にあった。」とあります。この神であり万物の起源でもあられるお方は、なんと御自分の方からわたしたちのそばに来て下さるお方、「共におられるお方」なのです。この「共に」とう短い簡単な前置詞が大事です。ギリシャ語では「プロス」という言葉ですが、これはどこどこに向かって共におられるということです。つまり言なるお方が、もう一人の父なる神様に向かっていくという形で共におれるお方だということです。

別な言葉で申しますならば、この言という神様は、単独者として存在しているのではなく、あくまでも三位一体の神の中で、もう一人の神に向かって相対しているということです。この神であり言であるお方が、単独者ではなく他者を目標としているという点において、それは愛という動機を持って、相手に向かって一歩踏み出すという形で共にいるというお方なのです。

それはあの良きサマリヤ人が、強盗に襲われた人を黙って見過ごすのではなく、自分の方から近づいて行って声をかけ、手を差し伸べて介抱することによって共に生きるという生き方なのです。またこのヨハネ福音書4章に出て来る一人のサマリヤの女性のところに、言であるキリストは旅の疲れを覚えながらも足を向けて一歩出て行かれるお方なのです。自分から友となるということです。自分から声をかけるということです。

これが「言は神と共にあった」という意味での神の姿であり、わたしたちと共にいて下さるお方なのです。命を与え、光を与えて下さるお方なのです。したがいまして、この初めからおられ、共にいて下さるお方は、この世界に命と光を与えるために来られたのであり、もともとそのような御性質を持ったお方なのです。それがこの言の中に「命」があり、「光」があるということなのです。私たちはその神の命と光の中に招き入れられたものなのです。

2.命なる言

まず最初に、命ですが、4節に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とあります。この言葉であるキリストは、初めから存在し、神と共におられ、神そのものであり、すべてのものを創造されたお方です。そしてそのキリストの中には、命がありました。そしてこの命は人間を照らす光でもあったのです。このヨハネ福音書の中に出て来るキーワードとして最も多いのが、「命」と「光」です。

創世記2:7にこうあります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。」(創世記2:7)とありますように、神の息によって新しい命が与えられるのです。肉体的に生きるだけではなく、霊的に生きるものとなるのです。別な言葉で言いますと、神の御言葉と神の霊によって新しく生まれ変わり新生し、死ぬことのない永遠の命を受けること。これが本当の意味での生きるということなのです。

この神の霊によっていただく新しい命、永遠の命について述べられている物語が、この後に出て来ます3章でのイエスとニコデモとの出会いです。キリストは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われました。ところがユダヤ人の教師でもあり指導者でもあったニコデモは、この新しい命、生まれ変わるということの意味が良く解りませんでした。もう一度母の胎内に入っておギャーッと誕生することかと思いました。それに対してロゴスであり、命であるキリストはこう言いました。「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と。(ヨハネ3:1~15)

水と霊による新しい命の誕生です。これが言であるイエスキリストによって与えられる命です。その後の4章のサマリヤの女のところでも、言なるキリストはこう言いました。「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(4:14)と。この水と言うのはキリストの御言葉です。これが「水と霊によって生まれ変わる」と言うことです。イエスキリストの御言葉によって、主を信じる者には例外なくこの永遠の命の水が与えられるのです。この言であるキリストと神の霊によって人は新しい命に生まれ変わることができるのです。

3.光なる言

次に光についてみてみたいと思います。4節に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。ヨハネ福音書の中で「命」と言う言葉と、もう一つ頻繁に出て来る言葉が、「光」と言う言葉です。ですから、この冒頭の1:1~5までの言葉は、ヨハネ福音書の全体のテーマはこれなんだと言うことをはっきりと言っているような気がします。主イエスはご自分のことを「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と言いました。

そして「この光は闇の中に輝いており、闇はこれに勝たなかった」(1:5口語訳)とあります。言なる神、キリストはこの世を照らす真の光としてこの世に来られました。世の光は、このクリスマスの季節とてもきれいに輝いております。大きなモールや駅前に行きますと、きれいなイルミネーションはいろんな色を輝かしてファンタジーの世界を造り上げています。

でもこの罪の世を照らす真の光と、この世のきれいなイルミネーションの光との決定的な違いがあります。それは、本当の光は天から来たということです。この真の光に照らされた者は、この真理の光の方に近づいてくるとキリストは言っています。町のきれいなイルミネーションの光の方には、大勢の人がその美しさを見るためにやって来ます。しかし、夜の闇を照らし、一人一人の隠された心の闇まで照らし出してくださる光の方には、人々はなかなかやって来ません。神を恐れているからです。光よりも闇を愛し、暗闇の中へと自分の姿をくらまそうとしているのです。悪を行うものは、闇の中へと自分の心も姿も隠そうとする心理が働きます。神を恐れるからです。神の真理の光を恐れるからです。ヨハネは1:5で「暗闇は光を理解しなかった」と言っていますが、理解しなかったことよりも光を恐れているのではないでしょうか。「怖い」と言う感情が、光から自分を遠ざけてしまっているような気がします。

しかし、光であるキリストを信じる者は、光のもとにやって来ます。3:19~21までを読んでみましょう。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行うものは光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:19~21)

言であるイエス・キリストを信じた私たちは、御言葉と霊によって新しい命を受けました。そしてこの命にあずかった者は、神の光を受けたものです。命と光の道を歩んでいます。そしてこの命と光の道と反対の道は、死と闇の世界です。人の命を奪い、闇から闇へと悪の道をひた走っています。光に来ようとしません。そしてそのことがすでに、神の裁きに会っていると言っています。今、全世界を覆っているテロの恐怖が、まさに闇の支配、闇の力です。また軍備に頼って武力で問題解決をしようとするのも闇の力です。また社会を見ても、人々は生活の不安、地球環境の変化と災害の不安でいっぱいです。闇の世界の中にいると言っても過言ではありません。

しかし、そうであればあるほど、この命を与える真の光は、暗い世にあって光輝くのです。ヨハネ1:5には「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。口語訳聖書では、もう少し力強く「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」となっています。闇と死の力がどんなに大きくなり、人々の心を支配しましても、イエス・キリストの光は決して消え去ることはありません。闇の力は光の力に勝たないと言っています。

天地万物、すべてのものをお造りになり、初めから存在しておられた言なるお方は、その愛の故に、わたしたちと常に共にいて下さる方です。そしてこのお方の真理の光は、天から差し伸べられて全ての人の心を照らし出されます。この光のもとへと歩み行くものでありたいと願っております。今朝はこの後、主の晩餐式がございます。永遠に生きておられ、この時の流れを御支配しておら横の線と、天から射し込んでくる真の光の縦の線が交差するところがあのキリストの十字架が見えて来ます。先在のキリストは、天地万物の初めより、命であり光であるお方として、あの十字架の贖いを目指しておられたのではないでしょうか。十字架を通して、神の命と光がわたし達に無償で与えられたのです。

そしてこのキリストの流された血潮と裂かれた肉の贖いの力が、キリストの命と光として全世界に宣べ伝えられ、証しされてゆくことを願っています。この真理の光に照らされた私たちは、同じ光の子として、この闇の世界を照らし出す世の光となって行きたいと願っております。クリスマスの季節を迎え、世の人々に、この命であり光であるお方イエス・キリストのお誕生を告げ知らせてまいりましょう。 

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