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命ある限り主を讃美せよ (詩編146・1~10)

メッセージ

2010年9月26日富里教会
「命ある限り主を賛美せよ」
(詩編146:1~10)

1. わが魂よ、主を賛美せよ

昨年の12月だったでしょうか、印西市にあります東京基督教大学の「メサイヤ」の演奏会に行ってきました。大きなチャペルで、大学の聖歌隊とオーケストラの演奏会がありました。皆さんもご存知のとおり、このヘンデルが作曲した「メサイヤ」の最後の部分が、有名な「ハレルヤ・コーラス」となっております。聖歌隊とソリスト、オーケストラが一緒になって、「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ・・・」とハレルヤだけの歌詞で最後まで賛美する場面です。

私も、テープでしかこの演奏を聞いたことがありませんでしたが、実際の生の聖歌隊で、昨年初めて聞きました。そして、目をつぶりながら、全神経を集中して聴いていましたら、本当に目の前が天国のような、天使達の大合唱を思わせるような気持ちになりました。わたしの期待以上に、すばらしい演奏会でした。毎年やっておりますので、今年も皆さんと一緒に聞きに行きたいものです。

賛美の力はすごいです。主を賛美するところに私たちの力があります。ネヘミヤ書8:10「主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源です。」とあります。そしてまた、私たちは「神の栄光のために創造され、形づくり、完成された者」(イザヤ43:7)であります。「神の栄誉を語り伝えるために創造された者」(イザヤ43:21)なのです。この神様の御業をほめたたえ、その栄誉を賛美することこそ、人間の本来あるべき真の姿なのです。ですから、この詩人は生きている限り、主を賛美すること、これこそ私の人生の生きがいであり、私の本来あるべき姿だと言って自分自身を励ましております。それが、この冒頭の言葉です。

「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
 命のある限り、私は主を賛美し、
 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。」(詩編146:1~2)

この人は自分の魂に向って、呼びかけています。どこか気持ちが晴れないことでもあったのでしょうか。でも、たとえ気持ちが落ち込んでいても、萎えていても、まず主の前に出て、主に顔を上げ、賛美の声をあげる時、あるいは賛美の祈りを献げる時、心に喜びと感謝が満ちあふれてくることはないでしょうか。

2節に「命のある限り」とか「長らえる限り」という言葉があります。おそらくこの詩人は、年をとっているか、自分の生きる時間が残り少ないことを知っていた人ではないでしょうか。ですから、限られた人生、最後まで全力を尽くして主を賛美して行こうと、自分に言い聞かせております。リビング・バイブルには1節をこう訳しています。「真心から、神様をほめたたえましょう。生きている間はもちろん、死ぬ間際の虫の息でも、神様を賛美します。」と。

四国にいた時、一人のおばあさんの臨終に教会員の皆さんと家族と一緒に立ち会った時があります。自宅の大広間でおばあちゃんを囲んでみんなで輪になって、賛美歌を歌いながら主の御許に送り出したのを覚えております。兄弟姉妹に見守られ、賛美歌をいっしょに歌いながら天国に昇って行かれました。私もできればそうして欲しいですね。

2.幸いな人生

「君候に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、
その日、彼の思いも滅びる。
いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み、
主なるその神を待ち望む人。天地を造り、
海とその中にあるすべてのものを造られた神を。」(146:3~6)

私たちは皆、確実に死を迎えます。クリスチャンであってもなくても、遅かれ早かれ死はやってきます。私もおそらく、せいぜいがんばってもあと20年くらいまででしょうか。必ず死はやって来ます。その時あなたはどうしますか。
まだ神様を信じていない方は、自分の死に向って、その現実に耐えることができるでしょうか。堂々と死を迎えることができるでしょうか。どこへ行くか分からない、真暗闇の世界に入ってゆくかもしれません。聖書では永遠の裁きとして、地獄の火と硫黄が待っていると書かれています(黙示録20:12~15)。まだ、間に合います。今こそ信じる時かも知れません。

クリスチャンの方にも、死は確実に来ます。その時、イエス様のところに行く準備ができているでしょうか。死の間際に、「先生、復活ってあるんですか」と私に尋ねないで下さい。そもそも、死は各自、自分で経験しなければなりません。「岡田先生がそばにいるから、大丈夫だ」と思わないで下さい。「○○さんと、一緒だから大丈夫だ」と思わないで下さい。「妻がクリスチャンだから大丈夫だ」とも思わないで下さい。私たちは臨終の時には、そばにいてとりなしはできますが、あくまでも死は本人と神様の問題です。

ですから、もしまだ信仰の確信、復活の希望が待てないなら、今のうちに一生懸命、聖書を読んで下さい。そこにはっきりと書いてあります。私たちはもっと真剣に、生きることに死ぬということについて、今、取り組むべきだと思います。そして、その答えを、聖書の中から見つける必要があります。そして自分で、一人で御言葉の確信をつかんでいただきたいと思います。もちろん一緒に学ぶことはできますが、聖書の啓示を受けるのは本人以外にありません。人間や友人や奥さんに頼ってはいけません。「君候に依り頼んではならない。人間に救う力はない。」とあります。牧師の私により頼んでも意味がありません。御言葉の説明やとりなしの祈りはできますが、私には救う力はありません。救うのは神様です。福音である御言葉だけに、救う力があります。それは自分で探求し、発見するしかないのです。自分で気づくしかないのです。

3.永遠に真実なる主

最後に、変わることのない主の真実を見てみたいと思います。
「とこしえにまことを守られる主は、虐げられている人のために裁きをし、
 飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち、
 主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。
 主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。
 しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。」(146:6b~9)

6節の後半に「とこしえにまことを守られる主」とあります。とても美しい、そして慰めに満ちた言葉です。「永遠に真実であられる主」という意味ですね。
私たちは、時には虐げられ、辱めを受けるような立場に置かれるかも知れません。先週も、正義の味方であるはずの検事が、証拠の書き換えまでして、一人の人を有罪にしようとしました。私たちもいつなんどき、そういう被疑者の立場になるかもしれないと思うと、恐ろしくなりますが、神様は「虐げられている人のために裁きをしてくださり」「捕われている人を必ず開放してくださる」お方です。

必ず、助けて下さるし、支えて下さるし、起こしてくださるし、解放して下さるし、守って下さるお方です。目を開いて下さるお方です。そのようなお方を信じて、いつもこの方を賛美しながら、感謝しながら歩むことができる人生こそ、幸いな人生ではないでしょうか。ですから、「わたしの魂よ、主を賛美せよ!」と言わずにはいられないのです。

人生の最大の幸福は、この主の御言葉に信頼し、その御言葉が成就することを待ち望みながら、一歩一歩着実に歩む人です。天地万物を造り、私たちの罪を贖い赦し、私たちを死人の中から復活させて下さる神様を、信じて、信頼して待ち望む人です。神様を信頼することのできる人は、神様を待ち望むことのできる人です。「信頼」と「待望」は信仰の両面です。そのような信仰を持ったクリスチャンこそ、幸せな人生を送ることができるのではないでしょうか。人生の真の幸福はそこにあります。               (岡田 久)

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